数百の兵を率いて琵琶湖に沿って南へ下る。

残党が残っているとは言え、最早今の六角に勢いなど皆無だと言っても過言ではない。

右手に望む湖。

四方を山に囲まれる近江にとっては宝。

そう言えば最近はゆっくりと訪れたことは無かったな。

ここには一度来なければならない場所の筈なのに。

一度見せてやらなければならない場所の筈なのに。

未だ叶えられていない。

 

 

 

そろそろ拠点。

気を引き締めねばならぬというのに。

足取りは重く、小さく溜息が出る。

こんな気構えでは駄目だ、とひとつ頬を叩いた。

その時。

 

「長政様ーっ!!」

 

その声に私だけではない、誰もが振り返る。

早馬だった。

瞬間。

顔が引き攣ったのが分かった。

 

早馬に乗った兵は私の隊に追いつけば、慌てて馬を下り。

私の乗る馬の前で跪いた。

 

「何事だ……? まさか、戦か……!?」

 

私が城に不在との事を知って。

どこかの軍が小谷へと攻めて来たのかと。

まずい……。

今城には……!

 

その私の不安を他所に。

兵は息を整えて。

 

「い、いえ! ひ、姫様が……姫様が高熱を出され……そのまま城から出られて、行方不明にございます!!」

 

 

 

 

 

私は。

今。

一体どんな顔をしていたのだろう。

怒っていたのか。

それとも。

 

暫しの間。

その場を動かなかった私は。

手綱を引き。

馬を歩ませた。

 

「な、長政様……!」

「……捨て置け」

「何をおっしゃるのですか!?」

「城を出たかったのだろう? ならばそれで良い。 あれの自由だ」

「長政様!!」

「皆の者、行くぞ」

 

背後で何度も何度も私の名を呼ぶその兵を残し。

再び六角の拠点へと向かう。

私の馬だけの蹄が響く。

後をついてくる気配が無く。

その場に留まっている兵たちに声を荒げた。

 

「何をしている! 早く私に続かぬか!!」

 

慌てて馬を歩ませる兵達に苛立ち、舌打ちをした。

合流する朝倉が私に声を掛ける。

 

「長政殿、婚姻の儀以来お目にかかってはいないが、お市の方は綺麗な女人だったな」

 

私はそれに答えず。

 

「だが、そなたに感情がないのなら側室に置いてはどうだ? 織田との同盟も破棄はされぬ」

 

瞬間。

目を見開き。

私の奥歯が、鈍く鳴った。

 

「俺がいい所の娘を紹介しよう。 何、世は広い。 魔王の妹よりも見目好い娘など五万といる」

 

手綱を持つ手に力が入り。

震えた。

 

市を側室に。

市も、朝倉も。

誰もが考え付く所だろう。

当然だ。

私は。

 

 

市に何もしてやっていないのだから。

 

 

私は市に。

悲しい顔しかさせてやらなかった。

笑顔を、見た事がなかった。

 

 

どうにも許す事ができなかったのだ。

いつだって俯いていて。

いつだって泣きそうな顔をして。

いつだって私のためだと言って。

 

私が叱咤するのは――。

 

 

悲しい顔しかさせてやらなかった。

笑顔を見た事がなかった。

だから。

どうしたら喜んでもらえるかと。

どうしたら笑顔が見れるかと。

考え出した結果が。

“あれ”だった。

 

それにも拘らず。

市が塞ぎ込んだのを、聞いた。

それすら、人伝。

私をも部屋に入れなくて良いと。

聞かぬ振りをして、市の部屋に入った昨日。

 

私に距離を置いて、俯いていた。

 

俯いて悲しい顔をして。

怒鳴ったら。

泣きそうな顔をして。

 

朝餉も夕餉も自室で食べるようになった市。

ひとりで摂る食事は。

独身の時でも同じだった筈なのに。

 

目を閉じる。

 

やはり。

もう朝既に熱があったのだ。

いくら障子や襖を締め切った薄暗い部屋でも。

市の顔色くらい、あの場でしっかり確認出来ていたのに。

市の言われるままに。

触れる事を、怠った。

 

逃げ、か。

情けない。

私は。

たった一人をも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

既に戦意などなかった六角の残党は白旗を揚げる。

名の通る武人なども特におらず脅威的な存在でもない。

浅井に下る誓約を結ばせ、事無きを得た。

 

馬から降りる事も無く。

それらを家臣に任せ、目を閉じていた。

 

戦にもならず、無駄な血も流れない。

手離しで、とまでいかないが喜ばしい事ではあるだろう。

それなのに。

焦燥感を感じ。

落ち着きが取り戻せなかった。

 

こうしている間にも。

徐々に離れる。

身も、心も。

 

 

 

私達は。

互いを想って結ばれた仲ではない。

浅井と織田との政略結婚。

誰の了承を得る事も無く。

私が独断で決めた結婚。

身はともかく心まで捕らえる事など出来ぬ。

気持ちなど。

届く筈も無い。

 

