城の縁側を歩く。
日が南中を超えだいぶ経つが、相変わらず照りが強い。
今日は所用も無いと、剣の鍛錬でもしようと刀を片手に歩いていると。
素振りの音がする。
たまに聞こえる気合いの声は。
女の、声。
驚いて声のする方に歩いていくと。
「市……!?」
襷掛けをした袴姿の市だった。
ゆっくりとした動作だが、大きな薙刀を振り回し。
綺麗な弧を描いて空を斬る。
突き出した薙刀を一気に引き。
振り返り、それを振り下ろす所で。
私に気付く。
「あ……っ!」
慌てて薙刀を後ろに隠し。
俯いた。
「あ、あの…………ご……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「お前……薙刀を扱えるのか」
怒られると思ったのだろう。
私の目を見ず、ひたすら市は謝る。
「い、市ね……何もできなくて、何も知らなくて……だからね、いろいろ考えたの……どうしたら長政さまのお役に立てるのかって……」
「………………」
「長政さまが一番喜ぶこと……何かなって……」
私は黙って市の話を聞いていた。
時折泣きそうになる市。
「……そしたらね……やっぱり、これしかなかったの……」
以前、市が織田にいる頃。
何度か戦場に赴いていた事を聞いた事があった。
果敢な姫だと噂されていたが。
憶測ではあったが、程なくしてそれが兄の命ではないかの話も聞いた。
魔王は身内にでも容赦無いと。
囁かれていた。
市を娶る時に見たその痩身。
抱いて改めて確信したそれだったが。
呆れたものだった。
織田は吹けば飛びそうな女まで戦に駆り出さねばならぬのか。
――私は兄者の様にはならない。
女は大人しく城に居れば良い。
ましてや自分の妻だ。
戦場から帰る私を待っていれば良い。
そう思っていた。
「市……近江が好き……長政さまのいる小谷が好き……」
市が続ける。
「だからね、小谷を護りたいの……みんなを護りたい……」
「………………」
「戦には出られないから……長政さまがお城にいない時は市がみんなを護ろうと……だ、だからね……」
「市」
ぴくんと。
市の肩が揺れる。
怒られると思っているのだろう。
目をぎゅっと瞑っていて。
「市……私は貴様に何も期待などしていない」
「………………」
唇を震わせ。
泣くのを堪えている。
「女は非力だ。 それは世の常だ、当たり前の事だろう」
市の顔が更に俯かれ。
ごめんなさい、と。
小さく謝った。
「戦になれば命が危うくなるのだ。 遊びではないのだぞ」
「………………」
「お前の役目は護る事ではない。 私の傍にいる事だ」
市が。
恐る恐る。
顔を上げる。
市にも分かるほどに呆れながら口を開いた。
「――もう良い」
「………………」
「無理強いはしない。 勝手にしろ。 だがお前が戦場に出るのなら……絶対に無理はするな。
私の後ろに必ずいるんだ。 約束しろ」
「長政さま……!」
「私が命懸けで全てを護る。 近江も、城も、勿論……」
「………………?」
「いや……気にするな」
流れで余計な事を思わず口にしそうになる。
口にしなくても良い事だ。
私が真っ先に護らねばならぬものの事など。
私の内に秘めておくだけで良いのだ。
そんな私の心も知らず。
市の頬が緩む。
涙を浮かべながら。
白い歯を覗かせて、微笑んで。
「はい……!」
「……全く……強情な女だ」
大きく溜息をつく。
今までの私は。
戦に出ても気構えが違っていた。
ただ単に。
勝利だけを。
悪に制裁を加えるだけの戦だった。
だが。
今後の戦は違う。
勝利と。
悪に制裁を加え。
そして。
髪一本でも傷つけぬ様。
護る事。
男が女を護るものだ。
それが、妻なら尚更。
私は。
