にいさまの後姿が見えた。

 

 

 

市はその背に何度も何度も声を上げて呼ぶけど。

にいさまは一向に市を振り返らなかった。

 

それは悲しいとか寂しいとか、そういう気持ちは微塵もなかった。

だってにいさまはいつだって市を市として見てくれなかったもの。

だからにいさまが振り返らなくて、悲しくも寂しくもなかったの。

 

寧ろ。

嬉しかった。

だから、笑ったの。

もう、市はにいさまのものじゃないから。

 

 

さよなら。

にいさま。

 

 

 

そして。

隣にいるのは。

市の旦那さま。

愛しい、愛しい人。

 

長政さまは。

市を一瞥すると。

市に背を向け。

その場を去ろうとする。

市は驚いて長政さまのその腕を取ろうとするが。

それは振り払われ。

市を置いて。

歩き出している。

 

長政さまの名を呼んだ。

声を上げて。

喉が潰れるくらい。

 

 

どうして?

どうして振り返ってくれないの?

市は泣いて懇願した。

 

 

戻って来て。

傍にいて。

 

長政さまは振り返らない。

 

……長政さまも、そうなの?

市を市として見てはいないの?

にいさまの妹だから。

 

――それでもいい。

一緒にいて。

市から離れないで。

 

力の限り。

長政さまを呼んだ時。

 

 

 

 

 

「市!!」

 

 

 

 

 

市は。

目を開けた。

天井。

市の部屋の、天井。

 

目尻から涙を流し。

滅多にかかない汗を流し。

息を荒げて。

 

夢……。

 

……夢?

本当に、夢……だったの?

夢じゃないかもしれない。

長政さまは。

市のこと、そういう風に思ってるのかもしれない。

だとしたら。

市は、どうする……?

それでもいいって。

本当に思う?

 

「……大丈夫か?」

 

その声に。

市は傍らを見た。

長政さまが。

眉間に皺を寄せ。

市を覗き込んでいた。

 

「……な、長政さま……?」

「平気か? だいぶうなされていたぞ」

「…………市……」

「身体は大事ないか? 丸二日眠り続けていたからな」

「え……」

「少し待ってろ」

 

言って長政さまは立ち上がり。

屏風の向こうの襖を開け女中さんを呼んだ。

 

「寝着を替えてやれ。 あと食べられるようなら夕餉も用意しろ」

「はい」

 

長政さまは部屋から出。

代わりに数人の女中さんが入ってきた。

 

「さ、姫様。 起き上がれますか?」

 

市の身を起こし。

着物を脱がせ始めた。

ひとりの女中さんが市の額に手を当てる。

 

「ああ、かなり熱も下がりましたね。 長政様の献身的な看病のお陰でしょうか」

「え……? 長政……さま?」

「はい。 長政様が寝ずに姫様の看病をされて」

 

長政さまが……寝ずに?

ずっと。

ずっとここにいてくれたの……?

 

そういえば。

あの時。

姉川の河原。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瞼の向こうは暗かった。

夜だったのか。

虫の声も聞こえていた。

 

あれは。

何だったんだろう。

川に落ちたつもりだったのに、市は川底に沈んでいると思っていたのに。

風を感じていた。

そして。

市の身体にさわさわと。

何かが触れていた。

何かが遠くで聞こえていて。

でもそれは何かは分からなかった。

 

その中で。

呼ばれた気がした。

市の名を。

誰かが呼んでくれた気がした時。

 

市の身体を触る何かが消え。

代わりに。

何かが市の腕を掴み。

直後。

身体がぎゅっと、縛られた感触。

だけど。

それは苦しくはなく。

嗅いだ事のある、匂いだった。

聞いた事のある、声、だった。

 

身体が持ち上げられ。

髪がゆらゆらすれば。

それはとても気持ちがよかった。

 

市に触れる何かは冷たくて。

でも心地がよくて、温かくて。

 

 

 

あれは。

長政さまだったの……?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

身体を拭き、着替えも終わり。

少しだけ夕餉を口にすれば。

再度部屋に入って来た、寝着を纏う長政さまは人払いをし。

市の傍らに座る。

慌てて布団の上で畏まった。

 

「長政さま…………あ、あの……ご……ごめんなさい……」

「何がだ?」

「あの……ずっといてくれたって……」

「別に……額の手拭いを替えただけだ」

「お……お仕事もあったのに……」

「別に…………構わん」

 