――これで良い。

 

これであの瞳が私に向く事は無い。

あの声が私の耳に届く事も無い。

後悔など、無い。

 

 

そう、思っていた。

 

 

なのに。

 

 

 

「長政殿」

 

朝倉が私に声を掛け。

 

「………………っ」

 

唇を、噛んだ。

 

 

 

もうあの瞳を見る事は無い。

あの声を聞く事も無い。

後悔など無い。

そう思えたら。

 

自分の事だけを考える事が出来たら。

どんなに。

 

 

 

「く……っ」

 

手綱を引き。

馬の鼻を。

小谷へ向ける。

 

自分の事だけを考える事が出来たら。

感情など失くしたら。

 

必要が無いと思えたら。

 

どんなに。

楽なのだろうな。

 

「所用を思い出した。 私は早急に城へ帰る」

「長政様……!」

「朝倉殿」

 

私は。

その目を見ず。

独り言の様に、呟いた。

 

「……私は他に妻を娶るつもりはない……あれ以外は」

 

馬の尻を蹴り。

走らせた。

 

「はぁ……全くカタブツと言うか頑固と言うか……もう少し頭を柔らかくしなきゃ嫁さんが可哀相だな」

 

私の心などとうに見透かしていた朝倉の苦笑と呟きを聞く事も無く――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

早馬の如く、馬を走らせる。

道行く民が戦かと勘違いするほどに。

 

意外にも小谷が遠い。

南下する時には気付きもしなかったが。

往路では。

私は心ここに在らずと言ったところだったのか。

 

ともかく馬を走らせた。

 

俯いている妻しか知らない。

悲しい顔をしている妻しか知らない。

泣きそうな顔をしている妻しか。

 

それでも。

手離すつもりなど。

 

何故私は。

ああいう物の言い方しか出来ないのか。

 

「愚か者め……!」

 

市に対して、以上に。

自分に対して。

 

 

頼む。

どうか。

無事でいてくれ――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「長政様!!」

 

城の前で市の安否を待つ兵士が私を見つけ。

駆けつけた。

 

「市は!?」

「い、いえ……まだお戻りになられておりません!」

「長政様……私共がついていながらこの失態…………申し訳ございません!!」

 

女中が数人城から出てきて、土下座をした。

市を見失う、失態。

それは。

 

「貴様らが謝る事では無い。 私が探しに出る。 城で待っていろ」

「しかし長政様……!!」

 

兵の言う事など聞く耳も持たず。

私は馬を旋回させて山を下る。

 

そう。

謝るべきは。

失態を犯したのは、私。

 

市の。

悲しい顔しか。

私は知らない。

市の泣きそうな顔しか。

思い浮かばない。

 

 

市。

お前は今。

何処にいる?

小谷を出て。

最低な夫を捨て。

自由を満喫しているのか?

 

ああ、そうだ。

私は恨まれても仕方が無いのだ。

 

市をちゃんと見てやれなかった。

市の話を聞いてやれなかった。

市の傍にいてやれなかった。

職務に追われ多忙だったのは確か。

だが。

理由をつけて。

市に触れようとも、しなかった。

 

それでも。

最後に一目で良い。

一言で良い。

 

詫びさせろ。

そして。

出て行くのなら、構わん。

それでお前の。

幸せを、掴めるのなら。

 

 

 

 

 

小谷の山を一回りするが。

市らしき人影は見当たらなかった。

額にも背にも、汗が滲む。

 

町か?

それとも。

天を仰ぎ、市の行きそうな場所を思い巡らせる。

何処だ。

何処にいる……!?

 

山の中腹にいた私が麓を見下ろし、一番に目に入った場所。

 

「………………」

 

小谷からは歩くには多少時間のかかる場所。

考えにくい場所ではあるが。

それでも藁をも掴む思いで。

――姉川へと馬を走らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城下の大通りから小さな路地まで、道という道をくまなく探しながら。

悠然と流れるその川岸に辿り着く。

まさか、迷子にはなっていないだろうな……。

市は近江に疎い。

ここに来たのも日が浅いせいもあり。

地理すらよく分かっていない筈だ。

やはり、ここではないか。

溜息をついた。

 

もう夕刻。

辺りも薄暗くなってきている。

もっとも。

夜中になっても朝になっても。

市を見つけるまでは城へ帰るつもりなど無いが――。

 

 

崩壊している岩が視界に入る。

それは粉々に砕かれている。

まだ新しい。

元々は大きな岩であっただろう。

それを砕くのは容易な所業では無い。

労力も時間も必要。

 

市を逸早く見つける事が先決で、今は他の事に関心の無い私はそれから目を離そうとしたが。

不自然なその岩の傍に。

木や岩の影などではない。

不自然な、闇。

 

