「よし、休憩にしよう!」
その声が上がったと同時に俺はソファから立ち上がる。
目の端に映った。
スタジオを出ていく夏野。
早く、話がしたい。
瞬間。
俺を別の手が引きとめた。
隣のモデルの女を見る。
「ねえ、珪……今日一緒に食事でもどう? 美味しいトコ知ってるの」
上目遣いで俺を見る。
真っ赤な口紅がギラギラして。
それに胸がムカムカし。
何の感情も含まない視線をその女に送った俺は。
勢いよく手を振り解き。
「……気安く俺を呼ぶな。 反吐が出る」
吐き捨てるように言うと、走ってスタジオの外に出た。
だが、どこを見回しても夏野は見当たらなかった。
控え室にも廊下にも、一応覗いた隣の“ALUCARD”にも。
「珪くーん! 再開するよー!」
20分もした頃。
無情にも再開の声が聞こえ。
俺は仕方なくスタジオのドアに手をかけた。
その時、後ろから歩いてきた夏野を見つける。
「夏野!」
自分でも。
珍しいと思った。
声を荒げて夏野を呼ぶ自分に。
走って夏野の元に駆け寄り、勢いよく夏野を抱き締める。
夏野はそんな俺にひどく驚いたようだった。
「け、珪くん……どうしたの?」
「ごめん……あんなの俺、聞いてなくて……」
「お仕事だから、仕方ないよ」
「夏野……」
「わたしこそ、ごめんね……おなか痛くてトイレで我慢してたの。 ね、珪くんいい顔してたって。 よかったね珪くん、さすがプロだよね!」
夏野は笑った。
一生懸命笑ってくれる。
あんな場面を見て。
きっとこいつは。
嫌な思い、してるはずなのに。
「珪くん、いい匂いがする」
バカ。
こんな移り香。
いい匂いなんて言うなよ。
「…………おまえのこと、考えてた……」
「え?」
「あの女、おまえだと思って抱いた」
「だから…………」
「あんなとこ見せたくて今日おまえを呼んだんじゃない。
それだけは……分かってくれ」
「珪くん……?」
「もうないから……二度とない」
俺は夏野の頬に触れる。
「具合悪いのか? 俺の控え室で待てるか? もうじき終わると思う」
夏野はそっと俺の胸を押した。
笑って。
「ううん、今日は帰る」
「……俺、送る」
「いいよ珪くん、みんな待ってるよ。 今日は楽しかった、ありがとう。
珪くんのお仕事してるところって好き」
「夏野……」
「ね? 終わったら気をつけて帰るんだよ? またね」
俺はいてもたってもいられなくなって。
顔を少し傾け、夏野の顔に近づいた。
夏野は慌てて俺を制す。
「まだ明るいから……また今度、ね?」
笑顔でそう言い終えて夏野は手を小さく振って。
夕陽のせいで赤く染まる街並みに消えるようにスタジオを後にした。
そんな夏野の背中を。
俺は逸らす事なく、見えなくなるまで見ていた。
ようやく嫌々だった仕事が終わり。
真っ先にシャワールームへと向かう。
何が苛々するって。
あの女の匂い。
バカみたいにキツい香水つけて。
そんな匂いを早く落としたくて。
頭から水を被った。
俺は舌打ちする。
この4月から俺の担当になったあのマネージャー。
食えない女だ。
この前の携帯の件もそう。
あの時、一通り撮影を終え。
自分の服のポケットから携帯を取り出し液晶を見ると。
留守電が解除されていた。
自分で設定し忘れたかも程度にしか思わず。
時計を見れば22時38分。
まだ起きてるなと思って。
だから夏野に電話をかけたんだ。
着信履歴のボタンを押し、夏野の番号を探す。
当然一番最初に表示はされるわけだけど。
ふと着信時間を見れば、着信があった時間がどうもおかしかった。
その日、しかも自分が撮影している時間。
でも、不在着信にはなってはいなかった。
それで帰り際。
マネージャーを見つけ問いただした。
『さぁ、知らないわよ。 携帯が壊れちゃったんじゃないの?
ほら明日も撮影よ。 早く帰って寝なさい』
俺はマネージャーを睨みつけ。
結局そのまま家に帰った。
もしかしたら。
アイツが留守電も解除して。
夏野に。
何か言ったんじゃないか。
やりかねない。
そんな疑惑を持つくらい。
俺はあのマネージャーに不審を抱いてる――。
手早く控え室に向かい。
自分の服を着て。
携帯を開いて夏野に電話をしようとしたその時。
事務所のお偉いさんが俺に声をかける。
その内容は。
明らかに。
俺を不快にさせるものだった。
すぐさま携帯を開いて。
夏野に電話する。
何回鳴らしたんだろう。
そろそろ切った方がいいかと思ったその時に。
電話の出る音がした。
「夏野?」
『珪くん? 終わったの? お疲れ様』
「夏野……ごめん、今日は本当に」
『あはは。 珪くん、謝ってばっかだよ?』
夏野は明るく笑う。
少し。
救われたような気がした。
でも。
『また明日も撮影なんだよね?』
俺は。
溜息をついた。
「……今度、イタリアに行くことになった……」
『え……?』
さっきの事務所の人間の言葉。
イタリアでの撮影。
10日間。
また。
夏野と。
逢えなくなる。
『そうなんだぁ……』
また。
それだけなら良かったのに。
「俺は一人で行きたかったんだけど……」
『誰かと行くの?』
「……今日のモデルと……」
何が最悪ってそれだ。
なんであんな女と行かなきゃならないんだ。
だったら。
夏野と行きたいのに。
『そっか……いいお仕事してきてね』
激励の言葉。
明らかに。
夏野も落胆してる。
「本当に……ごめんな」
『ううん。 大丈夫だよ』
無理してる声。
夏野。
本当にごめん。
俺には。
今の俺には仕事を断れない理由があるんだ。
俺は最後に“おやすみ”を伝え。
機械音が聞こえ俺も電話を切る。
スタッフの一人の車に乗らされ、俺は帰宅した。
流れ行く街の灯りをぼんやり見ながら。
思った。
ひとつ息を吐く。
疲れているわけじゃない。
本当は誰よりも傍にいたいんだ。
けど今の俺には仕事を断れない理由がある。
断ることもなく、どの仕事も請けてる。
ただ今日のように女と一緒なのは初めてで。
さすがに。
夏野の知らない所で女と仕事をしたくなくて。
悩んだ末に請けたものだったけど。
でも、今回ばかりは断れば良かった。
あんな結果になるんだったら。
携帯を開いて、少し弄って画像を表示させる。
そこにいるのは笑顔の自分の愛しい恋人。
そっと、撫でた。
夏野に。
今日ようやく逢えたのに。
また明日から、逢えない。
今から家に帰って風呂に入って。
デザインの勉強をして。
寝るのは1時……2時過ぎか。
何とかしたい。
あと4年。
大学を卒業するまでは――。
だから、夏野。
もう少し。
もう少しの辛抱だから、待っててくれ……。
携帯を閉じ。
ゆっくり俺はシートに埋もれ目を閉じた。
「signal ―scene 3 誰より傍に」 |
20110814 |