暫し続く沈黙。

この沈黙が痛い。

長政さまの視線が、痛い。

 

ど……どうしよう……。

あの時。

長政さまが戻る前に帰るつもりだったのに……。

市は溜息をつき、目を伏せた。

 

また。

長政さまに怒られてしまう。

市はやっぱり。

長政さまに迷惑をかけてしまう……。

 

 

ようやく口を開いたのは。

長政さま。

 

「……何故姉川にいた?」

「……ごめんなさい…………ごめんなさい……」

「何故だと聞いてるんだ」

「あ…………あ、の…………暑かったから、その……す、涼みに」

「姉川までか?」

「………………」

 

視界がぼやける。

駄目……泣いちゃ……。

また、長政さまに怒られる。

答えない市に長政さまの口が開いた。

 

「熱があったという自覚もないのか」

「……ごめんなさい……」

「何故無茶をするのだ……」

 

長政さまが大きな溜息をついた。

 

「……出て行くつもりだったのか?」

 

そんなこと。

できるわけがない。

“手段”の市が。

ここから逃げ出すなんてできるわけがない。

長政さまに嫌われても。

市の居場所は。

織田じゃない。

市は、首を横に振った。

 

「一昨日のあれも何だ。 側室などと」

「ご……ごめんなさ……」

「……織田へ、帰りたいのか?」

「ち、違……!」

 

織田に帰りたいと思ったことはない。

帰っても市はにいさまの人形だもの。

生きてないの。

にいさまに従うだけ。

 

だけど。

だから。

 

「…………離縁したいのか?」

 

市はぎゅっと目を瞑った。

力の限り、首を振る。

その反動で。

 

どうしよう。

 

市は。

長政さまから背を向けた。

 

「長政さま……ごめんなさい」

「…………?」

「市……止まらないの…………市、涙が止まら、ないの……」

「………………」

「見せたくないの……怒らせたくないの…………だから、長政さま……」

「…………ち……」

「長政さま…………この、部屋から出て行って……」

 

涙が止まらない。

いや。

もう、これ以上。

長政さまを困らせたくない。

なのに。

止まってくれない。

 

すると。

長政さまは。

市の肩を掴み。

自分の方に向かせ、手首を掴んだ。

 

「な……」

「答えろ。 私から、離れるか?」

「違う……違う……っ!」

 

長政さまが。

市に。

 

どうして。

どうして市に触れるの?

 

……駄目……!

 

「嫌……長政さま…………市に触れないで……」

「……何故だ?」

「だって、市は……市は…………!」

「市……?」

「市に関わったらみんな不幸になる…………長政さまだって同じ……だから……市に触れな」

 

市の。

脚の下。

 

「え……?」

「どうした?」

 

あの。

黒い。

 

「な、長政さま……市から離れて……! お願い、逃げて……!」

「市?」

「早く……早く、離して……!」

 

脚の下で蹲ってたそれが。

一気に暴発し。

形どる。

 

「!?」

「長政さま……!」

 

市の意識が突然遠のいた。

目を閉じる寸前に見えたものは。

それが幾体もの黒い“手”となり。

市の手首を掴む長政さまの身体を取り巻き。

中には長政さまの髪を掴むもの。

中には長政さまの首を括ろうとするもの。

 

 

 

何故?

長政さまに何故?

“あれ”は危険なの?

やめて……。

やめて……!

長政さまにだけは。

そんなこと、しないで……!

 

何が起こったのか、分からなかった。

ただ聞こえたのは。

何とも例え難い声のような。

おぞましい音の中に。

愛しい声だけ。

その声が。

何度も。

何度も。

 

 

「市!!」

 

 

腕をぐんと引っ張られる感触。

市ははっとし。

目を開けた。

灯は消えてしまったのだろう。

真っ暗な部屋は散乱し。

あの黒いものは跡形もなく消えていた。

そして。

目の前には。

肩で息をする長政さま。

月明りでもわかる。

腕には切り傷。

着物もあちこち裂かれていて。

畳には無数の髪が落ち。

首には赤黒い跡。

その手の中には。

 

市の、手首。

 

「ま、さか…………市……?」

 

歯が。

かちかちと鳴った。

 

