二日。
珪くんがイタリアに旅立ってから。
二日目。
夜なかなか寝付けなかったわたしは。
太陽が顔を出しだいぶ明るくなってから、部屋のカーテンを開け。
空を見上げた。
今何してるの?
時差どれくらいかな?
きっと。
今頃も忙しいんだろう。
ちゃんと食べてるのかな。
ちゃんと寝れてるのかな。
いいお仕事、してきて欲しいな。
わたしには何もできないから。
わたしの入り込めない世界だから――。
机で雑誌を見る。
特定の数ページだけ。
何度も行き来する。
そこにいるのは。
触れる。
温かくもない。
凹凸もなければ弾力も、ない。
この瞳は。
わたしを見ていてくれて。
この手は。
わたしに触れていてくれた――。
途端。
電話が鳴る。
びくっとして画面を見ると。
知らない電話番号。
誰……?
マネージャーさん……?
悩んで。
そろそろ切れるかもしれない頃に。
電話に出てみる。
『おはよう……元気か……?』
「け、珪くん……?」
『ああ……』
国際電話をかけてくれた珪くん。
低音の、珪くんの声。
その声が、ずっと聴きたくて聴きたくて。
嬉しくて。
せつなくて。
涙が出そうになった。
『……この間は悪かった……俺、気が利かなくて……』
珪くんが悪いことなんて全然ないのに。
珪くんが謝ることじゃないのに。
全部、わたしが悪いのに。
でも。
卑怯なわたしはその話題には触れられず。
「……どう? お仕事」
電話の向こうの彼は少し笑ったよう。
『ああ……ぼちぼち……。 今、真夜中なんだ。 いいところだよ、イタリア……街は綺麗だし夜景もいい……いつかおまえと』
「……珪くん」
珪くん。
わたし凄く嬉しい。
嬉しかった。
本当にありがとう。
もう、いいよ。
だから。
彼の顔をもう一度思い出して。
彼の声をしっかり頭に叩き込んで。
わたしは。
「……お別れ、しよう」
『………………え?』
態度が変わったのは。
電話越しでも十分分かった。
『……どういうことだよ……』
「……わたし……」
声が震えていた。
自分でも何を言っているのかわからなかった。
「わたし、他の人と付き合うことにしたから……!」
いたたまれなくなって。
そこまで言って一方的に電話を切ってしまった。
言ってはならなかった言葉。
一生。
言いたくなかった、言葉。
口に出してしまった以上、取り消すことが出来ない。
いくら、心になくても。
電話を床に落としたわたしは。
両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。
ごめんね。
ごめんね……!
珪くん……!!
わたしは。
間違ってたかもしれない。
珪くんに言っちゃえば。
いろいろ解決したかもしれない。
でも、言えなかった。
わたしだけの問題。
珪くんには関係ない問題。
迷惑かけたくなかった。
迷惑かけて。
嫌われたくなかったのに。
嫌われた。
でもね。
珪くん。
わたし。
珪くんのこと。
その後。
珪くんからの連絡は一切なかった。
心とは裏腹に照り付ける太陽。
学校内をとぼとぼ歩き、下校していた。
志穂ちゃんを探したけど。
見つからなかった。
誰かと話したい。
誰かと会っていたい。
そうじゃないと。
余計なことまで考えちゃうから。
あれから四日。
珪くんからは電話は、ない。
少し安堵していた。
もう逢えないし。
話せない。
ほら。
やっぱり、夢だったんだ。
珪くんと。
お付き合いしてたこと。
そんなことできるわけなかったのに。
だって。
あの珪くんだよ?
