「……夏野」

「………………はい」

 

バスルームの曇りガラスのドアの向こう。

水音と夏野の声が、小さく響く。

 

「タオル……置いとく」

 

 

 

脱衣所にタオルを置いておき。

リビングに戻り。

再びソファで屈んで。

夏野が風呂から出るのを待った。

俺は。

歯を食い縛り。

肌が白くなるくらい拳を握った。

苛立ちを隠せなかった。

それは夏野に向けてのものじゃない。

 

 

なんなんだよ、あれ……。

 

 

自分に。

自分自身に。

苛立っていた。

 

 

 

『ねえちゃん……最近あんま食わないんだ……』

 

 

 

さっきから尽の言葉が何度もよぎる。

教会で夏野を見つけた時。

 

ほっとしたと同時に。

身体全体が引き攣る感覚に襲われた。

人違いだと思いたかった。

生気がなかった。

 

着ている服から出る手もスカートから流れ出る足も。

前に見た夏野より一回り小さく見えた気がした。

 

元々折れそうな身体も、一層痩せて見えて。

消え入りそうな肌の色も、輪をかけて白くなっていた。

極めつけは、夏野を抱き上げた時。

前に抱いた時よりも。

多少軽くなってて。

 

熱くなった目頭を押さえて、俺は一人項垂れていた。

 

 

 

 

 

暫くして、俺の服に身を包んだ夏野がリビングに戻った。

 

「……ごめんなさい……あの、ありがとう……わたし、その……帰るね」

 

俺はゆっくり。

顔を上げる。

 

「服……まだ洗ってない……」

「あ、あの……家で洗うから……傘貸してもらえれば、それで帰るから…………珪くんの服も、洗って返すから……」

 

帰ろうとする夏野に。

俺は立ち上がり。

夏野の前に立ち塞がる。

その手首をしっかり握れば。

びくっとして夏野は俺を見た。

怯えるように。

 

「怖いか……? 俺と一緒にいるの嫌か……?」

「そんなんじゃ……でも、珪くん、早くお風呂入らないと風邪ひいちゃう……」

 

俺は。

夏野を抱き締めた。

より細くなった感じがする身体に少し戸惑いながら。

 

「そしたら、その間に……おまえ帰るだろ……?」

 

夏野はゆっくり俺の体から離れ。

震えながら。

 

「……珪くん、ダメだよ……わたし、姫条くんと……」

「もういい……」

 

吃驚したようで夏野はその大きな瞳を更に大きくした。

 

「……今日、姫条と藤井に会った……聞いた……何もかも」

「えええっ!? あ、あの…………え、えーと……」

 

夏野はあちこち目を向ける。

俺から離れる理由を考えているのか。

俺はたまらず。

 

「何であんなこと言うんだ……俺のこと嫌いになったのか……?」

 

夏野は。

それは絶対に違うと何度も首を横に振った。

 

「……怒らないから、正直に言え」

 

暫く見つめあったまま。

沈黙が続き。

夏野が口をようやく開けた。

口角が上がる。

それは。

俺の見たことのない。

きっと作り物の笑顔で。

夏野にできる精一杯だったのかもしれない。

 

「……わたし……珪くんのこと大好き……」

 

俺は黙って夏野の言うことを聞く。

 

「でもね、わたしトロくて珪くんに迷惑かけてばっかで……頭もそんな良くないから大学もようやく入れて、そんな魅力もないし……美人じゃないし…………でも、珪くんはとてもカッコよくて素敵で背も高いし、頭はいいし運動神経も抜群だし……わたしと……」

 

そこで黙ってしまった。

 

「……わたしと?」

「わたしと……合わないんじゃないかって……だから……珪くんとは……」

「………………」

「この間撮影現場行ったときも珪くん違う世界の人に見えた。 すごく近くにいるけど、すごく遠い…………やっぱりとても輝いていて……わたしの入り込めない世界だなって……。 あのモデルの人も……大人で、わたしにないものばっかり持っていて……珪くんもいい表情してたし……だ、から……珪くんにはわたしなんかより、もっと綺麗で素敵な女の人のほうが似合うんじゃないか、って……」

 

夏野はこれ以上顔は上げられないと言わんばかりに。

俯いた。

 

