叱咤するのは。
前を向いていて欲しいから――。
“魔王の妹”としてではなく。
“浅井長政の妻”として。
ひとりの人間として。
女として。
もう織田の人間ではない。
拘らなくて良い。
悲観などしなくて良い。
背を伸ばし。
胸を張って。
生きて欲しい。
たった一人しかいない。
お前の。
“市”の代わりなど。
誰にも出来ぬのだ――。
「はぁっ!!」
あと。
十回。
「たぁっ!!」
近く、小さな川のせせらぎが聞こえる。
鳥の鳴き声も聞こえ始め。
辺りに取り巻いていた靄も消え始めていく。
城の近くの森の中。
「はぁ……はぁ……」
刀を地面に突きつけ。
着物の衿を掴んで広げ、袖を脱げば。
微風が汗ばむ肌を撫で心地が良かった。
近くの岩に腰をかけて。
そこに置いてあった手拭いで顔と身体の汗を拭く。
千回の素振り。
陽ももうそろそろ顔を出すだろう。
あと五百で切り上げるか。
鍛錬と。
邪念を払う為。
『嬉しい……』
昨夜。
初めて、市と夜を共にした。
結ばれた訳ではなく。
僅かに赤みを残した頬で眠る市の傍ら。
ずっと手を握ったまま。
私も眠りについた。
静かではあったが。
涙を浮かべてはいたが。
笑っていた。
初めて見た、市の笑顔。
『長政さま……ありがとう……』
私はそれに心臓がひとつどくんと打った覚えがある。
“早く寝ろ”と思わず叱ってしまったが。
市は素直に返事をし眠りについた。
すぐに市の寝息が聞こえ。
私は隣で眠る市を見る。
私の手を握ったまま眠る市を。
疲れていたんだろう。
気を張っていたんだろう。
涙の跡を残したままの、その寝顔を見た。
私は。
いつも俯き、謝り続ける妻しか知らなかった。
影でもめそめそと泣いていたのかもしれない。
だがこの胸に抱いて、初めて触れて。
本当は。
肌も手に馴染み。
身体も髪も細く柔らかくて。
そして。
純真と言うのか。
上を向いて笑うそれに汚れがないと。
初めて知った。
お前が足手纏いとかではない。
煩わしい事など、ある筈も無い。
傷ついた姿を、見たくないのだ。
それが。
炊事場であろうと。
裁縫であろうと。
戦場であろうと。
私は自分の手を見る。
この胸に抱いて、初めて触れた。
それは柔らかくて――。
軽く、眉間に皺が寄る。
溺れるのではないかという、恐れ。
私が市を少し敬遠していた伏しがあったのは事実。
多忙だったのは確か。
だが、毎日市の部屋に通う事も無く。
会話をしても二言三言。
それは。
きっと。
恐れていたからだと――。
その時。
人の気配。
「い、市?」
「あ、長政さま……」
今しがた思ってた人間が。
木に隠れて。
こちらを見ていた。
ひどく驚いた私は立ち上がる。
「お、お前、何故ここに……お前はまだ寝ていなければならぬ身ではないのか!」
「身体はもう大丈夫だから……熱ももうないの」
市は俯きながら。
ゆっくり私に歩み寄る。
「起きたら長政さまがいなくて……それで探してたらここに…………」
「それにしてもだ、まだ寝ていてもいい刻だぞ」
「で、でも……長政さまを見つけたくて……」
ぼそぼそと話す市。
いつもなら『もっと声を張って喋ろ』と怒っていたに違いないが。
何故か今は。
その言葉に悪い気はしなかった。
「本当に平気か?」
「もう大丈夫だから……あ、あの、長政さまは……うつってない……?」
「私はそんなに軟弱ではない。 それに――」
「……?」
「――何でもない」
もし私にうつっても構わない。
お前を病ませる訳にはいかん。
お前は、誰にとっても大事な人間なのだ。
城にとっても。
近江にとっても。
……誰にとっても、だ。
「あ、あの長政さまは何を……」
「見れば分かるだろう。 鍛錬だ」
刀に手をかける。
「……市、見ててもいい……?」
「何?」
「長政さまが鍛錬してるところ……見たいから」
「お前また熱が上がるぞ」
それでも引かない市は上目遣いに私を見る。
そんな瞳で。
私を見ないで欲しい。
「……か、勝手にしろ」
私が座ってた岩に市が腰かける。
また市の熱がぶり返すのも嫌なので。
近くの岩に置いてあった私の上掛けを、目も合わせず市に差し出せば。