「市、お前……」

「市が……市が長政さまを傷つけた……! 長政さま……! 何故手を離してくれなかったの……!?」

「市……」

「何故……何故手を離して市を斬ってくれなかったの!?」

「斬る……? お前をか?」

「やっぱり……やっぱり市は長政さまを傷つける……不幸にする……! 人を幸せになんて……市なんて、いなくなれば……!」

 

 

 

 

 

「お前はただ一人と心に決めた人間を手にかけられるのか!?」

 

 

 

 

 

市はびくっとした。

吃驚して。

長政さまを、見た。

 

「人の幸不幸もお前が決めるな! 私がお前を娶って不幸だと詰った事があったか!?」

「……な……長」

「悔いたと、お前を責めた事があったか!?」

 

ぽろぽろと。

涙だけが。

時を流れている。

 

止まっていたと思っていた時は。

本当はどれだけ流れたのだろう。

ようやく声を発す。

 

「…………長政さまの……お傍にいたい……」

「………………」

「だけど……市、何もできない……」

 

痛い。

胸が、痛い。

 

「市はいつも長政さまに迷惑ばかりかけて……長政さま、怒らせて……怒鳴るの、もう嫌でしょ……? だから市……」

「………………」

「市は…………市は……側室でも構わないって……」

 

本当は。

 

「どこか遠くへ市を置いておいてくれても……いいの…………それでも……」

 

離れたくなんかない。

離れたくなんか、ないよ。

 

「それでも……長政さまの、お嫁さんでいられるから……」

 

どこにいたって。

長政さまの無事を祈ることはできる。

長政さまのことを考えることはできる。

長政さまのことを想うことはできる。

 

ただ。

逢えなくなるだけ。

声が聴けなくなるだけ。

 

「浅井の血も……市でなくても絶やさずにいられる…………長政さまのお嫁さんなら誰でも、いいもの……」

 

長政さまの子供を産むのは。

浅井の姫。

それは。

市でなくても、叶うこと。

 

どこにいたって長政さまの無事を祈ることができて、長政さまのことを考えることはできて。

長政さまを想うことはできる。

 

逢えなくなるだけ、声が聴けなくなるだけ。

 

たったそれだけのことなのに。

簡単なことなのに。

胸が痛くて。

苦しくて。

 

「嫌われてるの……知ってるから…………」

「…………れ」

「市に触れたら……もっと嫌われる……」

「黙れ!!」

 

長政さまが声を上げる。

それと同時に歯を食い縛った長政さまが市の手首を引っ張り。

 

 

 

市をその逞しい自分の胸に押し込んだ。

 

 

 

肩越しに見える散乱した部屋。

微かにしか感じていなかった長政さまの匂いが強く香って。

市の肩と腰に回された腕は温かく、力強く。

 

動けなかった。

瞬きができなくて。

息をするのも忘れて。

何が起きているのか。

少しも理解ができなかった。

 

ただただ。

長政さまの着物を涙で濡らすことしか、できなかった。

 

 

「な、がまさ……さま…………どう、して……」

「………………」

「どうして…………市に触れるの……?」

 

長政さまは答えない。

 

「知られたくない、の……これ以上、嫌われたくないの…………市は闇に染まっ」

「黙れと言っているんだ!!」

 

長政さまは再度市を怒る。

けれど。

その腕の力は緩めてくれない。

 

「長政さま…………だって、市……にいさまの妹、だよ……?」

 

市の視界に入る部屋は相変わらず、歪んだまま。

 

「にいさまは……みんなを不幸にしてきた……だから、市も……市も…………」

 

震えが、止まらない。

 

「みんな、にいさまを恐れてる……だからみんなも、市を見る目も同じ……」

「それが何だと言うのだ」

 

口を閉ざしていた長政さまが遮った。

 

「お前はお前だ。 私はお前の兄者に怯えてなどいない」

 

その声が静かに響く。

部屋にも。

市の心にも。

 

「それに……私がお前に触れるのは妻だからという義務感からではない」

「え……」

「……お前だからだ! 他に理由など無い!」

 

 

 

市、だから……?

長政さまのお嫁さん、だからじゃなくて……?

長政さま。

長政さまは、市のこと。

ちゃんと“市”として見ててくれるの……?

 

 

 

「お前が何を考えているか解らないが、私は他に慕う人間などいない」

 

溜息をつく長政さま。

それすらも。

身が裂かれるよう。

 

「お前は何もしなくて良いのだ」

「だ……だけど…………」

「食事も繕いもする人間はいるんだ。 何もお前がわざわざする事ではない」

「………………」

 

だけど。

それじゃ……。

市のいる意味は……?

