にいさまの後姿が見えた。
市はその背に何度も何度も声を上げて呼ぶけど。
にいさまは一向に市を振り返らなかった。
それは悲しいとか寂しいとか、そういう気持ちは微塵もなかった。
だってにいさまはいつだって市を市として見てくれなかったもの。
だからにいさまが振り返らなくて、悲しくも寂しくもなかったの。
寧ろ。
嬉しかった。
だから、笑ったの。
もう、市はにいさまのものじゃないから。
さよなら。
にいさま。
そして。
隣にいるのは。
市の旦那さま。
愛しい、愛しい人。
長政さまは。
市を一瞥すると。
市に背を向け。
その場を去ろうとする。
市は驚いて長政さまのその腕を取ろうとするが。
それは振り払われ。
市を置いて。
歩き出している。
長政さまの名を呼んだ。
声を上げて。
喉が潰れるくらい。
どうして?
どうして振り返ってくれないの?
市は泣いて懇願した。
戻って来て。
傍にいて。
長政さまは振り返らない。
……長政さまも、そうなの?
市を市として見てはいないの?
にいさまの妹だから。
――それでもいい。
一緒にいて。
市から離れないで。
力の限り。
長政さまを呼んだ時。
「市!!」
市は。
目を開けた。
天井。
市の部屋の、天井。
目尻から涙を流し。
滅多にかかない汗を流し。
息を荒げて。
夢……。
……夢?
本当に、夢……だったの?
夢じゃないかもしれない。
長政さまは。
市のこと、そういう風に思ってるのかもしれない。
だとしたら。
市は、どうする……?
それでもいいって。
本当に思う?
「……大丈夫か?」
その声に。
市は傍らを見た。
長政さまが。
眉間に皺を寄せ。
市を覗き込んでいた。
「……な、長政さま……?」
「平気か? だいぶうなされていたぞ」
「…………市……」
「身体は大事ないか? 丸二日眠り続けていたからな」
「え……」
「少し待ってろ」
言って長政さまは立ち上がり。
屏風の向こうの襖を開け女中さんを呼んだ。
「寝着を替えてやれ。 あと食べられるようなら夕餉も用意しろ」
「はい」
長政さまは部屋から出。
代わりに数人の女中さんが入ってきた。
「さ、姫様。 起き上がれますか?」
市の身を起こし。
着物を脱がせ始めた。
ひとりの女中さんが市の額に手を当てる。
「ああ、かなり熱も下がりましたね。 長政様の献身的な看病のお陰でしょうか」
「え……? 長政……さま?」
「はい。 長政様が寝ずに姫様の看病をされて」
長政さまが……寝ずに?
ずっと。
ずっとここにいてくれたの……?
そういえば。
あの時。
姉川の河原。
瞼の向こうは暗かった。
夜だったのか。
虫の声も聞こえていた。
あれは。
何だったんだろう。
川に落ちたつもりだったのに、市は川底に沈んでいると思っていたのに。
風を感じていた。
そして。
市の身体にさわさわと。
何かが触れていた。
何かが遠くで聞こえていて。
でもそれは何かは分からなかった。
その中で。
呼ばれた気がした。
市の名を。
誰かが呼んでくれた気がした時。
市の身体を触る何かが消え。
代わりに。
何かが市の腕を掴み。
直後。
身体がぎゅっと、縛られた感触。
だけど。
それは苦しくはなく。
嗅いだ事のある、匂いだった。
聞いた事のある、声、だった。
身体が持ち上げられ。
髪がゆらゆらすれば。
それはとても気持ちがよかった。
市に触れる何かは冷たくて。
でも心地がよくて、温かくて。
あれは。
長政さまだったの……?