じっと目を凝らし、見ていると。

“それ”は僅かに動いている。

馬を下り。

近づけば。

その闇から微かに見える。

寝衣。

 

「……市?」

 

徐々に近づく。

横たわっていて、顔は見えないが。

乱れている、長い髪。

 

市だと、確信した。

 

安堵したと同時に。

その闇を凝視する。

何なんだ、あれは……。

見た事も無いそれ。

その市に取り巻く闇は。

まるで。

市を護るよう――。

 

「い……」

 

途端。

その闇が。

耳を劈く様な大きな音と共に。

暴発した。

 

「な……!」

 

同時に起こる竜巻の様な突風に力を入れた足の爪先。

川の水も砂も巻き込むそれに目を辛うじて開け見る。

天高く伸びたそれは。

幾つにも分かれ。

それぞれの先端は。

何かを捕らえようとするかのように

何かに縋ろうとするかのように。

 

 

“手”となった。

 

 

それは水面に波を立たせ、周辺の木々を薙ぎ倒す勢い。

また例外ではなく。

私にも襲い掛かった。

反射的に抜刀する。

 

「く……っ!」

 

水面を滑る様に水飛沫を上げながら、同時に伸びてきたふたつの“手”を斬る。

ほっとするのも束の間。

斬られた部分は修復され。

再度“手”を形作れば。

それは減速する事も無く、標的の私に向かってくる。

また刀を振り翳した。

そして、また繰り返し。

 

何度も何度も伸びる“手”を斬っていくが。

同様に“手”は再生され。

容赦なく、私を襲う。

だが。

この手に“斬った”という手応えが全く無い。

 

気付いた。

それは何かが具現化されたもの。

当初から形など無いもの。

いくら斬ったところで形無いものに痛手など加えられる筈も無い。

息が切れる。

私の体力だけが。

消耗していくだけだった。

 

「市……!」

 

横臥する市を見る。

市に何の影響は、無い。

 

市……これは、お前か?

だとしたら。

これは私への罰か。

 

その“手”に抵抗していた私は。

構えを解いた。

刀を捨てれば。

その内の一体が一回りも二回りも大きくなり。

私の身体を握り締めた。

 

「く……あああ……っ!!」

 

身体が軋み、全身の骨が砕かれそうな感覚に襲われる。

私の視界に入っていたのは。

横たわった市だけだった。

 

「い……ち……!」

 

そうか。

これが私への罰なら。

お前の想いなら。

甘んじて受けよう。

お前の手にかかっても。

私はそれでも良いと、思っている。

 

だが。

最後に。

 

「市…………市……!!」

 

 

 

力の限り叫べば、市の肩が大きく揺れる。

その瞬間に。

“手”は大気に吸い込まれるように消え。

市に纏わりつく闇も。

地中へと消えていった。

 

私を捉えていたそれも同様に。

束縛から逃れた私の身体は膝から落ち。

何度も咳き込み、息を吸い込んだ。

地についた手の傍に、額から流れ落ちる汗。

何が何だか分からなかったが。

横たわる市を視界に入れると。

立ち上がって市に駆け寄り。

その身体を抱き起こす。

着物越しでも簡単に伝わる熱。

 

顔の砂利を払い除け。

そのまま頬を包めば。

市は真っ赤な顔をして目を閉じていた。

うっすら口を開いている。

それからは。

やや荒い呼吸。

 

息をついたと同時に。

私は市を。

胸の中に抱き寄せた。

 

良かった、という思いと。

身の裂かれる様なこんな思いは二度と御免だという思い。

そして。

……小谷へ留まらせておきたいという思い。

いろいろな思いが込められ。

市の細い身体を。

加減も知らずに抱き締めた。

 

 

怒鳴りたい訳ではない。

本当にお前は。

何もしなくても良いのだ。

ただ、そこに。

そこに居てさえくれれば良い。

そして。

泣かずに。

笑っていれば――。

 

 

市から身体を起こし。

その顔を再び見る。

額や頬に乱れてかかる真っ黒い髪を払ってやり。

ぐったりと力の入らない身体を抱えれば、長い髪がしなやかに揺れる。

食が細いのか、それは容易に抱えられた。

長い睫毛が上を向く気配は無い。

 

市を馬に乗せ、私もすぐさま馬に跨れば。

市を起こさぬ様に。

馬を静かに動かし。

 

歩ませた。

 

 

 

城まで。

市を抱く腕の力を。

緩める事もせず――。

 

 

 

 

 

「双瞳の焔 第五章 -悔恨-」
20080714



「双瞳の焔」5話目にしてようやくダンナ様視点でございます。
長政さま、ちょっと汚名挽回できてますか?(笑)
つか「読めるだろ、この展開!」的なハナシになってしまいまして……大変申し訳ナイです〜……(泣)
やっぱデレすぎましたか……市が寝てるのをいいことに(笑)
市がいなくなると心配で心配でしょーがない長政さまを書きたかったのにナァ……とほほ。










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