朝。

お膳に乗る朝餉に手をつける。

数日ぶりに。

長政さまと向き合う朝。

 

「市の飯は粥になっているのか?」

「はい。 ちゃんと病人食でございますよ」

 

女中さんが即座に答える。

 

「近江と尾張じゃ味付けも多少違うだろう。 口に合わないなら言え。 あと食べられないものも言え」

「ううん、大丈夫だから……」

 

今度は市が答える。

周りの女中さん達がくすくすと笑って。

 

「長政さま、だいぶ姫様の事が気がかりなようで」

 

市に小声で話してくれる。

 

「何を笑う」

「いいえ、何も」

「……おかしな連中だ」

 

長政さまは少し不貞腐れたようで。

その姿に。

 

「お前はもう少し食べた方がいい。 あと食べ残しは悪だぞ」

「……はい」

 

市も顔が綻んでしまう。

すっかり体調もいいし、ご飯も普通に食べられる。

なのに長政さまのそんな気遣いが、ただ嬉しかっただけなんだけど。

でも長政さまはそんな市を気に入らなかったのか。

 

「……お前も何故笑う」

「ううん……何でもないよ」

 

完全に機嫌を損ねた長政さまは。

早々に食べ終わり、箸を置いて立ち上がる。

 

「……暫しの間、庭にいる」

 

大きな足音を立て、長政さまは部屋から出て行った。

 

「……長政さま、怒っちゃった……」

「ふふ、違いますわ姫様。 長政様は拗ねているだけでございます。 さ、姫様、おかわりはどうですか? 長政様の言う通り、何か苦手な物がございましたら遠慮なく言って下さいまし」

「……みんな、市に優しいのね」

「それは、私達一同姫様の事を大事に思っておりますから」

 

部屋にいた女中さん達が一斉に笑う。

 

「それに、長政様の命でもありますのよ」

「え……」

「三つ、命が与えられたのです」

 

市は箸を持つその手を止めた。

 

「一つ目は姫様に何もさせるなと。 二つ目はなるべく長政様は城におられるおつもりですが、どうしても公務で城を空けなければならない時に攻め込まれたら一番に姫様をお守りしろと。 どちらも長政様は姫様を傷つけたくない所存なのです。 ご存知でしたか? 長政様はお出掛けになると所用が済めば寄り道もせず、早急に城にお戻りになられるのですよ」

「心配性なのですよ、長政様は。 姫様の事が気になって気になって仕方ないのですわ」

「な、長政さまが……?」

「最後は姫様に優しくしろとの命でございます。 姫様はたったひとりでここ近江に嫁いで来られたのだから多少の不安もあるだろうと」

「勿論それだけじゃありません。 先の言う様に城の人間は皆姫様を慕っておりますのよ」

 

市は、驚いた。

知らなかった。

長政さまが。

そんなことを言ってくれていたこと。

 

「姫様。 長政様は短気で少し融通が利かない所もあるのですが……よしなにしてやっていただけませんでしょうか?」

「……?」

「長政様は本当は心優しい方なのです」

 

……うん。

市も分かったの。

長政さま。

本当は。

誰よりも。

 

「……内密にしていただけますか?」

「え……?」

「この間の薬です。 口止めされていたのですが」

 

手荒れにいいと聞いた薬。

それからずっと使ってて。

本当に良薬だった。

今では罅割れもない。

 

「長政様が仕入れたものなのです」

「え……長政、さまが……!?」

「はい」

 

三日城を空けていた時。

市の手の甲を見たのだろう。

越中の方まで足を伸ばし。

自ら買ってきてくれたと。

市の皸だけのために。

遠いのに。

道中危ないのに。

市を。

 

「姫様がお市様だから、ですわ」

「…………え」

「お市様が姫様だからではなく、長政様は“お市様”のために尽力されたのです。 誰でも良い訳ではなく」

 

長政さま。

ずっと前から市を?

