目を開ける。
部屋じゃない。
自分の家、じゃない。
遠くでは陶器のぶつかる音や。
水音や。
油が飛び散る音。
はっとし。
わたしは起き上がった。
見ると、目の前のテーブルには何皿か料理が並んでいる。
キッチンを見ると。
珪くんが手際よく料理を作っていた。
「……珪くん」
振り返って珪くんはわたしに気づくと。
優しく微笑んだ。
「起きたか?」
「わたしだいぶ寝ちゃったんだ……ごめんね。 珪くん、料理?
わたしが作るよ」
「いや、もう終わるからそこにいろ」
火を止め皿に盛り付け。
最後の料理を手に持ち。
わたしの横にやってきた。
「……料理できるの?」
「できないと思ってたろ? うち、誰もいないから少しくらいはできる……おまえほど上手くないけど」
パスタを小皿に分け渡される。
大量に乗るそれ。
「ほら」
「け、珪くん……食べれないよ、こんなに……」
「おまえ、痩せたろ」
ぎくりとして。
わたしは珪くんを見た。
その図星の反応に。
珪くんは溜息をつく。
「そんなこと、ないんだよ……ちょっとした、ダイエット」
「……嘘つくな」
「………………」
「……ゆっくりでいいから、食えよ。 味は保証できないけど」
促されわたしはパスタを口に運ぶ。
すると。
また涙が零れ落ちた。
「ほら、泣くな」
珪くんは親指で涙を拭ってくれる。
「……美味しい」
「………………」
「珪くん……わたし、嬉しい……」
わたしの頭を優しくポンポンと叩いて。
珪くんは笑ってくれた。
「……でも珪くんと付き合うようになってから、わたし本当に体重増えちゃったんだよ?
だから、ちょっとは珪くんに見合う子になりたくて……」
「バカ……」
「何で? 痩せてる方がいいでしょ?」
わたしの頬っぺたをつまんで、珪くんは言う。
「おまえ、男心わかってない……痩せすぎはよくない……おまえはもう少し太ったほうがいい」
「そういうものなの?」
「そういうもん」
二人で食べ終え。
食器も洗い終えれば。
ソファに座ってる珪くんが隣をぽんぽんと叩いて座れと促す。
座ればわたしは片手で肩を抱かれ。
珪くんに身をまかせる。
逢わない間のことをいろいろ話した。
傍にいなくて寂しかったこと。
身が引き裂かれそうだったこと。
珪くんが。
こんなにも。
わたしにとって。
存在が大きかったこと。
「尽に聞いた……泣かなかったんだろ?」
「………………」
「おまえのそんなの、見たくない……もうずっとここにいるから」
と、わたしの肩を抱く手に力が込められ更に引き寄せた。
「わたし……ここにいていい? ずっと珪くんの傍にいてもいい?」
「バカ……俺にはおまえしかいないって言ったろ」
「あ……」
左手の薬指に気付く。
「夏野……ごめん…………俺……とんでもないこと、おまえにさせた」
首を振った。
それはわたしが勝手にやったこと。
珪くんがわたしだけのために作ってくれた指輪。
どうしても。
どうしても、填められなくなっても。
持っていたかった。
珪くんがわたしの名前を呼ぶ。
顔を上げれば。
珪くんはわたしの唇に自分の唇を重ねた。
それは一瞬で。
「……あったかいね、珪くんの唇」
「……そうか? 冷たくないか?」
「ううん……なんか、懐かしいな……ずっと忘れてた気がする」
「………………」
「忘れなきゃいけないような気がしてた……もう二度と触れられないと思ってた……」
「……俺は忘れなかった」
「珪くん……」
「忘れられなかった、おまえの唇とか体温とか……」
親指の腹で。
わたしの唇をなぞる。
「ずっと、触れたかった……」
再び顔を近づける。
触れてる部分から体中の細胞という細胞が。
生気を取り戻している気がしていた。
何度も味わっているキスよりは。
とても甘く。
うっすら目を開けると珪くんの長い睫毛が見えた。
長い長いキスが終わり、ようやく大量の酸素を吸収すると。
「明日……大学休みだよな……?」
「え……? うん休み」
「なら……」
珪くんは少し目を伏せ。
「なら……今日泊まっていかないか……?」
聞きなれない言葉にもう一度聞きなおした。
「え?」
「……だから今日泊まっていけよ……うちには誰もいないから…………それに……俺が今日帰したくない」
わたしは笑って。
珪くんの胸で目を閉じる。
「あ、ねぇ……そういえばイタリアどうしたの?」
「仕事急かして早く切り上げたんだ。 俺だけひとり帰ってきた。
おまえと早く逢いたくて……早く理由を聞きたくて」
抱き締めた腕がなお一層力が入った。
わたしも。
彼の首に腕を回す。
「ケンカはイヤだからな……そういうの苦手だし……」
「そうだね……ごめんね、珪くん……」
「俺も、悪いんだ……おまえを不安にさせるようなことしてきたから……モデルも、辞めるから……」
「え……?」
わたしはビックリして彼を見た。
「でも…………」
「これで食っていこうとは思ってないし……それにもうおまえがこうしていてくれるから……」
キスを何度も何度も繰り返し。
「なぁ、夏野……俺、もう限界……来い」
「え?」
立ち上がってわたしの手を引く。
2階の真っ暗な珪くんの部屋に連れ込まれ。
ベッドの上にわたしを座らせ。
何度も角度を変えては濃厚なキスをしてくれる。
「……おまえが一番逢いたかったの……誰だ?」
「え……?」
「誰なんだ?」
「珪くん、だよ……」
「おまえは一番誰の傍にいたいんだ?」
「珪くん……」
「おまえは誰と付き合いたいんだ?」
「……珪くん……」
「……おまえが一番好きなのは……誰だ?」
瞬間わたしの視界が。
揺らいだ。
「……け、いくん………………珪くん、だけ……」
「嘘でも、もう誰かを好きになったとか誰かと付き合うなんて二度と言わせない」
泣きながらわたしは答える。
「……うん…………うん……」
「……だからもう、無理……おまえを壊れ物みたいに扱うの……いろんなおまえが見たい……顔も、声も…………遠慮しない。
もう俺だけのものにする」
「珪くん……」
「おまえを傷つけるけど……いいか?」
わたしは珪くんの首に抱きつき。
何度も。
何度も頷いた。
雨が止み、月明かりがカーテン越しに部屋を仄かに照らす。
互いに何も纏わぬ姿で。
再び珪くんに全てを曝け出す。
珪くんの名前を何度も呼んだ。
珪くんもそれに応えて。
手をずっと繋いでいてくれた。
「力……抜け」
珪くんがわたしに刻まれようとした時。
身体が裂けそうになった。
声を上げた。
でも珪くんは。
今度は止めなかった。
珪くんの背中に回した腕に力が入り、爪を立てる。
眉間に皺を寄せ、珍しくうっすら汗をかき荒い呼吸をし歯を食い縛る。
初めての珪くんのそんな姿を涙越しに見た。
珪くんが。
わたしの一番近くにいる――。
痛いのと。
嬉しいのと。
いろいろな意味の涙がぽろぽろと零れ。
時間をかけてゆっくりと。
その日わたしがようやく珪くんのものに、なった。
「signal ―scene 9 涙の意味」 |
20170225 |