大学の休講の時間。
久しぶりの休暇。
久しぶりの森林公園。
昔から自分の大好きな所。
今の時期の芝生も、噴水池も、並木道も。
街の喧騒から逃れていてとても安心できる場所のひとつ。
とても気に入ってて。
高校に入ってから。
もっと好きになった。
「よく来てたな………………ふたりで……」
一番よく来ていたデート場所。
春夏秋冬違う顔を見せるここ。
俺にとってとても思い出の深い土地。
たぶん。
あいつと一緒だったから。
弁当を作ってきてくれてここで食べたこと。
ふたりで一緒に昼寝したこと。
桜並木を見上げてまた来年も来ようと約束したこと。
もう二度とあの日々は戻ってこないのだろうか。
「一ヶ月……もっとか……」
夏野と会わなくなってそろそろ一ヶ月半。
電話をすることもなくなり。
大学でも逢わなくなった。
厳密に言うと。
一度だけ見かけた。
逢わなくなって。
話さなくなって間もなく。
大学の講義終わりに女たちが自分の周りで黄色い声を出しうんざりしていた時。
遠くにいる。
夏野の後姿を見かけた。
俯いていて、それがとても小さく見えて。
もし夏野が泣いているんだったら。
走って傍に行きたかった。
この手で抱き締めたかった。
夏野の中には違う人物がいて。
それでもいいから。
もっと嫌われてもいいから。
俺は目を瞑り。
手を握り締めた。
こんなに声を聞いてないのは初めて。
こんなに顔を見てないのは初めて。
「俺、何か言ったか……? おまえを傷つけたか……?
この間怒ったからか……?」
――何やってんだよ。
俺……。
商店街の時も。
自分でもいささか大人気ないことはわかっていた。
確かにあの時、前の日まで夏野と十分に逢えてなかった。
でも。
唯一わかってくれてると思っていた彼女からあんな言葉を聞くなんて。
何であんなこと言うんだって。
おまえも所詮他人と同じで本当の俺を見てはくれないのかって。
――違う。
夏野のせいじゃない。
昼間から仕事をしなければ夏野との時間も増え。
仕事場に呼べば夏野とも逢えた。
だけど、敢えてそれをしなかった。
もし。
夏野が全然俺と逢えてなくて。
寂しい思いをしてたのなら。
俺は。
間違ってたんだ。
焦らなくても良かったのに。
逢ってあげられなかった。
だから。
夏野が。
俺の元を去った――。
別れ際の夏野の顔を思い出す。
怯えてたな。
おまえ、怖かっただろ?
ごめん、夏野。
本当に、ごめん。
そんな自問自答を繰り返しながら。
池沿いのベンチに腰掛けて、水の中の魚を見る。
何気に。
そんな遠くない対岸を見る。
見るとよく知った顔が二つあった。
顔が引き攣った気が、した。
姫条と藤井。
俺の中で。
何かが。
沸き起こる。
それは。
きっと。
穏やかなものじゃない。
「なぁ、夏野ちゃんどうなんや?」
「どうもこうもないわよ……夏野は………………あれ……?」
「どないし……」
二人が俺に気付き、藤井が叫んだ。
「げ! 葉月!!」
俺は咄嗟に走り出し。
姫条の胸倉を掴んで怒りをぶつけた。
「まだおまえの話聞いてなかったな………………おい、どういうことなんだよ」
自分でも吃驚した。
こんな形で。
人に問い詰めることなんて。
姫条は。
「何やねん! 俺が聞きたいわ!!」
「何だよ」
「だいたい、いつも自分悪いんちゃうんか!? あの娘にあんな顔させといてやな!!」
「……!」
「こないだ、会うたで」
「は…………?」
「ぎょっとしたで……夏野ちゃん、川ん中でずぶ濡れんなって」
「…………え……」
姫条が何を言ってるのか。
俺にはわからなかった。
「“良かった”って……“もう填められないけど”って…………あんな顔すんのも、川ん中入んのも!