 

「ましてや戦場になど絶対に連れて行かん。 お前がいると私が戦に集中出来ぬ事など目に見えている」

 

邪魔……ということ…………なの?

市は。

長政さまの足枷……?

 

 

 

「お前を傷つける訳にはいかないだろう。 お前にもしもの事があったら私は……どうしたらいいか分からん。 想像など出来ぬ」

「…………な」

「だからお前は城で私の帰りを待てば良いのだ。 それだけで、良い」

 

 

 

市の目は。

相変わらず視界は滲んでて。

でも。

その涙は。

ゆっくりと身を離す長政さま。

大きな掌で市の両頬を包み。

涙を拭った。

 

「だから、もう泣くな」

 

途端。

嗚咽が部屋に響く。

涙は。

意味を変えていく。

 

「言ったそばから、お前は」

「だ、って……」

 

 

 

――いた。

 

 

 

ここに、いた。

真っ直ぐに“市”を見てくれる人。

本当は心の優しい人。

にいさまを恐れることなく。

“市”を“市”として接してくれる人。

 

 

 

それは。

長政さま、だったの。

 

 

 

拭ってくれたはずの涙は溢れるばかり。

市の頬に触れるこの手が。

大きいこの手が温かくて。

今まで生きてきた中で一番。

一番。

生きているという実感。

いつまでも、いつまでも感じていたい。

 

「……長政さま……離して…………」

「まだ何かあるのか」

「市が…………市が長政さまの体温、奪ってしまうから……」

 

途端呆れた声が部屋に響いた。

 

「何を馬鹿な事を言っている」

「で、でも……長政さまを染めたくない……」

「……?」

「市……真っ黒いから…………長政さままで染まったら……」

「……本当に愚かだな、お前は」

 

泣き止むことができなかった。

どうやったら泣き止むのだろう。

 

市の身体を僅かに引き寄せる長政さまの長い腕が。

市の髪を撫でてくれてる長政さまの大きな掌が。

春の陽射しのように本当に温かくて。

 

「ごめんなさい……長政さま…………市がこんな人間で……」

「……謝るな」

「長政さま、婚姻を望んでなかったのに……人質みたいな市を娶って……」

「………………」

「市もね……望んでなかったの…………」

 

長政さまが市の髪を梳く手を止めた。

 

「望んでなかった…………望むことなんか許されなかった。 にいさまに言いように扱われて……市の望みなんてなかった………………でも」

 

長政さまの腕の中で。

長政さまを見上げる。

 

「長政さまにお会いして、長政さまの妻となって…………市……」

 

長政さまを初めて見た時。

あの婚姻の儀。

一瞬ではあったけれど。

 

何て真っ直ぐに人を見る人なんだろうと思った。

市を見る時も例外じゃなくて。

それが恥ずかしくて。

思ってることが見透かされそうで。

黒い自分を戒めてそうで。

 

「市…………生まれて初めて、嬉しいって思ったの」

 

長政さまはひとつ息を吐いて。

天を仰いだ。

 

「誰が望んでなかったと言ったんだ?」

「…………え……」

「誰に言われたのではない。 私がお前をと決めたのだ」

 

市は。

震えながら。

長政さまの着物の袂を掴む手に力を入れる。

 

「……市で、いいの……?」

「何を今更……」

「年を取って、おばあちゃんになっても……?」

「ああ、お前は!」

 

苛立つように長政さまは声を荒げた。

 

「馬鹿な事を言うな、誰でも年を取る! お前で良いと何度言わせる気だ!!」

 

怒鳴る長政さまに。

何故か恐怖心も何もなかった。

あったのは。

嬉しさと。

それから。

 

「もういい加減にしろ。 泣くな」

「う…………嬉し泣き、でも……?」

「そ、それでもだ! 貴様が泣くとどうしていいものか解らなくなる!」

 

長政さまは市の顔を強く胸に押し付ける。

……市の気のせい?