「だから……ありがとう、すごく幸せだった……珪くんが言ってくれた言葉、嘘でも嬉しかったんだ……」

 

俺に感謝の言葉を告げる。

そんなこと、聞きたくない。

言わせたくない。

 

「……誰かに何か言われたんだろ……? 俺と付き合うなとか……」

「………………っ」

 

夏野は口元をきゅっと締めて。

首を振った。

それは俺が見ても。

俺はそっと俯いてる夏野の両頬に自分の手を宛がい自分に向けた。

途端。

 

その反動で夏野の瞳から大粒の涙が流れ落ちた。

 

「あ……」

 

今まで何度も泣いたのを見たことはあった。

でも。

 

こんなにも悲しい涙を見たのは初めてだった。

 

いつも元気な夏野が。

悲しく泣いていた。

 

「あ、はは……ごめんね……っ」

 

夏野は再び下を向き。

目を擦ろうとしたが。

俺はそれを許さず両手首を掴んだ。

 

「お願い……っ! 帰らせて……!」

「ダメだ……!」

「何で!? だって珪くん、わたしが……わたしがいたからみんな……珪くんまで傷つけちゃったんだよ!?」

「………………」

「わたしが珪くんと付き合っちゃったから…………誰も怒ることも傷つくこともなかったのに……」

「………………」

「わたしが……自分のことしか考えなくて…………珪くん独り占めしちゃったから……」

 

夏野の声は震えていた。

 

「珪くんの足枷になりたくない……」

「………………」

「迷惑かけたくない…………珪くん、モデルさんだし、夢がある人だから……」

 

俺は口を開いた。

 

「おまえは……自分のことより他人の方が大事なのか?」

 

夏野は俺の目を見ることはなかった。

 

「俺は……他の誰を傷つけても、おまえと一緒にいたい」

「………………」

「……だから、おまえと離れたくない」

 

俺はずっと掴んでいた手を解放し、夏野の両肩を掴む。

赤く手跡が残る。

 

「…………夏野……おまえは……俺と別れたいのか……? またいなくなるのか……?」

 

夏野は黙って泣いていた。

 

「おまえが俺の前からいなくなるんだったら……俺には何も意味がない。 俺を必要としてくれるのはおまえだけでいい……俺もおまえ以外いらない」

「珪くん……」

 

俺はひとつ息を吐き。

 

「おまえの代わりなんて……どこにもいない」

 

夏野の髪を撫でて。

静かに笑った。

 

「……俺、子供の頃初めておまえに逢って、高校で再会して……卒業式の日に付き合い始めて…………出会うべくして出会ったと思ったんだ」

 

夏野の髪が開けてあった窓から入り込んだ風によってなびいていた。

外は相変わらずの雨。

まだ降り止まない。

 

「それであの日決めたんだ…………どんなことがあってももう手放さない、一生捉まえておこうって」

「………………」

「ずっと俺は独りだったから……おまえと初めて逢った時を忘れなかった。 海外へ行った後、はばたきに戻ったらおまえはいなくて……俺は引っ越したの知らなかったからずっと探してた…………モデル始めたのは確かに知り合いの依頼だったんだけど……この仕事していればおまえが気づいてくれるかもしれないと辞めるに辞められなかったんだ」

「え…………」

 

夏野は話を続ける俺を。

穴が開くほど見る。

 

「きっかけは、子供の頃の約束かもしれない……けどおまえを好きになったのは全然関係ない。 あの約束がなくても……俺はおまえのことが好きになってた。 義理でも義務でもない」

 

夏野は泣くのを忘れ。

食い入るように。

そこまで言って。

俺は夏野を引き寄せ抱き締めた。

 

「俺、おまえのいろいろな顔見てきて、どの顔も……泣いた顔も好きだけど、やっぱり笑った顔が一番好きだ」

「……珪く……」

「もう嫌だ……二度と嫌だ、こんな思いするのは」

 

俺より20cm以上身長差のある夏野。

胸のあたりで潤んだ大きな瞳を俺に向けていた。

本人はそう自覚していないと思うが。

 

助けて欲しい。

 

そう瞳で訴えられているような気がして。

いたたまれない思いがして。

自分の両手で夏野の両頬を包み。

何度も何度も謝った。

自分のせいで夏野を傷つけてしまったこと。

額を夏野の額に当て。

 