身体を拭き、着替えも終わり。
少しだけ夕餉を口にすれば。
再度部屋に入って来た、寝着を纏う長政さまは人払いをし。
市の傍らに座る。
慌てて布団の上で畏まった。
「長政さま…………あ、あの……ご……ごめんなさい……」
「何がだ?」
「あの……ずっといてくれたって……」
「別に……額の手拭いを替えただけだ」
「お……お仕事もあったのに……」
「別に…………構わん」
暫し続く沈黙。
この沈黙が痛い。
長政さまの視線が、痛い。
ど……どうしよう……。
あの時。
長政さまが戻る前に帰るつもりだったのに……。
市は溜息をつき、目を伏せた。
また。
長政さまに怒られてしまう。
市はやっぱり。
長政さまに迷惑をかけてしまう……。
ようやく口を開いたのは。
長政さま。
「……何故姉川にいた?」
「……ごめんなさい…………ごめんなさい……」
「何故だと聞いてるんだ」
「あ…………あ、の…………暑かったから、その……す、涼みに」
「姉川までか?」
「………………」
視界がぼやける。
駄目……泣いちゃ……。
また、長政さまに怒られる。
答えない市に長政さまの口が開いた。
「熱があったという自覚もないのか」
「……ごめんなさい……」
「何故無茶をするのだ……」
長政さまが大きな溜息をついた。
「……出て行くつもりだったのか?」
そんなこと。
できるわけがない。
“手段”の市が。
ここから逃げ出すなんてできるわけがない。
長政さまに嫌われても。
市の居場所は。
織田じゃない。
市は、首を横に振った。
「一昨日のあれも何だ。 側室などと」
「ご……ごめんなさ……」
「……織田へ、帰りたいのか?」
「ち、違……!」
織田に帰りたいと思ったことはない。
帰っても市はにいさまの人形だもの。
生きてないの。
にいさまに従うだけ。
だけど。
だから。
「…………離縁したいのか?」
市はぎゅっと目を瞑った。
力の限り、首を振る。
その反動で。
どうしよう。
市は。
長政さまから背を向けた。
「長政さま……ごめんなさい」
「…………?」
「市……止まらないの…………市、涙が止まら、ないの……」
「………………」
「見せたくないの……怒らせたくないの…………だから、長政さま……」
「…………ち……」
「長政さま…………この、部屋から出て行って……」
涙が止まらない。
いや。
もう、これ以上。
長政さまを困らせたくない。
なのに。
止まってくれない。
すると。
長政さまは。
市の肩を掴み。
自分の方に向かせ、手首を掴んだ。
「な……」
「答えろ。 私から、離れるか?」
「違う……違う……っ!」
長政さまが。
市に。
どうして。
どうして市に触れるの?
……駄目……!
「嫌……長政さま…………市に触れないで……」
「……何故だ?」
「だって、市は……市は…………!」
「市……?」
「市に関わったらみんな不幸になる…………長政さまだって同じ……だから……市に触れな」
市の。
脚の下。
「え……?」
「どうした?」
あの。
黒い。
「な、長政さま……市から離れて……! お願い、逃げて……!」
「市?」
「早く……早く、離して……!」
脚の下で蹲ってたそれが。
一気に暴発し。
形どる。
「!?」
「長政さま……!」
市の意識が突然遠のいた。
目を閉じる寸前に見えたものは。
それが幾体もの黒い“手”となり。
市の手首を掴む長政さまの身体を取り巻き。
中には長政さまの髪を掴むもの。
中には長政さまの首を括ろうとするもの。
何故?
長政さまに何故?
“あれ”は危険なの?
やめて……。
やめて……!
長政さまにだけは。
そんなこと、しないで……!
何が起こったのか、分からなかった。
ただ聞こえたのは。
何とも例え難い声のような。
おぞましい音の中に。
愛しい声だけ。
その声が。
何度も。
何度も。
「市!!」
腕をぐんと引っ張られる感触。
市ははっとし。
目を開けた。
灯は消えてしまったのだろう。
真っ暗な部屋は散乱し。
あの黒いものは跡形もなく消えていた。
そして。
目の前には。
肩で息をする長政さま。
月明りでもわかる。
腕には切り傷。
着物もあちこち裂かれていて。
畳には無数の髪が落ち。
首には赤黒い跡。
その手の中には。
市の、手首。
「ま、さか…………市……?」
歯が。
かちかちと鳴った。
「市、お前……」
「市が……市が長政さまを傷つけた……! 長政さま……!