市、長政さまの傍にいられなかったのに。

 

 

市は茶碗と箸をお膳の上に置き。

 

「これ……また食べるから」

「あ、姫様!」

 

部屋から出る。

走って。

今すぐにでも。

長政さまにお礼を言いたくて。

長い廊下を走る。

庭にいると言っていた長政さま。

途中庭を見渡せる窓から顔を出し、長政さまを探しながら。

すると。

何度目か顔を出した時。

長政さまを見つけた。

あそこは。

市の部屋の傍。

そして。

市の心臓はひとつ。

大きく、跳ねた。

 

長政さまは跪き。

何処かで手折ったのだろう。

根のない百合を。

そこへ植えていた――。

 

「長政……さま……!」

 

欄干を握った拳が震える。

市の視界はぼやける。

長政さまの姿がはっきりしない。

市は急いで自分の部屋へと走り。

襖を開け。

縁側の障子を開ければ。

 

「!!?」

 

長政さまの身体が一瞬大きく震え。

振り返ると。

その瞳を大きくして市を見た。

 

「い……!」

 

今までの市を知っている人なら想像できたかしら。

市は裸足のまま、外へ飛び出し。

長政さまの胸に飛び込んだこと。

 

「長政さま……長政さま……!」

「な、何故……まだ戻らないと思っ……き、貴様ちゃんと食べてきたのか? 食べ残すなと言った筈だぞ!」

「ありがとう……長政さま、ありがとう……」

「な、何だ? 泣いているのか? な、泣くんじゃない!」

 

本当は。

こんなにも優しい人だった。

それなのに。

全然気づかなかった。

酷いのは、市。

 

「薬……ありがとう……」

「くす……あ……女中たちか。 口の軽い奴等だ」

「……ごめんなさい……」

「謝るな」

 

市は身を起こし。

首を振った。

 

「違うの……」

「……?」

「市……市ね……」

「何だ」

「……逢瀬かと思ったの」

「は?」

 

市に内緒でお泊りしたこと。

長政さまにお慕いしてる人がいて。

その人との逢瀬だと思ったこと。

怒られるのを承知で長政さまに話したら。

大きな溜息をつかれ、呆れられ。

睨まれた。

 

「ご、ごめんなさい……っ」

「他所の女に会いに行くほど私は暇ではない」

「……ごめんなさい……」

「私はもう妻帯している。 そんなもの、いらん」

 

そっと見上げれば。

長政さまは市を見ず。

小さく呟くように。

 

「世継ぎも私と……お前の子だけで良い」

 

目を合わせないその頬はうっすら赤みを含む。

市は嬉しくて。

嬉しくてその広い胸にもう一度顔を埋めた。

 

「百合……長政さまが植えてくれていたの……?」

「いや……ま、まぁ……そうだな」

「どうして……」

「あ……え、ええとだな……」

 

相変わらず顔を赤くしたまま。

小さな。

本当に小さな声で。

 

以前城下に行った時。

道端に咲いていた百合の花を一本摘み。

部屋に飾ろうと持ち帰ったと。

 

「市の、部屋……?」

「……わ、私の部屋に置いても仕方なかろう」

「……どうして……市の部屋に持って来てくれなかったの……?」

 

暫くの沈黙。

長政さまは重い口を開いた。

 

「…………お前が私を敬遠してると思っていたからだ……」

 

市は。

首を横に振る。

できる限り、いっぱい。

 

「そんなこと、ない……そんなことないんだよ……! 市……市は長政さまのこと……」

「わ、分かったからもう言うな!」

 

長政さまの胸をぎゅっと抱き締めて。

小さく。

告白をした。

偽りのない。

市の本当の、気持ち。

 

長政さまも。

小さく息をつき。

市の肩を掴むと、少し身を離し。

市の足元を覗き込んだ。

 

「全く……足が汚れてるではないか。 もう入れ。 また熱が上がる」

 

と、市を縁側に座らせ、足の砂を払いながら。

 

「加賀の前田の夫婦は仲が良いらしいな……羨ましいか?」

「え……」

 

長政さまが市に問う。

前田。

利家様とまつ様。

仲が良いこと。

心の奥底では。

羨ましい、かもしれない……。

市も。

長政さまと。

仲良くなりたかったから。

不幸にしてしまうのではないかと危惧してたその裏では……。

 

「私は羨ましいとは思わない」

「………………」

「妻が夫に尽くすのも、仲が良いのは構わん。 だが人目も気にせず公衆の面前でべたべたと……堕落以外何でもない」

「……長政さま……」

「そういったものが羨ましくて私に求めるなら、それは無理だ」

 

…………長政さまなら。

そう言うと思ってた。

 

「嫌なら……出て行っても構わぬ。 別に怒っている訳ではない。 ただ織田にお前を丁重に返すだけだ」

 

長政さまは小さく息をつく。

 

「……だが、もしここに留まるのなら」

 