市が“ありがとう”と微笑んだ。
私は再び素振りを始める。
時折横目で市を見れば。
上掛けを肩に乗せ、目を逸らす事もなく私を見ていた。
真っ黒な瞳。
真っ黒で。
何の混じり気の無い、透明な黒の瞳だと知ったのは出会って直ぐだった。
正直言って。
全くという訳では無かったが。
最初はそんなに気乗りのしない婚姻だった。
反対する人間も少なくなかった。
織田との同盟。
数日猶予を貰い、浅井の中で話し合いを重ねた結果だった。
朝倉を侵攻しないという盟約でようやく結んだ同盟。
まして自分に嫁いでくるのがあの魔王の妹。
『お市の方は、それはとてもとても色白で戦国一の美人にございます』
そんなのは噂が噂を呼んだ話だと。
どうせ同盟だけの質だと。
私も面食いではなかったが。
期待もしていなかった。
寧ろ。
織田との同盟。
その、質。
もしかしたら間者になりうるのではないか。
何かを企んでるのではないか。
その疑いの方が強かった。
それでも。
家族としての情が移るかもしれない。
だが、女としての情が移る事は無いだろう。
大事にするとは思うが。
私の子を成してもらい。
“姫”という象徴だけの存在。
そして。
私の心の拠所とはならず。
建前上の存在になるのだろう――。
あの瞬間までは。
そう思っていた。
畳敷きの大広間の真ん中に。
織田の従者と共に。
白無垢に身を包まれた。
私の妻になる女。
指をつき、深々頭を下げ自分の名を名乗る。
細く小さく、鈴の鳴る様な声だった。
だが。
頭を上げても、少しも顔を上げない。
綿帽子でその表情が少しも伺えなかった。
この時私が思ったのは。
嫁ぎたくはなかったのだろう、と。
同盟の為だけに、尾張から遠くの近江まで嫁ぐ。
それで、この女も気が進まず。
私を見ないのだろうと。
『私は浅井備前守長政』
自分も名乗るが。
それでも一向に顔を上げない。
そんな市に苛立ち。
私は上座から立ち上がり。
不躾ではあったが、市の前に跪き顎を掴んでは強引に顔を上げさせた。
『今日からお前の夫になる男だ』
吃驚したのだろう。
瞳を大きくし、私を見ていた。
息を呑んだ覚えがある。
その時に初めて見た市の顔。
透明感のある頬に、映えた艶のある紅。
印象的だったのが、その瞳。
睫毛が長くて、濃くて。
真っ白な肌にくっきりと切れてる二重の下の大きくて真っ黒なそれに。
自分の顔が映っていた。
市は慌てて下を向き。
私も慌てて手を離す。
暫くその瞳が脳裏から離れなかったのは、否定しない。
衣装が衣装だから今だけ綺麗に着飾ってるだけだと思ってた。
それでも。
化粧を取り、白無垢を脱げば。
肌の白さは変わらず。
瞳と同じ漆黒で腰まで伸び、陽に照らされて光輝く髪はしなやかに揺れ。
着物を着てもその細身の身体は瞭然だった。
女としての情が移る事は無い。
象徴だけの、建前上の存在。
それら全てが一気に。
覆された気がした。
もしかしたら。
私は。
「あ、長政さま……」
その日から。
あの時から。
市を。
「……!?」
気付かない内に川に近づいていたらしく。
岩に足を取られ、派手な音を立て。
私は川に落ちた。
底の深い場所。
「ぶはっ!」
「長政さま……!」
市が飛んでやってくる。
私は川から出るが。
全身ずぶ濡れ。
一人ならともかく。
市の前でのこの醜態。
情けない話ではあるが。
「長政さま、大丈夫……?」
市が持っていた手拭いで私を拭く。
「か、構うな。 すぐ乾く」
市は首を横に振り。
手を休める事もなく拭い続ける。
汗も吸い取ってた手拭いは直ぐに水を吸わなくなったのだろう。
絞ってまた拭き出すが、それもまた吸収しなくなる。
埒が明かなくなったのか。
市は。
自分の着物の袂で私を拭き始めた。
「い……市、お前の着物が濡れるだろう。 もう良い、放っておけ」
「だめ……っ!」
私は絶句した。
いつもぼそぼそと喋る市が。
珍しく声を荒げた。
「長政さまは浅井の大事な人なんだよ……? 風邪でもひいたら……市、困るから……」
良いと言うのに。
こうなったら聞かないのだろう。
私は溜息をついて為すがままにされていた。
嫌われていたと思っていた。