「ごめん……本当にごめん………………守ってやれなくて……気付いてやれなくて」

「……ふぇ……」

 

ふいに大量の涙が夏野の瞳から溢れ出て。

泣いた。

俺の胸に顔を埋め声を上げて。

泣いた。

背中に回した両手は。

俺のシャツを皴になるほどぎゅっと握り締めて。

俺は、何度も謝った。

夏野は、何度も俺の名前を呼んだ。

 

 

こんな自分を知ったら嫌われるかもしれない。

けれど。

寂しくて。

悲しくて。

縋りたくて。

不安で。

 

離したくはない。

譲りたくない。

 

ずっと一緒にいたい。

ずっと独り占めしたい。

 

俺はモデルで、いつでもこの腕からすり抜けてしまうような人だから。

捨てられないよう頑張るから。

 

だから嫌いにならないでと。

 

夏野は俺に懇願した。

俺はきつく息もさせないほど抱き締めた。

 

 

 

「バカ……そんなことあるわけないだろ……?」

 

 

 

夏野が初めて心の底を見せた時。

夏野にとっては醜い部分であったのかもしれない。

そんな夏野を知ることができなかった自分の非力を責めたと同時に。

卑怯かもしれないけど、夏野の口から本当の気持ちを言ってもらえて。

 

俺は少し笑って目を閉じた。

本当の夏野を知ることができて、嬉しく思っていた。

 

 

 

どのくらい、そうしてたのか。

夏野の声が小さくなっていくのと同時に。

俺に身体を預けていた夏野が、徐々にずり落ちた。

慌てて夏野の身体を支える。

 

「……夏野……?」

 

その場に座らせて覗くと、夏野は気を失っていた。

極度の不安から解放されて。

気が抜けたのだろう。

涙の跡に沿ってキスをしてやると。

ソファに運び。

2階のベッドから毛布を持ち出し夏野にかけてやった。

 

その時。

俺は夏野の首に気付く。

髪の毛で隠れていて気付かなかった。

ネックレス。

俺はそっとネックレスを手に取り。

重い感触が手に伝わる。

そのペンダントヘッドを見て。

目を見開いた。

 

そこには投げ捨てたはずの指輪。

夏野の指から抜き取り、自ら川に放った指輪。

 

「おまえ……これ……拾ったのか……?」

 

姫条の言葉を思い出す。

川の深さだって足首どころじゃないはずなのに。

川の水だってまだ冷たいはずなのに。

 

俺は起きる気配のない青白い顔の夏野を見た。

 

川に入って指輪を探す夏野を想像する。

どんな思いでこんな小さい指輪を拾ったんだろう。

 

俺を恨んだかもしれない。

俺を憎んだかもしれない。

 

なのに夏野は。

俺の元に来た。

 

痛くなる胸を押さえ。

夏野に口づけする。

こんなにも大事にしてくれた指輪。

 

「俺は……俺は何てことしたんだろうな……おまえにここまでさせるなんて…………俺は……夏野…………夏野……」

 

うわ言のように名前を何度も口にし、暫く夏野を抱き締めていた。

夏野を起こさぬよう、ネックレスを外し指輪を取ると。

夏野の左手薬指に填めた。

 

 

 

 

 

携帯を履歴を押し、最初に出る番号に電話をかける。

 

『もしもし』

「……俺、葉月」

『葉月? ねえちゃん、いたか?』

 

相手は、尽。

 

「ああ……見つけた」

『そっかー、よかったー』

「今寝てる…………今日は家で面倒見るから……」

『え? ああ、じゃ頼むわ。 うちの両親にはうまく言っといてやるよ』

「……悪い、そうしてくれ」

 

電話を切り、再度夏野に向く。

目を腫らして横になっている夏野を見て。

俺は傍に跪いて頬を撫でる。

 

「……ごめんな」

 

このまま傍にいたい。

起きたら安心できるよう。

自分はいつもここに。

おまえの傍にいるんだと安心できるよう。

笑顔で迎えたい。

 

 

そう決めて一つ頬にキスをし、立ち上がってバスルームへと向かった。

 

 

 

 

 

「signal ―scene 8 心の底」
20170218



ようやく完結の方向です。
でもまだ続きます←オイ










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