市の足の砂を払ってるその手を取り。

ゆっくりと。

市の両の手で包んだ。

温かい長政さまの、手。

思わず涙が込み上げる。

 

「市、汚れる」

「市……出て行かない」

「………………」

「長政さま……優しいもの」

 

僅かに吹く風に、長政さまの茶がかかる黒髪が靡く。

やっぱり市と一瞬目が合ったかと思えば、すぐに逸らす。

“泣くな”と叱りながら。

 

「ここに留まるのなら……なぁに?」

「……お前に命を与える」

「……命?」

「お前は何もしなくて良い」

「………………」

「私がお前を護る。 だから私から離れるな。 それだけだ」

 

どうしよう。

涙が止まらないの。

市の姿に呆れながら眉間に皺を寄せても、手の甲で強引に市の頬を拭う。

長政さまの全ての気持ちが嬉しくて。

ぶっきらぼうなのに。

厳しいことも言うのに。

何故。

こんなにも市の心に、染み渡るのだろう。

 

市を立たせ、自分も草履を脱ぎ。

その手を引きながら部屋を後にする。

 

「今日、夕刻まで城を空ける」

「今日も……お出掛けなの?」

 

市の顔が曇ったのだろうか。

長政さまは。

 

「そんな顔をするな。 今日は戻ると言っているであろう。 今日で最後だ、今後暫くは城にいられる」

「……はい」

「お前は今日一日休んでいろ」

「…………はい」

「明日から数日出掛ける」

「………………」

「お前も支度をしておけ」

「……はい…………え……?」

 

市は俯いていた顔を上げ、長政さまを見た。

手を引くその広い背を。

 

「支度……?」

「お前と出掛ける」

「ど、何処へ……」

 

長政さまは小さく息を吐き。

 

「近江中だ。 お前は此処に詳しくないだろう。 小谷に嫁いで来たのだ、近江の国を知らなければ困るだろう」

「は、い……」

「女中にも言っておく。 まだ少し咳が出ているだろう。 だから体調を良くしておけ」

 

ああ。

また涙腺が緩む。

口をぎゅっと結んで我慢したけど。

怒られても、いい。

長政さま。

市は。

 

「……! な、何故また泣く!?」

「だ、って……嬉しくて…………長政さまと一緒に、いられて……」

「そ……泣く事ではないだろう! いちいち泣くな!」

 

やっぱり長政さまは怒る。

でもいつもの怒ってる感じではなくて。

困ってる感じで。

 

 

 

涙はまだ乾いていないけど。

市は長政さまに気づかれないように笑った。

笑うの、下手だから。

こんな市を見たらみんなはどう思うかはわからない。

でも。

夢を見ているみたいに幸せだったの。

市なりに、幸せそうに笑ったの。

 

嬉しかったから。

それがどんな形であろうと。

市に向ける笑顔なんてなくていい。

怒ってくれていい。

長政さまの気持ちが。

ちゃんと伝わってくるもの。

双瞳の焔が。

市を、包み込んでくれるもの。

 

その後の側近の人数人交えた近江の旅も。

市のお布団が長政さまと同じ寝室に、長政さまのお布団の隣に敷かれ始めたのも。

そこで気づいた、市が以前繕った寝着が捨てられることなく長政さまが今でも寝る時に着ていることも。

 

全てが。

温かくて。

優しくて。

市は知らない。

長政さま以上の人なんて。

長政さま以上に放っておいてくれない人なんて。

長政さま以上に“市”を見ていてくれる人なんて。

 

だから。

市に向ける笑顔なんてなくていい。

怒ってくれていい。

もう十分。

そのままの。

長政さまがいいの。

そのままの。

 

長政さまに全てを返すつもりで、全てを尽くしていくの。

 

決めたから。

これだけは誰のいいなりにもならない。

嫌われても、市は死ぬまで。

近江に。

浅井に。

 

 

 

ずっとずっと、長政さまの隣に。

 

 

 

 

 

「双瞳の焔 第八章 -真実-」
20090510



つーか下に九章ってありますが……まだ続くのかよ(`д´)というお叱りの言葉をいただきそうなのですが……(滝汗)
ようやく八章デス。
この話でいろいろな部分のコトが判明できましたかね。私の得意分野な誰でも読める展開ですよね(爆笑)
市が縫った着物の件はすっかり忘れてて後から付け足したようなモノですが(オイ)
後半市泣いてばっか。
そういえば今気づいたのですが、長政さま百合泥棒?(笑)










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