全部自分が原因やろ!」
「…………っ……!」
「“俺の日”は終わったって…………俺は何もできひんかった……」
姫条が吐くように。
言った。
「葉月……これには訳があんのよ」
藤井が俺を姫条から引き剥がし。
「訳……? おまえら、付き合ってんのか?」
「んなワケないやろ!」
「そうよ! 誰がこんな……」
「……いいから、その訳を聞かせろよ」
俺は藤井に問う。
「あの娘……悩んでたのよ…………葉月と付き合うようになってから……」
俺は目を閉じ。
小さく息をついた。
ああ。
俺と付き合うのそんなに嫌だったのか。
なら、卒業式の時断ってくれればよかったんだ……。
続けて。
藤井の言葉を黙って聞いた。
「一ヶ月……二か月くらい前かな……夏野から相談があったんだ。
“姫条くんと連絡とれるかな”って……」
「こいつから電話あって……それで3人で会うたんや」
「夏野、まどかの番号変わっちゃったから知らなくて……で、会ったんだけどまどかに“一日だけわたしの彼になって。
本当に一日だけ”って」
「……ホンマ、いつもの俺なら嬉しかったんやけど……」
藤井は姫条を睨みつけながら続ける。
「わかんないアタシに夏野……泣きそうな顔して何度も何度も、アンタのこと好きなんだよって……」
俺は。
目を見開いた。
藤井の話を。
信じられない思いで。
………………嘘……?
「で、アタシわかんなくて志穂に聞いたの。 なんで夏野、あんなこと言うんだろうって。
そしたら……」
言葉に詰まった藤井に代わり。
姫条が話に割って入ってきた。
「夏野ちゃん、いじめ……でもないけど、大学のおまえのファンっちゅうのに結構嫌がらせされてたみたいやで」
俺はますます。
わからなくなる。
でも気づいた時には。
踵を返してその場から走り去っていた。
「葉月! ちょっと待って!! 今、夏野はっ……!」
後ろの方で二人が何か叫んでいるような気がした。
でも今の俺には。
何も届かなかった。
確かに。
高校の時にも多少はあった。
けど、俺は常に夏野といた。
守ってやれてた。
夏野も。
夏野の笑顔も。
消えることはなかったんだ。
でも。
今。
俺の知らない所で。
夏野が。
……俺にならともかく。
あいつを……!
絶対。
夏野を傷つけることなんて。
あってはならないことだった。
「ち、きしょう……!」
夏野がそう思うなら、と。
一時は身を引いた。
夏野がそれで幸せになるなら、と。
忘れてたんだ。
おまえがいなくなったら。
俺が俺でなくなるのに。
いつも一緒にいたから。
それが当たり前だったから。
ずっと忘れてた想い。
気がついてやれなかった。
夏野を守れなかった。
俺は自分の非力さを恨みながら。
無我夢中で大学へ戻った。
さっきの天気とはうって変わって。
今にも降り出しそうな雲にも気付かずに。
大学の校門を潜る。
俺は自分の息も整えないまま。
自分の周りにいるちょろちょろしてる連中を探した。
うざったくてあまり顔もよく知らない、名前も知らない。
でもなんとなくそんな中にいたような顔の集団が俺を見つけて。
飛びついてきた。
「今日、葉月くんは授業あるのー?」
「今からみんなでお茶でも飲もうかっていってるんだけどー」
「ねぇ、これからどっかに行こうよー」
甲高い声があちこちから聞え。
苛々する。
俺はいてもたってもいられず。
近くにあった壁に自分の拳をぶつけながら怒鳴った。
「いい加減にしろ!」
女たちは今まで見たこともない俺に吃驚したんだろう。
一瞬にして黙りこくった。
「……おまえらか……? あいつに嫌がらせしてたのは……?
答えろ……」
暫く黙ってた女たち。
そのうちのひとりが恐る恐る口を出した。
「そ、そうよ! 私たちは、誰も抜け駆けしないようにしてるのに…………あの娘だけ……なんでよ!」
その言葉を言った女に。
「何で……? 当たり前だろ、俺の女だからだ」
俺は本当に冷ややかな視線を女に送った。
何の感情もない視線。
「あいつに何してくれてたんだよ……言ってみろよ、なぁ」
誰もが口を閉ざす中。
ひとりの女が。
「……服とか鞄、破いちゃったり……」
「………………」
「髪……引っ張っちゃったり…………す、すみま」
「同じこと、されてぇのか……? そんなことしてるおまえらに、俺の気持ちが向くと思ってんのか……?」
もう、誰も口を開かない。
「ふざけんじゃねぇよ……おまえらは、モデルの俺がいいんだろ……?