長政さまの鼓動。

とても、早い。

 

黙って再び市を抱き締めてくれる。

今度はちゃんと感じることができた。

目を閉じる。

長政さまの胸。

大きくて、広くて。

落ち着くことのできる長政さまの胸。

もう少しこのままでいたい。

 

でも。

市は軽く長政さまの胸の中で身を捩る。

 

「長政さま…………うつっちゃうよ……」

「構わん」

「え……」

 

市の肩を抱いた腕の力が緩み。

長政さまはその手で、ゆっくり市の顔を持ち上げる。

 

「私にうつせ」

「で、でも……」

「お前が苦しんでるより、私が病んでる方がましだ!!」

 

 

 

 

 

よく知った声が。

今までの中で一番優しく。

市の名を呼んだ。

それは怒りも何も含んでなく。

ただ。

優しさ、だけ。

 

 

 

 

 

「………………な」

 

 

 

 

 

市から吐き出されようとした長政さまの名が。

長政さまの口内へと吸い込まれた。

 

 

 

 

 

市は。

目を閉じることができなかった。

ただ、ただ。

長政さまの長い睫毛だけを。

目に焼き付けて。

唇に。

長政さまの温もりを感じながら。

僅かに市から離れ。

 

「お前が私の体温を奪うのなら、逆もあるだろう」

 

もう一度。

軽く唇が合わさり。

離れた瞬間。

長政さまは。

市を押し倒し。

二人、布団の上へと。

 

長政さまはじっと、市を見てる。

逸らしてくれない。

市も。

ちゃんと逸らさず受け止める。

 

そして。

市は。

知ったの。

 

長政さまのふたつの瞳の奥。

篝火のような焔があること。

それは市を照らしてくれてるような。

導いてくれるような。

赤くて。

柔らかくて。

それは。

市にとって。

 

「温かい……」

「……? 熱が下がり過ぎたのではないか?」

「違うの…………温かい、長政さま……」

 

市の顔にかかった髪を退けてくれて。

市は今度、目を閉じた。

その数拍後。

唇に。

温かい感触。

 

「さぁ、もう寝ろ。 また熱が上がる」

「もう大丈夫だよ……?」

「……お前の体調が良くなったら……」

「………………?」

「…………良く、なったら……だな……」

 

言葉を濁した後。

次の言葉を発さない長政さま。

市は。

それをじっと待っていた。

 

 

 

「お前と…………繋がろうと思う」

 

 

 

ようやく口を開いた長政さまは。

頬を僅かに紅く染め、市から目を逸らし。

そう、小さく呟いた。

 

「い、ちと……?」

「だ、だからお前とだ」

「繋が……?」

「い……いい加減察しろ! そ、その……」

 

声のない。

口の動きだけの。

 

 

契りの、約束。

 

 

長政さま。

市を。

“お嫁さん”にしてくれるの……?

だけど。

――それは。

 

「浅井……のため……?」

「……市?」

 

長政さまが僅かに目を見開いて市を見た。

その姿に市の方が驚く。

 

「あ、ああ……そうか」

「長政さま……?」

「いや、何でもない。 もう休め」

「ち、違うの…………それでも、いいの……それでも……」

「………………」

 

それでも。

長政さまと結ばれるのなら。

それでも、いい。

 

「……長政さま……怒ってしまったの……?」

「怒っては、いない。 お前の言う通りだ」

 

長政さまは身を起こし、市の上から退こうとする。

それを制するように、市は長政さまの袂を掴んだ。

 

「だ……だって、市……市は…………」

 

市たちの間柄を考えれば。

 

「兄者の妹だからか? 私たちは政略結婚での夫婦だからか?」

 

市に覆い被さったまま、肘をついてる長政さまは。

市の顔を覗き込む。

 

「…………市は……にいさまと同じ血が流れてるんだよ……?」

「だからどうした。 私はそんな風に思った事はない。 お前に兄者の影を重ねた事は無い」

 

市を真っ直ぐに見ながら。

 

「でも……長政さまは浅井のために全然知らない市を娶って……他に愛していた人もいたかもしれな」

「他に慕った人間はいないと言っただろう。 何度言わせる」

「ご……ごめんなさい……」

「……私も妻にするのに誰だって良かった訳ではない」

「え…………」

 

月明りに照らされる長政さまの顔。

その瞳も輝く。

 

 

「浅井のためではない。 ……お前を妻に迎えた事に後悔など無い」

 

 

無理に決まってる。

涙を止めること。

長政さまを嫌いになること。

 

離れたくない。

長政さまと、ずっとずっと一緒にいたい。

 

 

