瞼の向こうが明るくなり、雀のさえずりが耳に響けば目が覚める。
気づけば、朝。
今朝も昨夜のまま畳の上に伏して寝ていたようで。
ゆっくりと起き上がる。
少し、喉に痛みを感じながら。
市はそのまま足を抱え。
部屋の隅に座る。
両足の爪先を互いに弄りながら。
こうして部屋にいれば。
長政さまに怒られずに済む。
長政さまも怒らずに、済む。
部屋の外、遠くで沢山の人が行き交ってる。
静かな部屋にいれば、思い出す。
織田の時と、同じ。
変わらない。
市には。
何もない。
誰もいない。
それを痛感する。
何でだろう。
目が霞むのは。
どこへ行っても。
何も変わるはずないのに。
何を。
期待したんだろう……。
馬鹿な、市。
「姫様、起きていらっしゃいますか?」
女中さんが声を掛け、部屋を開ける。
「ああ、姫様。 おはようございます」
「おはよう……」
「まだ障子を開けてらっしゃいませんか? 今日は良い天気ですよ」
障子を開ければ、一気に陽の光が市の部屋に差し込む。
本当にいい天気。
思わず目が細めた。
「眩しい……」
「申し訳ありません。 でも姫様、ここの百合たちも姫様にお会いしたがっております。
見てやって下さいまし」
市は、庭を見る。
百合。
この間から植わり始めた、百合。
あれから毎日一本ずつ数を増やしていた。
「……誰かが植えてくれてるの?」
「いえ、私には分かりかねますが……ああ、姫様。
髪が乱れておりますね」
女中さんは櫛を持って市の髪を梳いてくれる。
「姫様の髪は本当に綺麗でらっしゃいますね」
「綺麗……? そうかしら……」
「はい。 艶も良く癖もなく、水すら弾いてしまいそうですよ」
「……意味、ないわ……」
「……姫様?」
「……だって、誰のものでもないもの…………誰も見てはいないし」
女中さんは一旦梳くのを止めたけど。
すぐに笑って。
「ふふ、ちゃんと見てらっしゃいます。 長政様も見ておりますよ」
「長政さま……? 市のことなんか見てはいないわ……」
「お気づきになりません? 長政様はいつでも姫様の事気にしておりますのよ」
そんなことは、ない。
長政さまは。
そんなこと……しない。
「……長政さまは……?」
「今日は朝早くからお出掛けになっております」
安堵なのか。
落ち込みなのか。
市は息をついた。
「さ、姫様。 朝餉の準備ができております」
「……食べたくない」
「姫様……どこか具合でも悪うございますか? 顔色がよろしくありませんわ」
首を横に振る。
「寝床も使っていらっしゃらないようで……お風邪でも召されましたでしょうか……?」
首を、振る。
市は浅井の人間じゃ、ない。
契約上の人間。
だから市は布団に入る権利なんか。
「姫様……朝餉は今朝も、こちらに……?」
「………………」
「やはり毎朝広間の方で長政さまと……」
「…………部屋で食べても、いい……?」
「姫様……」
寝室は別だけど。
食事だけは今まで共にしてきた。
だけど。
今はそれすらも気が引けてしまっている。
女中さんが“かしこまりました”とひとつ頭を下げ、部屋を出て行くと。
市は立ち上がって。
縁側にしゃがんだ。
じっと。
傍らに植わる花を見つめる。
こんなにじっくりと花を見ることは、初めてだった。
真っ白な、百合の花。
全てがこちらを向いている。
本当に綺麗。
市はこの花を見つけた時から。
百合が好きになった。
見ていると。
癒されて。
市の真っ黒い心も洗ってくれそうで。
だけど。
真っ白すぎて。
眩しくて。
泣きそうになる。
市と相反していて。
市には似合わなすぎて。
ありがとう。
何も言わずに市の傍にいてくれて。
ごめんね。
市、あなたたちに何もできなくて。
あなたたちの傍にいるのが。
市じゃなかったら、よかったのにね。
そしたらもっと咲き甲斐もあったのだろうに。
これも。
きっと、不幸。
市は静かに。
障子を閉めた。
また足を抱え座り。
顔を伏せ。
二、三。
小さく咳を、した――。
今日は、暑い。
滅多にない、背に汗をかいてる。