私と目を合わせず。
私が近づけばその分距離を置き。
私が口を開けば肩を震わす。
市は私が嫌なのだろうと。
近江にいたくないのだろうと。
織田に帰りたいのだろうと。
それでも。
熱に魘されて。
涙を流し、何度も何度も私の名を呼ぶ市に。
私は驚き。
『私はここだ』と無意識にその手を握ってやっていた。
私には無い、形の綺麗な爪に、力を入れればいとも簡単に折れそうな白くて細くて長い指。
だが、甲には荒れた跡。
水仕事をしているとすぐに分かったそれ。
本当は知っていた。
私の部屋に来ていた事。
当初は間者だと思い、浅井の何かを探って私の部屋に入るのだと思っていた。
だが。
整頓された後に落ちた長い髪。
髪を結わない故に落ちるそれ。
浅井の女で髪を結わない人間はいない。
また、市から織田に使者を出す事も無く。
そして。
お前は気付いていなかったであろう。
雑巾を持って私の部屋を出入りする事も何度か目撃していた。
この手すら。
護ってやれなかった自分に。
無性に怒りが込み上げた。
お前は。
私のために手を荒らす事などしなくて良いのに。
お前は、ただ――。
『ごめ……なさい…………長政さま……ごめんなさい……』
うわ言が部屋に響く。
お前が謝る事などひとつも無い。
それでも。
夢の中でも私は市に叱責しているのかと思うと。
また、後ろめたさも感じ。
私は握ったその手に力を込めた。
それは異常に熱くて。
何とか自分の体温で冷めないだろうかと、ずっと。
ずっと握っていたり。
その手を自分の頬に押し付けたり。
また。
市の頬に触れたり。
苦しいのかほんのり開く口。
熱い息が漏れ。
親指で唇をなぞれば。
市がまたひとつ、私の名を。
気付けば。
身を乗り出し、市の傍に手をつき。
身を屈め。
指でなぞった唇に。
自分の唇を合わせていた。
私が初めて市に触れたそれは。
かさついてはいたが。
市の熱を吸い取ってやりたいのと。
たぶん。
織田に帰らせたくないのと。
市が目を開かないのをいい事に。
一瞬だけ素直になった。
自分の、気持ちと。
一生涯言う事の無い。
私だけの秘め事、だが。
市は私の髪、胸、腕を拭くと。
背に回り。
途端、その手を止める。
「あ……」
「……?」
「長政さま……あの……ご、ごめんなさい……」
「何だ」
「市……昨夜…………長政さまを傷つけた……」
私は眉間に皺を寄せる。
覚えが全く無かったが。
暫く考え込んだ後、思い出す。
背に傷でもあったのか。
あの黒い“手”に付けられた――。
「“あれ”は……お前なのか?」
「長政さま…………姉川で……市、川に落ちてなかった……?」
「――いや」
「市……姉川で“あれ”に引きずり込まれたと思っていたのに……市のせいだったんだね……長政さまを傷つけるなんて…………本当に、ごめんなさい……」
「そんな顔をするな」
また泣きそうな顔。
軽く窘める。
市が寝ている間はあの黒い“手”は出て来なかった。
だが二度も。
市が目を閉じている間の出来事。
確証は無いが。
意識を、失っている時か。
「もう、ないから……もう絶対……傷つけないから……」
「気にするな」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「謝るなと言ってる」
本当に気にしてはいない。
私への戒め。
そう思っても。
お前の傷に比べれば。
軽いものだ。
「もう良い」
「あと……もう少し」
市が私の髪を乾かしながら。
「長政さま……とっても一生懸命だったね」
途中。
雑念が邪魔したが。
「それはそうだろう。 護るものが増えたのだ」
「護るもの……?」
「……お前は考えなくて良い」
護るものがある事。
それは。
強さを生み、得る事を。
私はまだこの時、知ってはいなかった。
もう少し先の話となる。
市はもう一度私の前に回りこみ。
今度は着物を絞り始める。
私自身が落ちたのに。
自分の所為の様な困った顔をして。
私は市を一瞬でも疑ったのに。
何度も怒鳴ったのに。
こうして私に接してくれる。
何故、だろうな。
私は市に優しくしてやれない。
歯痒くて堪らない。
だから。