何故手を離してくれなかったの……!?」
「市……」
「何故……何故手を離して市を斬ってくれなかったの!?」
「斬る……? お前をか?」
「やっぱり……やっぱり市は長政さまを傷つける……不幸にする……!
人を幸せになんて……市なんて、いなくなれば……!」
「お前はただ一人と心に決めた人間を手にかけられるのか!?」
市はびくっとした。
吃驚して。
長政さまを、見た。
「人の幸不幸もお前が決めるな! 私がお前を娶って不幸だと詰った事があったか!?」
「……な……長」
「悔いたと、お前を責めた事があったか!?」
ぽろぽろと。
涙だけが。
時を流れている。
止まっていたと思っていた時は。
本当はどれだけ流れたのだろう。
ようやく声を発す。
「…………長政さまの……お傍にいたい……」
「………………」
「だけど……市、何もできない……」
痛い。
胸が、痛い。
「市はいつも長政さまに迷惑ばかりかけて……長政さま、怒らせて……怒鳴るの、もう嫌でしょ……?
だから市……」
「………………」
「市は…………市は……側室でも構わないって……」
本当は。
「どこか遠くへ市を置いておいてくれても……いいの…………それでも……」
離れたくなんかない。
離れたくなんか、ないよ。
「それでも……長政さまの、お嫁さんでいられるから……」
どこにいたって。
長政さまの無事を祈ることはできる。
長政さまのことを考えることはできる。
長政さまのことを想うことはできる。
ただ。
逢えなくなるだけ。
声が聴けなくなるだけ。
「浅井の血も……市でなくても絶やさずにいられる…………長政さまのお嫁さんなら誰でも、いいもの……」
長政さまの子供を産むのは。
浅井の姫。
それは。
市でなくても、叶うこと。
どこにいたって長政さまの無事を祈ることができて、長政さまのことを考えることはできて。
長政さまを想うことはできる。
逢えなくなるだけ、声が聴けなくなるだけ。
たったそれだけのことなのに。
簡単なことなのに。
胸が痛くて。
苦しくて。
「嫌われてるの……知ってるから…………」
「…………れ」
「市に触れたら……もっと嫌われる……」
「黙れ!!」
長政さまが声を上げる。
それと同時に歯を食い縛った長政さまが市の手首を引っ張り。
市をその逞しい自分の胸に押し込んだ。
肩越しに見える散乱した部屋。
微かにしか感じていなかった長政さまの匂いが強く香って。
市の肩と腰に回された腕は温かく、力強く。
動けなかった。
瞬きができなくて。
息をするのも忘れて。
何が起きているのか。
少しも理解ができなかった。
ただただ。
長政さまの着物を涙で濡らすことしか、できなかった。
「な、がまさ……さま…………どう、して……」
「………………」
「どうして…………市に触れるの……?」
長政さまは答えない。
「知られたくない、の……これ以上、嫌われたくないの…………市は闇に染まっ」
「黙れと言っているんだ!!」
長政さまは再度市を怒る。
けれど。
その腕の力は緩めてくれない。
「長政さま…………だって、市……にいさまの妹、だよ……?」
市の視界に入る部屋は相変わらず、歪んだまま。
「にいさまは……みんなを不幸にしてきた……だから、市も……市も…………」
震えが、止まらない。
「みんな、にいさまを恐れてる……だからみんなも、市を見る目も同じ……」
「それが何だと言うのだ」
口を閉ざしていた長政さまが遮った。
「お前はお前だ。 私はお前の兄者に怯えてなどいない」
その声が静かに響く。
部屋にも。
市の心にも。
「それに……私がお前に触れるのは妻だからという義務感からではない」
「え……」
「……お前だからだ! 他に理由など無い!」
市、だから……?
長政さまのお嫁さん、だからじゃなくて……?
長政さま。
長政さまは、市のこと。
ちゃんと“市”として見ててくれるの……?