今日は陽気がよかったせいかもしれない。
夏のような日差しだったもの。
それは夜になっても変わらない。
だからかな。
視界も考え事も。
何だかはっきり、しない。
天を仰ぎ、息をひとつ吐くと。
廊下から。
あ……誰か、来る……。
これは。
市は、目を伏せた。
……無理して、来なくてもいいのに。
こうして自室にいると。
廊下を歩くその足音で。
長政さまが分かるようになっていた。
嫁いだ最初の頃は。
もしかしたら。
喜んでいたと思う。
だけど。
今は。
市は長政さまに何かしてしまったのだろうか、と。
怯えるようになってしまっていた。
背を伸ばし。
長政さまを迎えれば。
襖を開けて市の傍に座り語る旦那さまに。
市は自然と距離を取るようになってしまった。
そんなこと、したくないのに。
長政さまに、もっと近づきたいのに。
「明朝、南の方へ下る」
「……え?」
市はその声に顔を上げ、目の前の長政さまを見た。
「聞いていたのか? 六角の残党が残っているとの情報があり、明日それを確認しに行くのだ。
戦にはならぬとは思うがな」
心臓がどくんとひとつ鳴る。
戦ではないかもしれない。
でも。
戦、かもしれない。
だとしたら。
駄目かもしれない、けど。
これで、最後――。
駄目だったら。
もう。
「あ……あの……」
声が震える。
「何だ?」
「あの…………市も、一緒に行ってもいい……?」
長政さまに何もできなかった市。
これが唯一できることかもしれないと思ったの。
織田の家にいても一通りの武術は心得て。
にいさまの命ではあったけど。
戦にも数回出たこともある。
戦場に出て。
長政さまの役に立ちたい。
たくさんの手柄を立てれば長政さまも喜んでくれるはず。
長政さまの剣となり。
盾となりたい。
でも、その言葉に。
「……お前も?」
長政さまの顔が一瞬で曇る。
「貴様はいい。 ここにいろ」
「で、でも……戦になったら」
「足手纏いになると言っているんだ! 女の貴様は大人しく城にいろ!!」
今までないほどの、怒鳴り声。
気づかなかった。
自分の肩が大きく揺れたこと。
長政さまは小さく舌打ちし、立ち上がって早急に市の部屋を出て行った。
震えが、止まらない。
――分かってたの。
怒られること。
それでも。
それでも、市は。
目を閉じた。
もうこれで。
はっきりした。
市にすることは。
できることは。
何もない。
諦められる。
長政さまは望んでなかった、市との婚姻。
じゃなきゃ……こんなに叱ったりしないもの。
愛してる人間に。
こんなに怒ったりしないもの。
市がきっと。
にいさまの妹だから。
闇の中の人間だから。
市のことが嫌いなんだろう。
“手段”――。
市は織田と浅井を結ぶ“手段”。
たったそれだけの繋がり。
望んでなかった。
仕方のなかった、婚姻。
それは。
市もそう。
望んでなんかなかった。
望んだって。
叶うものなんか何も、ない。
それなのに。
長政さまに喜んでもらいたい。
長政さまに嬉しく思ってほしい。
長政さまのお役に立ちたい。
長政さまのお傍に、いたい。
どうして、そんなふうに考えるのか。
ずっと考えてた。
何故。
何故、市は。
こんなにも長政さまのことを、って。
だって政略結婚なのに。
市は“手段”なのに、“人質”なのに。
織田に戻ればこんなこと考えなくてもいいのに。
にいさまの言いなりになるだけで、何もしなくてもいいのに。
なのに。
市は。
長政さまの。
あの瞳が忘れられないの。
初めて見た時の。
長政さまの、瞳。
いつまでも市の目の裏に焼きついているの。
……認めたくなかった。
だって認めたら。
長政さま。
不幸になってしまう。
でも長政さまのことばかり考える毎日。
にいさまや誰かの命令でしか動けなかった市が。
初めて自分で意思を持って行動する毎日。
前田様の言葉で、ちゃんとその気持ちに名前がつけられ。
ようやく答えが出せた。
市、気づいたの。
長政さまを、慕っていること。
辛い。
届かない。
報われない。
口には出せない想い。
長政さまの負担になるなら。