城の連中に言ったのだ。
私には出来ぬ事。
優しさかどうかは分からない。
だが回りくどいそれで。
市を繋ぎ止めようなど。
何とも私は、情けない人間なのだろうな。
手際良く動かすその細い手首を。
掴むと。
市は目を丸くして。
私を見た。
昨日の熱はすっかり下がっていて。
こちらが心配するくらい冷たくなっている。
「な、長政さま……?」
私は目を逸らさない。
市は驚きの表情から、徐々に頬を紅くし困惑の顔になる。
そして。
例の如く、俯く。
「市、何故私がお前を見ると下を向くのだ?」
「あ、あの……」
市は。
首まで朱に染めながら。
ぼそぼそと話し出す。
「あの、ね……長政さまに見つめられると…………は、恥ずかしくて……」
「恥ずかしい?」
「胸が……高鳴って…………長政さまに市の思ってる事、全部分かってしまうようで……」
嫁いだ日もそうだった、と。
「そ、そんな事がある訳ないだろう」
俯く理由が。
分かったが。
市の紅潮がこちらにまで伝染しそうなほど。
自分の顔が赤らむのを感じた。
それと同時に。
何故か安堵も。
「……確認、しておきたい事がある」
「長政さま……?」
「思い過ごし……だといいが」
「あ……っ」
掴んだ市の手を強く引き、その頭を抱え。
己の胸に押し付けた。
微かに見下ろせば、朝の陽に照らされた髪が輝いていた。
漆黒の。
艶のある、くせのない髪。
力を抜く事はしなかった。
僅かに濡れる肌に感じる妻の頬。
もし。
嫌であるならば。
この場で拒んで良い。
私の心はとうに決まっている。
お前が。
どう思うかだけなのだ。
市は吃驚していたようだが。
徐々に腕を上げれば。
震える手で私の胸に添える。
「長政さま……」
されるがままの市はゆっくりと顔を上げ。
私を見るその瞳は既に涙目に。
震えも肩や声まで。
「長政さま……市……」
この上なく頬を上気させながら。
瞬間。
膝から落ち。
慌てて市を抱える。
「ば、馬鹿者! しっかり立て!」
「だ、だって……そんなに触れられたら……」
市が自分の力で立てるのを確認した後。
市の腰を抱える腕の力を抜き、僅かに離れた。
「長政……さま……?」
「良い。 確信した」
「……何を?」
「もう帰るぞ」
「あ、はい……」
落ちた刀を見つけると。
私より先に市がそれを拾い。
それを鞘に収め。
自分の胸に抱く。
「市、私が持つから良い」
「う、ううん……市が持つ」
「良いと言ってるではないか」
それでも目をぎゅっと瞑って首を横に振る。
本当に。
「お前は強情な女だ。 重いものを持つ必要はない」
強引に市の手から刀を取り上げる。
「行くぞ」
「は、はい……」
そんなに落ち込む事はないだろう。
私は溜息をつき。
「あ……」
「て、手持ち無沙汰なら繋いでおけ」
そう言って。
無理矢理市の手を取り。
握った。
「……はい」
市は微笑んだ。
そう。
昨夜の笑顔と同じ。
市の手を引き、歩き出す。
確信。
私は“愛”などと浮ついた言葉を口にしたくない。
軽々しく、口にしたくない。
最も。
そんな言葉だけで括られるものではなかった。
市に対しての想いは。
そして。
同盟だけの質だと。
そんな小さい器だけで収まりきるものではなかった。
市の存在は。
それを、確信した。
それと。
市。
市が今私に合わせた事。
昨夜。
抱き寄せる事で。
私はお前を手離せなくなりそうで。
臆していたのかもしれない。
政略結婚だったかもしれない。
だけど。
私は市の傍から離れる事は無い。
だから。
お前も私の傍から離れるな。
それだけ。
お前が私の中で大きな存在になった事。
とても嫌える状態にない事。
建前の存在ではなくなり。
もう。
言い訳が出来なくなった。
口実に出来なくなった。
“私の妻だから”、と託ける事。
それが。
“市だから”という理由に摩り替わった事。
それも、確信した。
市が強く私の手を握ってくる。
川に入った私より相変わらず冷たい手だったが。
これ以上冷えないよう。
この手をいつも。
いつまでも、と。
無意識に、その手を握り返した――。
「双瞳の焔 第七章 -深情-」 |
20090427 |