「お前が何を考えているか解らないが、私は他に慕う人間などいない」
溜息をつく長政さま。
それすらも。
身が裂かれるよう。
「お前は何もしなくて良いのだ」
「だ……だけど…………」
「食事も繕いもする人間はいるんだ。 何もお前がわざわざする事ではない」
「………………」
だけど。
それじゃ……。
市のいる意味は……?
「ましてや戦場になど絶対に連れて行かん。 お前がいると私が戦に集中出来ぬ事など目に見えている」
邪魔……ということ…………なの?
市は。
長政さまの足枷……?
「お前を傷つける訳にはいかないだろう。 お前にもしもの事があったら私は……どうしたらいいか分からん。
想像など出来ぬ」
「…………な」
「だからお前は城で私の帰りを待てば良いのだ。 それだけで、良い」
市の目は。
相変わらず視界は滲んでて。
でも。
その涙は。
ゆっくりと身を離す長政さま。
大きな掌で市の両頬を包み。
涙を拭った。
「だから、もう泣くな」
途端。
嗚咽が部屋に響く。
涙は。
意味を変えていく。
「言ったそばから、お前は」
「だ、って……」
――いた。
ここに、いた。
真っ直ぐに“市”を見てくれる人。
本当は心の優しい人。
にいさまを恐れることなく。
“市”を“市”として接してくれる人。
それは。
長政さま、だったの。
拭ってくれたはずの涙は溢れるばかり。
市の頬に触れるこの手が。
大きいこの手が温かくて。
今まで生きてきた中で一番。
一番。
生きているという実感。
いつまでも、いつまでも感じていたい。
「……長政さま……離して…………」
「まだ何かあるのか」
「市が…………市が長政さまの体温、奪ってしまうから……」
途端呆れた声が部屋に響いた。
「何を馬鹿な事を言っている」
「で、でも……長政さまを染めたくない……」
「……?」
「市……真っ黒いから…………長政さままで染まったら……」
「……本当に愚かだな、お前は」
泣き止むことができなかった。
どうやったら泣き止むのだろう。
市の身体を僅かに引き寄せる長政さまの長い腕が。
市の髪を撫でてくれてる長政さまの大きな掌が。
春の陽射しのように本当に温かくて。
「ごめんなさい……長政さま…………市がこんな人間で……」
「……謝るな」
「長政さま、婚姻を望んでなかったのに……人質みたいな市を娶って……」
「………………」
「市もね……望んでなかったの…………」
長政さまが市の髪を梳く手を止めた。
「望んでなかった…………望むことなんか許されなかった。
にいさまに言いように扱われて……市の望みなんてなかった………………でも」
長政さまの腕の中で。
長政さまを見上げる。
「長政さまにお会いして、長政さまの妻となって…………市……」
長政さまを初めて見た時。
あの婚姻の儀。
一瞬ではあったけれど。
何て真っ直ぐに人を見る人なんだろうと思った。
市を見る時も例外じゃなくて。
それが恥ずかしくて。
思ってることが見透かされそうで。
黒い自分を戒めてそうで。
「市…………生まれて初めて、嬉しいって思ったの」
長政さまはひとつ息を吐いて。
天を仰いだ。
「誰が望んでなかったと言ったんだ?」
「…………え……」
「誰に言われたのではない。 私がお前をと決めたのだ」
市は。
震えながら。
長政さまの着物の袂を掴む手に力を入れる。
「……市で、いいの……?」
「何を今更……」
「年を取って、おばあちゃんになっても……?」
「ああ、お前は!」
苛立つように長政さまは声を荒げた。
「馬鹿な事を言うな、誰でも年を取る! お前で良いと何度言わせる気だ!!」
怒鳴る長政さまに。
何故か恐怖心も何もなかった。
あったのは。
嬉しさと。
それから。
「もういい加減にしろ。 泣くな」
「う…………嬉し泣き、でも……?」
「そ、それでもだ! 貴様が泣くとどうしていいものか解らなくなる!」
長政さまは市の顔を強く胸に押し付ける。
……市の気のせい?