まだまだ精進せねばならない。
強く、あらねばならない。
市。
お前がその事に気付かせてくれたのだ。
お前から離れぬ事。
そして、護る事。
それだけは。
必ず。
市の笑みが未だ消えない今。
その頬に触れようとした瞬間。
「お! やっぱ仲いいんじゃねぇの」
その場にそぐわない声が響く。
慌てて市から離れ。
振り返り見れば、前田の風来坊。
紅白の紐を首に括り付けた子猿を肩に。
締まりのないその顔を晒す。
「き、貴様、幾度と無く……無断で城に入ってるんじゃないだろうな!?」
「あれ〜、何だか今日は機嫌が悪いのかい? ちゃ〜んと断って入ってるよ」
先日もそうだったが。
兵等も少しは警戒せんか。
まぁ、この男からは戦意は微塵も感じられんが……。
「お市さんも元気にしてたかい?」
「ええ……」
人の妻に気安く話しかけるな。
市の二の腕を掴んで、私の後ろに隠す。
「今日は何用だ? 今から私達は外出だが」
「え?」
市が吃驚して私を見る。
「あれ? 出掛けちゃうの? なぁんだ、暇だから相手してもらおうかと思ったのにさ」
「相手なら他を探せ。 私は忙しい」
丁度良かった。
この男で思い出した。
市に行くぞと促す。
その場を後にし、馬小屋から自身の馬を出した。
「長政さま……どこへ行くの?」
「黙ってついて来い」
「い、市……こんな格好……」
「うるさい」
市を馬に乗せ。
手にしていた刀を腰に差し、その後ろに私が乗る。
市を連れて城下へ。
いずれ買いたいと思っていたものがあった。
市に何も与えてなかった私が。
初めて心を揺すぶられたのが。
以前、さっきの男が現れた時だった。
市が僅かだが声を上げ、笑って。
あの男から貰った紅を差していた時。
生まれて初めての激昂。
紅自体似合わないとかではない。
――あの男から貰ってた紅の色。
あんな色濃いものは市には似合わぬ。
もっと薄くて。
桜の花弁の様な。
あんな男から貰ったものなど。
「あの紅は捨てよ」
市が私を見上げた。
じっと見て。
微かに笑う。
「もう……女中さんにあげちゃった……」
意外な答えに少し驚いて市を見た。
もう既に手元に無いと言う。
上目遣いに私を見る黒目がちな瞳。
器量好しと言われてるようだが。
似合わないとかではないのだが。
本当は市にそんなものは必要ないと思っている。
紅など。
無くとも。
どうせそのようなもの、差せば周りが騒ぐ事など目に見えている。
無駄口が増えるばかりだ。
私の前だけならともかく――。
それに。
もう既に手にしているだろう。
淡い色のそれを。
そのままが――。
いや。
「お前は……そのままで良い」
たった一言で意味がたいぶ変わる言葉も厄介なものだ。
別にそんなつもりで言った訳ではなかったのだが。
市はどう捉えたのか。
嬉しそうに、僅かに私の胸に首を傾け。
市は答えた。
「長政さま……想っていない人から貰ったものなんて……市、いらないから……」
馬の手綱を引き。
木漏れ日が降り注ぐ中、小谷の山を下る。
市の言葉に、何故だか妙な気持ちを覚え。
だが決してそれは嫌なものではなく。
却って。
それから二人の会話は無かったが。
辺りには馬の蹄の音しか響かなかったが。
市は目を閉じ、身体を私に預け。
落ちぬ様。
私の懐を、ぎゅっと掴んでいた。
そんな市を私は見ず。
小谷の山を下りきるまで。
頭上の木漏れ日に時折目を細めながら。
市の重さを。
この腕に感じていた。
今後何があっても命懸けで護らねばならない、失ってはならないこの重さを。
その後の差さずとも良い、形だけのそれを手にした時の市の泣きながらの笑顔など。
想像もしていなかったほどに――。
「双瞳の焔 第九章 -一約-」 |
20090517 |