ふう、と一息つき。
手の書物を机上に放る。
何だかここに来て忙しい。
他国での動きが僅かだが、穏やかではなくなっている。
ここも。
そろそろ準備をせねばならぬか――。
それでも日々の鍛錬は私以下怠ってはいない。
いつ何時攻められぬか分からぬ時世。
天を仰いだ。
戦――。
戦になったら。
連れて行く事になっている約束。
後悔していないとは言い切れない、今すぐにでも撤回しても良いと思う約束。
それでも、頭の痛い話ではあるが。
城に居ようと、戦場に居ようと。
何があろうと。
私がどうなろうと。
あれだけには。
そう言えば。
今朝一度顔を合わせてから、見ていない。
私が軍議などで勤しんでいる時には必ず顔は出さぬが。
客人もいないこういう日は。
大概、用も無いのに。
私の名を呼び、部屋に顔を見せに来る。
耳をすましても廊下から。
足音もしない。
……まぁ。
こういう日もあるだろう。
今の所戦もなく、束の間の平穏な日々。
何をするにも、あれの自由だ。
……………………………………………………。
何故……だろうな。
いやに落ち着かない。
机を何度も何度も指で叩いて。
組んだ胡坐の膝は、いつになく上下に揺すられる。
「ああ……くそ!」
その膝を叩いて立ち上がる。
いい加減。
その顔を見せに来い。
どうせ暇なのだろう。
一体何をしているのだ。
勢いよく襖を開け、市の部屋へと向かう。
無性に腹が立つ。
別に市が何かをした訳でもないのに。
大人気ないのは分かっている。
普段の行いと違うというだけで。
怒りを覚える事などないのに。
市の部屋から出てくる女中に声をかければ、市は中にいると言う。
すぐさま襖を開けると。
「あ、ですが長政様。 今姫様はお召し物を……」
制する女中。
召し物?
着替え中か?
「長政さま……?」
御簾の向こうから市が顔を出す。
その姿に戸惑う。
「い……市?」
「今からね……長政さまの所に伺うところだったの……」
市の姿は普段の着物姿ではなかった。
草摺に覆われる腰や肩。
腰から生える数本の布。
左腕には大きな盾と、黒い篭手。
膝まであるやはり黒い臑当。
間違いなく、戦姿。
だが所々に深めの紅梅が施されていて。
その対照的な二色や。
また所々にあるぼんぼりが。
女らしく愛ら……。
違う!
そうではない!
「市……何だその姿は!?」
「市の鎧……作ってもらったの……」
普段の姿とはまた違う。
市の鎧姿。
「戦に出るのなら……鎧がないと困るから……」
そんなのは当たり前だ。
だが。
「長政さまと、少しお揃いなんだよ……」
確かに一見私の鎧を彷彿とさせるもの。
市と共に戦場に出る。
同じ目的を持って。
それが何だか嬉……。
違う!
そこではない!
細身の身体にうまく適合しているが故、身体の線も目立つ。
袖の無い着物から出る右腕や。
また腰の草摺から覗くいやに白く、細長い脚。
目のやり場に、困るほど――。
「その……腕と脚は何だ!?」
市が言われている事が分からぬ顔で私を見る。
必要以上に曝け出された腕と。
特に脚。
そんな格好で戦場に出てみろ。
ただでさえ美しいと市を褒める奴すらいるくらいだ。
想像できるだろう。
「腕は……利き腕だから、何も身に着けないほうが身軽でいいかと思って……」
利き腕だからこそ守らねばならんのではないか。
後生に残る傷でも負ったらどうするのだ。
周りにいる女中達を人払いさせ。
部屋に残るは私と市。
この場に他の男は居ないのがせめてもの救いだが。
「脚は? 佩楯が何故そんなに短いのだ!? お前は一国の主の妻だぞ!!」
「ほ、ほんとはね……長政さまの鎧みたいにもっと長かったの……立挙もあったし……」
「ならば……!」
「で、でもね……重くて……市、動けなかったの……」
がっくりと。
項垂れた。
これが。
限界の姿。
だとしたら。
やはり市を戦場へ連れて行く訳には――。
「ふふ……これで市、頑張れる……」
腕を前に伸ばし自分の姿を見ながら、笑顔でそんな事を簡単に言う。