有り得なかったんだよ。
珪くんも。
何かの間違いだったんだよ。
だってわたし。
何の取り得もない。
いい所がなくて。
つまらない女なのに。
なんでわたしなんかを選んでくれたのかなんて。
ちっとも分からない。
でも。
もうないね。
わたしが悪いんだ。
珪くんは悪くない。
わたしが彼を手放したんだから。
下を向いて歩く。
「夏野!!」
聴き慣れた低音。
大きな声で、名前を呼ばれた。
顔を上げれば。
足元には小さめのボストンバック。
腕組みを解き、寄りかかっていた校門近くのオブジェから身を起こし。
長身の男の人がこちらを向く。
一気に。
血の気が、引いた。
「…………え……」
珪くん、だった。
緑の目はわたしを射抜くように。
見たことがないような。
形相。
「………………っ」
わたしは怖くて。
目を合わせず。
校舎に戻ろうとしたその時。
彼は走ってわたしの腕を掴んだ途端。
「…………きゃ……!」
そのまま早足で歩き出した。
「ま、待って! 珪くん! どこ行くの!?」
「………………」
珪くんは答えない。
「待ってったら、わたし恥ずかしい……!」
周囲の視線はわたしたちに注がれている。
「珪、くん……痛い!」
そう言っても珪くんはわたしの腕を離さなかった。
彼の速度に合わせて歩かなければならないわたしは。
半ば走っていた。
大学裏の人気の少ない河川敷の土手。
珪くんは立ち止まり、振り返る。
相変わらず緩まない顔つき。
ゆっくり静かにわたしを見下ろした。
「……この間のあれはどういうことか……説明してもらおうか」
「け、珪くん……仕事は……」
珪くんの目が一瞬ぎらりと光り。
わたしの質問を遮った。
「俺のことはどうでもいいんだよ……おまえに聞いてるんだ」
怖い。
こんな怖い珪くん。
初めて見た。
「夏野……こっち向け」
俯いてたわたしは。
恐る恐る彼に向く。
「どういうことなんだ」
「わたし…………」
迷い。
視線をあちこち泳がせて。
重い口をようやく開いた。
「わたし…………実は……好きな人が、できたの……」
やっぱり。
珪くんの顔をまともに見ることができない。
再度俯いてしまった。
「誰なんだ? 俺の知らない奴か?」
目を閉じて。
答えた。
「………………姫、条くん……」
「………………」
沈黙の時間が続く。
珪くんは。
わたしを非難することもしないで。
掴んでいた腕を離した。
「わかった……」
珪くんの口調は。
さっきよりも勢いがなく。
わたしの左手を取った。
薬指から指輪を外す。
それは卒業式に貰った指輪。
一度だって。
外さなかった珪くんからの指輪。
「……もう、いらないだろ」
指から抜き取った指輪。
珪くんは。
側を流れる川に投げ捨てた。
座り込んで。
一人残されたわたし。
気づいた時には。
珪くんは、いなかった。
わたしは。
指輪が落ちた川から目を離せなかった。
ごめんね。
でもね、これでいいんだよと。
これで、珪くんの邪魔にはならないんだよと。
何度もいつまでも自分に言い聞かせていた。
でも。
わたし。
立ち上がって、その土手を。
草の生い茂る坂を下った。
その後は、よく覚えていない。
何も思い出せなかった。
笑い方も。
泣き方も、忘れたような気がする。
逢わなくなって何日経ったか分からない。
でも一度だけ。
大学で見た。
一際背が高い彼はすぐ分かる。
相変わらず眠そうな顔をして歩いていた。
周りには彼のファンたちが囲っていて。
良かった。
元気そう。
きっとまだお仕事忙しいよね。
あんまり無理しないで。
頑張ってね。
わたしは目を細め。
懐かしそうに珪くんを見ていたんだと思う。
わたしはもう。
珪くんの傍にいられないんだ。
あの中にすらいられないんだ。
「ねぇ、樋渡さん」
わたしの前に。
同じ大学の女の子が二人。
「前に言ったこと、覚えてる?」
「アンタさえいなくなればねー」
この女の子たちだって。
わたしと同じ想い。
もしかしたら。
わたし以上かもしれない。
「わたしたち、もう何も関係がないよ」
「…………え?」
「満足、してくれた?」
笑って。
その場を去る。
同じ想い。
同じ気持ち。
痛いほど分かるから。
もう一度。
珪くんのいた場所を見る。
もう彼はすでにいなかった。
今、だけだよね?
寂しいのも辛いのも。
珪くん。
わたしなんかより、ずっとずっと素敵な彼女できるから。
すぐできるから。
すぐわたしのこと忘れられるから。
それまでちょっと待っててね。
その時は、こんな時もあったねと。
この話が。
笑い飛ばせればいいね。
わたしたちは。
友達以下になってるけれど。
「signal ―scene 5 外された四つ葉」 |
20170202 |