長政さまの迷惑になるなら。
長政さまが不幸になるなら。
絶対に言えない、想い。
長政さまだけは。
そんな思いをさせたくないの。
「ごめんなさい…………ごめんなさい……」
ごめんなさい。
ごめんなさい。
何もできなくて。
怒らせてばかりで。
好きになってしまって。
市のここにいる意味。
同盟の質。
居るだけでいい。
息をしていればいいだけの存在。
ただ、それだけ。
だから。
この想いを伝えることなく。
長政さまの“妻”を頑張る。
市……“偽りの妻”を頑張る。
意思も感情もなくすの。
織田には戻れないから。
同盟の破棄はできないから。
頑張る。
織田のために。
浅井のために。
長政さまに近づかないように。
長政さまに迷惑かけないように。
“人形”を頑張る――。
部屋の灯りを息を吹いて消す。
真っ暗になる部屋。
その代わり丸く大きく光り輝く月が市たちを照らした。
市と。
百合の花を。
月明りも百合も。
市には似合わない。
一番似合うのは。
この暗闇。
似合って、落ち着いて。
何も、誰も市を照らさなくていいの。
だから早く。
早く。
何でもいい。
誰でもいい。
その月明りを消して欲しい。
市は。
山の端から上り始めたそれを。
部屋が暗闇に覆われるまで。
市が落ち着きを取り戻すまで。
その場から動かず。
じっと、見つめていた。
城の屋根に消えるまで。
長政さまの部屋の灯りが消されるまで。
長政さまに“おやすみなさい”を言うまで――。
起きた時は相変わらず障子に凭れたまま。
寝苦しくて起きた。
相変わらず喉の痛みは治まらない。
治まるどころか。
昨日よりも増していた。
部屋を見回す。
寝起きだからだろうか。
ぎゅっと目を瞑り、頭を振り。
顔を叩く。
再度部屋を見渡すけど。
視界は靄がかかったよう。
吐き出す息も。
首や肩に当てた手の平に感じる肌も何だか熱い。
ふと。
耳をすませば遠くで何かが聞こえる。
ああ、南へ下る支度。
そろそろ出立の刻だと思っていると。
廊下から足音。
「市、起きているか」
誰とも間違うことのない、その声。
「はい……」
すっと襖が開き、鎧に身を包んだ長政さまが片腕に兜を抱え立っていた。
「昨日は…………」
「………………」
「……いや、何でもない。 今から行って来る」
「…………行ってらっしゃい……」
ちゃんと。
言えた。
旦那さまの出立だもの。
ちゃんと送らないと。
それでも、市の様子がおかしいと思ったのか。
「……お前、眠れたか?」
「はい……よく、眠れました……」
「顔が赤い……熱でもあるのではないか!?」
長政さまが市に駆け寄ろうとする。
でも、市は。
「熱はっ……ない、から……」
近づいた分。
長政さまから遠のく。
心配、させたくない。
怒られたくない。
暫しの間の沈黙。
そうか、と。
襖を閉めようとした時。
長政さまを呼び止めた。
長政さまのお役に立ちたい。
長政さまのお傍にいたい。
だけど。
役に立たない。
傍にいられない。
でも。
“手段”だから離れられない。
なら――。
「長政さま……市…………いいよ市、側室でも……」
長政さまの顔が見れない。
だけど。
「……何だと?」
その声色で。
長政さまの心情が読み取れる。
「市は……市はいつも長政さまを怒らせてばかりで、困らせてばかりで…………」
「………………」
「……でもこのままではもっと嫌われてしまうから…………だから」
長政さまは何も言わない。
膝の上で、震えて自分の着物を掴む自分のその手から視線が、動かない。
「政略結婚だから……市のことを好いてくれるなんて思ってない……だから、長政さま。
長政さまのお慕いしている人を正室に…………」
「私は側室を置こうと思った事は無い」
耳をつんざく様な大きな音を立て、襖が閉まった。
対の襖がその勢いで大きく動く。
長政さまは怒鳴らなかった。
だけど。
今までに聞いたことのないほど。
低くて怒気の篭った声。
長政さま……。
本気、だった。
本気で怒ってた。
長政さま。
市が正室なんて無理でしょう?