辞めてやるよ、そんなもん。 その代わり、今度あいつに何かしてみろ……俺が許さねぇからな……」
睨み付け女たちを一蹴して。
俺はその場を後にした。
ぽつぽつと道路に染みをつけるように降っていた雨が勢いを増す。
大学内で夏野を探す。
逢いたくて、謝りたくて。
苦労もむなしく。
校内には夏野の姿はなかった。
そうだ。
携帯……。
そう思った瞬間だった。
俺の携帯がパンツの後ろでけたたましく鳴り響く。
知らない番号。
でも。
もしかしたら。
普段なら決して出ないが。
もしかしたら夏野が別の電話からかけてきてるのかもしれないと思うと、出ずにはいられなかった。
相手は尽だった。
「もしもし……っ」
『あ、葉月!? ねえちゃん知らないか?』
瞬時に血の気が引いた。
夏野の危険を察知し。
尽を問い詰めた。
「何だ? 夏野がどうした……!?」
『ねえちゃん、さっきからどこにもいないんだ。 連絡も取れないし、今日大学ないけど黙って出て行くねえちゃんじゃないし……雨降ってるけど傘うちにあるしさ。
ちょっと心配だったんだ……てゆーか……』
「………………」
『ねえちゃん、あんなになったの……葉月のせいだろ?』
「………………」
『……ねえちゃんに口止めされてたんだけど……もう、俺あんなねえちゃん見てらんねーよ』
「……なんだ?」
『おまえがイタリアだかどっか行く前に、おまえのマネージャーが家に来たんだ』
「あの女が……? 何でだ……!?」
『葉月と別れろって』
「な……!?」
その言葉で。
俺は驚愕した。
信用できない女だとは思っていたが。
“別れろ”……?
それを口にしたのか……?
『それからは何言っても上の空さ。 こっちの言うことなんか聞こえてんのか、聞こえてないのか……』
「………………」
『……なあ、葉月さ、うちのねえちゃんのことってなんでもわかるか?』
「………………ああ」
俺は人一倍。
あいつのことを知ってると。
自負してた。
早とちりばっかで、マイペースで。
人のことばっかり考えて、自分のことは顧みない。
おまけに。
『じゃあ、うちのねえちゃん泣き虫なの知ってるよな?』
「ああ……」
『ねえちゃん、葉月とこうなってから一度も』
泣かない、と。
尽は言った。
すぐ泣くあいつが。
嬉しくても悲しくても。
涙を流すあいつが。
泣いていないと。
『ねえちゃん、なんで葉月とうまくいってないのに泣かないんだ?』
『え?』
『いつもすぐ泣くくせに、なんで泣かないんだ? 葉月のことそんな好きじゃなかったのか?』
『……わたしが珪くんを想う気持ちはそんな簡単なものじゃないの。 でも……わたしが泣いちゃったらね、珪くん、きっと優しいから“どうしたんだ?”ってわたしのところに来ちゃうから。
来たらダメなの。 心配かけたくないから……珪くんいつも疲れて帰るからね、珪くんの前じゃいつでも笑っていたいから……』
『ねえちゃん……』
『前にね珪くん、わたしの笑った顔好きだって言ってくれたんだ……安らぐからって。
だから、今は嫌われちゃってるからダメだけど……ほんのちょっとは好きでいてもらえるかなって…………あははっ、まだ好かれようとしてるね、わたし。 もう戻らないのに』
『いつだってさ、本ばっか見てる。 本人は隠してるけど…………おまえの載ってる雑誌だよ』
「………………」
俺は震えた気がした。
いつも笑顔が絶えなかった。
いつだって俺のことばかり気にして。
いつだって俺が最優先で。
『……でも泣いてるんだ』
「………………」
『頼むよ、葉月しかいないんだよ……』
「……尽」
『え?』
「……悪かった」
『俺に謝っても意味ないだろ? ねえちゃんに言ってくれよ』