喉まで出かかった言葉すら飲ませる何とも言えぬ、その笑顔。
そんな市の姿を何故か咎める事が出来なかった。
歯を噛み締め。
足元を見れば。
今朝市が着ていた紅梅の小袖。
草摺が重いと言うのなら。
とりあえず覆われていれば、良い。
舌打ちをし、その着物を掴んで。
部屋を出た。
先程の女中を探し出し。
今すぐ作れと命じて。
市の元へと戻る。
「長政さま……?」
「何でもない。 そのままで待っていろ」
縁側に出、何を見るでもなく庭を眺める。
自分でも分かる。
完全に腹が立ち。
頭が痛かった。
市の鎧姿。
このままではまずい。
非常に、まずい。
頼むから、戦場に出られるだけでそんなに嬉しそうにするな。
命が懸っているのだぞ。
暫くすれば女中が再度部屋に入ってくる。
市は女中の手の中の布と私を交互に見る。
「腕に通せ」
言われるがままにそれを腕に通せば。
盾と篭手のない右腕にうまく適合した。
思った以上に布が余り。
それを鎧に括り付ける。
「まぁ、姫様可愛らしい。 切ってしまいましたけど姫様にお似合いの小袖でしたものね」
「長政さま……」
「右腕だけでも覆っておけ。 そんなに肌を露出するな、人の妻だぞお前は!」
目を背けるが。
そんな市はじっと私を見ていて。
小さく。
「……はい」
と、笑顔で頷いた。
大きな溜息をつき、縁側に座る。
取り敢えず腕の分だけ対処したが。
いずれこの脚もどうにかしようと考えていた矢先。
市が部屋の隅にあったものを手に取る。
それを右腕を覆う布と鎧を結び付けていた部分に添える。
「ぴったり……」
浅井の紋。
市が鎧を作ってもらう時に、一緒に頼んだらしい。
「どこにつけようか迷っていたんだけど……どう?
長政さま……」
市の片腕を覆う布を止めている胸の三つ盛亀甲。
市が浅井を背負って戦場に出てくれる事。
浅井の姫として。
私の妻として。
「フ、フン……別にどうでも良い」
それは。
素直に嬉しかった。
素直に、褒めてやる事は出来なかったが。
全く、人の気も知らずに――。
「長政さま……」
市がゆっくり歩み寄り、傍らに畏まる。
「市ね……長政さまと一緒にいられるのなら戦場でもいいの……」
「………………」
「だからね……市、頑張る……たくさん長政さまの敵を斬るからね……」
「………………」
「市……頑張るから……」
その必要以上に大きめな漆黒の瞳が私を捉えて。
離さず、逸らさず。
瞬き一つしないその瞳を私も返した。
暫くの沈黙の後。
「――私との約束は覚えているか?」
「……無理をしないことと……長政さまの後ろにいること……」
「約束、できるな」
市は私の手を取り。
その小指同士を絡めた。
「指切り……約束……」
その行動に驚いて僅かに目を開いた。
こんな行為は何時振りか。
「市、長政さまに置いていかれても……ちゃんとついていくから…………だから、長政さま……長政さまは…………生きて……」
「…………?」
「長政さま、いなくなっちゃったら……市……どこに行っていいかわからないもの……」
市は微かに笑い。
指切りした手を上下に小さく揺らす。
「馬鹿者。 そんな事考えるな」
軽く叱っても消えない市の笑み。
最近になって知った。
何となく。
何となくだが……。
……それに弱くなっているのではないかと。
認めたくはないし。
だ……誰にも知られる訳にはゆかぬが……。
市のその姿に完全に納得出来た訳ではない。
頭痛も治まらない。
それでも先程までの苛立ちは多少無くなった。
鏡台の前に立ち、自分の前後を嬉しそうに確認する市。
そんな姿を見る。
頭部を防護するものもない。
脚を覆うものも数少ない。
市を傷つけぬ様。
何に変えても市を護る事。
何があろうと。
私がどうなろうと。
市だけは。
先程の指切り。
小指を絡ませ、僅かに力を入れて指切った事。
市は気付いているかは分からなかったが。
一層その決意が固まった事は。
意識的に思う事ではなかった――。
「双瞳の焔 第十章 -指切-」 |
20090707 |