隣に立てば、見上げる位置にある長政さまの顔。

いつも真っ直ぐに物事を見つめる真っ黒な瞳に。

陽に晒せば少し茶褐色に光る真っ黒な髪。

でも。

それは何となくでしか。

市の脳裏には焼き付いて、いなかった。

 

――じっくりと、長政さまの顔を見たことがなかったから。

長政さまと、目を合わせることなんて……ほとんどなかったから。

 

瞳も髪も。

長政さまに気づかれないよう。

そっと見てるだけだった。

目が合う前に、目を逸らして。

いつしか市には。

長政さまを見られない理由があることに気がついたの。

 

 

 

市が長政さまの寝着の裾を摘む。

 

「長政さま……お願いが、あるの……」

「何だ」

「手……繋いでも……いい……?」

「何かと思ったらそんな事……いちいち許可を取るな」

 

差し出された長政さまの左手は。

強引に市の右手を捕らえる。

温かい、長政さまの手。

 

そして、合わせられた瞳と瞳。

 

 

 

その瞳は本当は。

優しさを湛えていて。

いつか城の人たちが言ってた、“見目良い”って。

その意味がようやく分かった気がした。

 

そして。

少しも気がつかなかったその瞳の奥の焔。

ようやく気づいた市は。

本当に馬鹿、だった。

 

笑ってくれなくてもいい。

それでもいいの。

いつまでも。

長政さまのその瞳に見つめられたいと。

思ったの。

 

 

 

長政さまの手の親指が。

市の手の甲をなぞる。

 

「市……」

「はい……」

「お前が戻る場所はここにある」

「長政さま……」

「私の許可無しに出て行く事など、許さぬ」

「はい……」

「お前はもう浅井の人間で、私の妻だからな」

「……はい……」

 

長政さま。

市ね。

本当に嬉しかった。

 

市がここにいていいということ。

長政さまの傍にいていいということ。

ほんの小さなことでよかったの。

長政さまの傍にいられる理由が欲しかったの。

 

「嬉しい……」

「泣くなと言っているだろう! もう寝ろ。 私も眠る」

 

長政さまはそう言うと。

捲れた布団を市の頭まで掛け。

傍に横になった。

 

「な、長政さま……ここに……?」

「お、お前がそんなに強く私の手を握っていれば、部屋に戻る事も出来ん」

 

ずっと触れていたかったのか。

知らず知らずに両の手で長政さまの手を包んでいて。

慌てて離そうとするその前に。

横になった長政さまは、自身の腕で頭を支え。

市を見つめてくれた。

 

市も布団から顔を出し。

少しぎこちなかったかもしれない。

市は不器用だから。

上手にできなかったかもしれない。

 

「長政さま……ありがとう……」

 

そしたら長政さまの目が見開き。

すぐさま市から視線を外す。

 

「は、早く寝ろと言っている!」

「はい……おやすみなさい」

 

やっぱり。

上手く笑えなかったかもしれない。

怒ったように長政さまは市と目を合わせない。

市も恥ずかしくなって、布団に顔を埋め目を閉じた。

 

それでも。

近くに、すぐ傍に。

長政さまがいて。

呼吸を感じ。

体温を感じ。

鼓動を感じる。

 

 

それだけで、単純な市は安心できる。

夢の世界に行って、長政さまがどんどん市を置いて歩いて行っても。

振り返らなくても。

怖くはない。

市は、その背を追うだけ。

 

でも、きっともう見ない。

 

特に今日は。

こうして長政さまと手を繋いでいる夢を見られる気がする。

 

 

明日の朝が来て。

また長政さまに逢える前に。

 

その前に。

 

もう一度。

長政さまに逢いたいから。

逢いに、行くから。

 

 

今度は。

 

市が長政さまの名を呼んだら。

立ち止まって。

振り返って。

 

 

長政さまも、市の名を呼んでね――。

 

 

 

 

 

「双瞳の焔 第六章 -至愛-」
20080806



ああ、長すぎな六章……(泣)退屈だった方、大変申し訳ございませんでしたッ!
本当は途中でエッチさせようと思ったのですが(何だと)、ウチの長政さまはきっと病み上がりの市じゃさすがに手は出さないだろうなと思い(笑)その代わりこの「双瞳の焔」一章増えました(爆笑)←いい加減にしろ。
解決気味な六章。ですがまだグダグダに続きがあります。本当にすみませんですッ。










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