「姉貴は必ず連れて帰る。 だから待ってろ」
電話を切ろうとした時、尽は叫んだ。
『待って、葉月! ……心配なのは、それだけじゃないんだ……実は……』
「………………」
俺はそのまま表に出て。
携帯を切った。
雨が容赦なく。
俺に降り注ぐ。
眉間に皺をよせて目を閉じて唇を噛み、天を仰ぐ。
ふいに目頭が熱くなった。
泣いてたのかもしれない。
俺は。
『珪くん、あのね』
目の裏に描かれるのは。
俺の名前を呼んで。
笑う、あいつ。
あどけない笑顔に。
俺はいつだって。
癒されて。
満たされて。
目を開けて。
歯を食い縛り。
前を見据える。
思いつめただろう彼女を早く見つけて。
謝って。
強く抱き締めたい。
意を決して走り出す。
俺は構わず。
今日の仕事場のあるスタジオに向かって走っていった。
本格的に降り出している雨に打たれ。
俺もスタジオに着く頃には全身ずぶ濡れになっていた。
スタッフの一人が、そんな俺を見つけ声を上げる。
「珪くん、今日早いね……って! けっ、珪くん!?
どうしたの? ずぶ濡れじゃないっ!? 早くこっち来てタオルで……」
そんな言葉も耳に入らない。
俺はスタッフルームのドアを勢いよく開けた。
俺の姿に。
スタッフは一同に吃驚する。
「どうしたの!? そんな格好で!! 早く着替えて……」
そんなスタッフの声に耳も貸さず。
同様に驚いているマネージャーの前に立った。
「…………どういうことだよ……?」
「え……?」
全員がわからない顔して。
俺を見た。
俺の髪から何滴も雫がしたたり落ちる。
憎い。
誰もかれも憎くて仕方なかった。
「夏野に言ったの、あんただろ……? どういうつもりなんだよ?」
マネージャーは何とか負けないよう。
俺を見据えて答える。
「……そう、私が彼女に言ったの。 あなたと別れてくれって……」
「………………」
「あなた今こんなことにうつつを抜かしてる場合じゃないわ。
芸能界からもオファーが来てるのよ。 あの子は今最高に売れているあなたには、邪魔だったのよ……」
俺はじっと聞いていた。
そうか。
「……わかった」
「わかってくれるの?」
ほっと息をつくマネージャーに。
吐き捨てるように言う。
「この仕事、辞める」
「そっ、それは困るよ! 珪くん!!」
スタッフの一人が声を上げる。
マネージャーも信じられないように俺を見る。
「何言ってるのっ!? 珪、こんなチャンス二度とないのよっ!?
それを……」
「……芸能界……? そんな気最初からない。 あんたに……俺の何がわかるんだ?」
「珪……」
「……こんな“入れ物”なんかいらない。 モデルなら他をあたってくれ。
俺には無理だ。 もう、辞める」
視線を逸らさずマネージャーを見下ろす。
彼女は一言も言い返さなかった。
俺は静かに。
その言葉だけを残して部屋を出た。
唇を、噛んだ。
憎い。
誰もかれも憎くて仕方ない。
もう俺たちを。
放っておいてくれ――。
夏野……。
夏野……!
思い当たりそうな所は全て回った。
夏野と思い出のある所ばかり。
電車やバスに乗れば誰もが俺に驚き。
ずぶ濡れの姿にまた驚き。
だから、嫌なんだ。
でも今の俺に。
そんなことは構わなかった。
家の近くを通ったとき、夏野が雨に打たれてないかと持ち出した傘を持って。
辺りもだんだん暗くなる頃。
雨は相変わらず降り続いている。
さっきの尽の言葉が頭の中をぐるぐる駆け巡る。
一刻も早く探し出したかった。
もうここしかない。
俺は街が一望できる高台に来ていた……。
「signal ―scene 6 嘘の中の真実」 |
20170211 |