長政さまの鼓動。
とても、早い。
黙って再び市を抱き締めてくれる。
今度はちゃんと感じることができた。
目を閉じる。
長政さまの胸。
大きくて、広くて。
落ち着くことのできる長政さまの胸。
もう少しこのままでいたい。
でも。
市は軽く長政さまの胸の中で身を捩る。
「長政さま…………うつっちゃうよ……」
「構わん」
「え……」
市の肩を抱いた腕の力が緩み。
長政さまはその手で、ゆっくり市の顔を持ち上げる。
「私にうつせ」
「で、でも……」
「お前が苦しんでるより、私が病んでる方がましだ!!」
よく知った声が。
今までの中で一番優しく。
市の名を呼んだ。
それは怒りも何も含んでなく。
ただ。
優しさ、だけ。
「………………な」
市から吐き出されようとした長政さまの名が。
長政さまの口内へと吸い込まれた。
市は。
目を閉じることができなかった。
ただ、ただ。
長政さまの長い睫毛だけを。
目に焼き付けて。
唇に。
長政さまの温もりを感じながら。
僅かに市から離れ。
「お前が私の体温を奪うのなら、逆もあるだろう」
もう一度。
軽く唇が合わさり。
離れた瞬間。
長政さまは。
市を押し倒し。
二人、布団の上へと。
長政さまはじっと、市を見てる。
逸らしてくれない。
市も。
ちゃんと逸らさず受け止める。
そして。
市は。
知ったの。
長政さまのふたつの瞳の奥。
篝火のような焔があること。
それは市を照らしてくれてるような。
導いてくれるような。
赤くて。
柔らかくて。
それは。
市にとって。
「温かい……」
「……? 熱が下がり過ぎたのではないか?」
「違うの…………温かい、長政さま……」
市の顔にかかった髪を退けてくれて。
市は今度、目を閉じた。
その数拍後。
唇に。
温かい感触。
「さぁ、もう寝ろ。 また熱が上がる」
「もう大丈夫だよ……?」
「……お前の体調が良くなったら……」
「………………?」
「…………良く、なったら……だな……」
言葉を濁した後。
次の言葉を発さない長政さま。
市は。
それをじっと待っていた。
「お前と…………繋がろうと思う」
ようやく口を開いた長政さまは。
頬を僅かに紅く染め、市から目を逸らし。
そう、小さく呟いた。
「い、ちと……?」
「だ、だからお前とだ」
「繋が……?」
「い……いい加減察しろ! そ、その……」
声のない。
口の動きだけの。
契りの、約束。
長政さま。
市を。
“お嫁さん”にしてくれるの……?
だけど。
――それは。
「浅井……のため……?」
「……市?」
長政さまが僅かに目を見開いて市を見た。
その姿に市の方が驚く。
「あ、ああ……そうか」
「長政さま……?」
「いや、何でもない。 もう休め」
「ち、違うの…………それでも、いいの……それでも……」
「………………」
それでも。
長政さまと結ばれるのなら。
それでも、いい。
「……長政さま……怒ってしまったの……?」
「怒っては、いない。 お前の言う通りだ」
長政さまは身を起こし、市の上から退こうとする。
それを制するように、市は長政さまの袂を掴んだ。
「だ……だって、市……市は…………」
市たちの間柄を考えれば。
「兄者の妹だからか? 私たちは政略結婚での夫婦だからか?」
市に覆い被さったまま、肘をついてる長政さまは。
市の顔を覗き込む。
「…………市は……にいさまと同じ血が流れてるんだよ……?」
「だからどうした。 私はそんな風に思った事はない。
お前に兄者の影を重ねた事は無い」
市を真っ直ぐに見ながら。
「でも……長政さまは浅井のために全然知らない市を娶って……他に愛していた人もいたかもしれな」
「他に慕った人間はいないと言っただろう。 何度言わせる」
「ご……ごめんなさい……」
「……私も妻にするのに誰だって良かった訳ではない」
「え…………」
月明りに照らされる長政さまの顔。
その瞳も輝く。
「浅井のためではない。 ……お前を妻に迎えた事に後悔など無い」
無理に決まってる。
涙を止めること。
長政さまを嫌いになること。
離れたくない。
長政さまと、ずっとずっと一緒にいたい。
隣に立てば、見上げる位置にある長政さまの顔。
いつも真っ直ぐに物事を見つめる真っ黒な瞳に。
陽に晒せば少し茶褐色に光る真っ黒な髪。
でも。
それは何となくでしか。
市の脳裏には焼き付いて、いなかった。
――じっくりと、長政さまの顔を見たことがなかったから。
長政さまと、目を合わせることなんて……ほとんどなかったから。
瞳も髪も。
長政さまに気づかれないよう。
そっと見てるだけだった。
目が合う前に、目を逸らして。
いつしか市には。
長政さまを見られない理由があることに気がついたの。
市が長政さまの寝着の裾を摘む。
「長政さま……お願いが、あるの……」
「何だ」
「手……繋いでも……いい……?」
「何かと思ったらそんな事……いちいち許可を取るな」
差し出された長政さまの左手は。
強引に市の右手を捕らえる。
温かい、長政さまの手。
そして、合わせられた瞳と瞳。
その瞳は本当は。
優しさを湛えていて。
いつか城の人たちが言ってた、“見目良い”って。
その意味がようやく分かった気がした。
そして。
少しも気がつかなかったその瞳の奥の焔。
ようやく気づいた市は。
本当に馬鹿、だった。
笑ってくれなくてもいい。
それでもいいの。
いつまでも。
長政さまのその瞳に見つめられたいと。
思ったの。
長政さまの手の親指が。
市の手の甲をなぞる。
「市……」
「はい……」
「お前が戻る場所はここにある」
「長政さま……」
「私の許可無しに出て行く事など、許さぬ」
「はい……」
「お前はもう浅井の人間で、私の妻だからな」
「……はい……」
長政さま。
市ね。
本当に嬉しかった。
市がここにいていいということ。
長政さまの傍にいていいということ。
ほんの小さなことでよかったの。
長政さまの傍にいられる理由が欲しかったの。
「嬉しい……」
「泣くなと言っているだろう! もう寝ろ。 私も眠る」
長政さまはそう言うと。
捲れた布団を市の頭まで掛け。
傍に横になった。
「な、長政さま……ここに……?」
「お、お前がそんなに強く私の手を握っていれば、部屋に戻る事も出来ん」
ずっと触れていたかったのか。
知らず知らずに両の手で長政さまの手を包んでいて。
慌てて離そうとするその前に。
横になった長政さまは、自身の腕で頭を支え。
市を見つめてくれた。
市も布団から顔を出し。
少しぎこちなかったかもしれない。
市は不器用だから。
上手にできなかったかもしれない。
「長政さま……ありがとう……」
そしたら長政さまの目が見開き。
すぐさま市から視線を外す。
「は、早く寝ろと言っている!」
「はい……おやすみなさい」
やっぱり。
上手く笑えなかったかもしれない。
怒ったように長政さまは市と目を合わせない。
市も恥ずかしくなって、布団に顔を埋め目を閉じた。
それでも。
近くに、すぐ傍に。
長政さまがいて。
呼吸を感じ。
体温を感じ。
鼓動を感じる。
それだけで、単純な市は安心できる。
夢の世界に行って、長政さまがどんどん市を置いて歩いて行っても。
振り返らなくても。
怖くはない。
市は、その背を追うだけ。
でも、きっともう見ない。
特に今日は。
こうして長政さまと手を繋いでいる夢を見られる気がする。
明日の朝が来て。
また長政さまに逢える前に。
その前に。
もう一度。
長政さまに逢いたいから。
逢いに、行くから。
今度は。
市が長政さまの名を呼んだら。
立ち止まって。
振り返って。
長政さまも、市の名を呼んでね――。
「双瞳の焔 第六章 -至愛-」 |
20080806 |