側室にも置いてもらえないのなら。
――捨てられる……。
市は布団に突っ伏して。
咳をした。
何度も何度も。
喉が裂かれるくらい。
何時からだったんだろう。
布団を濡らし始めたのは。
涙が溢れてきたのは。
それを流すのは。
駄目だって分かってるのに。
長政さまにまた怒られてしまうのに。
止まらなかった。
止めることができなかった。
「姫様、おはようございます。 お着替えを……姫様?」
女中さんが部屋の前で声をかけてくれた。
市が咳をしているのを聞いたのだろう。
「姫様!? 失礼します!」
襖を割って部屋へと入って来た。
「い、いかがなされました!? 姫様!!」
「………………ううん、何でも……ないの……」
「姫様……熱が……! た、只今手拭いを持って参ります!」
転びそうな勢いでその女中さんは駆けて行く。
いい人が多い。
織田にはいなかった。
みんな、市がにいさまの妹だって。
どこか敬遠されてた。
でも。
この近江。
にいさまの妹なのに。
分け隔てなく『姫様』って優しく接してくれて。
そしてみんな長政さまを慕う。
長政さまはとても愛されて育ったのがよく分かる。
……市と全然違う環境で。
城から見える、悠然と流れる川がある。
姉川、と。
女中さんに教えてもらったのはつい最近。
熱……?
そんなに高いつもりはないのだけれど。
でも今日は少し暑いし。
涼みに行こう。
縁側の草履を履き、百合の傍を通り。
庭から城を出る。
少し遠いけど。
あのくらいの距離なら。
行って帰っても。
長政さまが戻る刻までには戻れるはず。
ちゃんと冷まそう。
熱があるのなら。
また長政さまに怒られてしまう。
煩わせてしまう。
ちゃんと……しなくちゃ。
姉川――。
静かなせせらぎ。
きらきらと光る川面。
今日は特に陽射しが強い気がする。
すごく暑い。
どこか日陰を探そうと延々と姉川の川縁を歩く。
そして見つけた。
大きな。
大きな岩。
その岩の横は小さな河川敷があって。
市はそこで横になった。
ちょうど岩の陰で。
日光も遮られる。
長政さまもここへはよく来るのかしら……。
その場所からの空を眺める。
雲の流れが遅い。
城のみんな、心配してるかな。
黙って出てきちゃったから。
…………ううん。
“姫様”の心配なら大丈夫。
ちゃんと戻る。
だって行く場所ないもの。
“市”の戻る場所なんてどこにもないもの。
だから。
“姫様”の場所にはちゃんと、戻る。
長政さまが戻る前に帰るから。
それにしても、暑い。
意識が。
遠のきそう。
市は起き上がって川の底を覗く。
水の中に手を入れ、すくい、顔を洗った。
冷たくて、気持ちがいい。
あ。
魚がいる。
そう思って髪を耳にかけ、水面に顔を近づけると。
底が徐々に暗くなり。
その中心に何かが蠢いていた。
……何……?
目を凝らすけどよく見えない。
川底は深くないはずなのに。
市はそれをよく見ようと思って乗り出すと。
それは派手に音を立て、勢いよく水面から顔を出し。
市の左腕を掴んだ。
「…………!?」
凄い力で市を引っ張る。
何とか抗おうとすると。
またもうひとつ。
今度は市の右腕を掴み。
市を川の中へと引きずり込んだ。
もがいた。
何度も何度も息を吐き。
川の水を飲んだ。
意識も朦朧としてくる。
もう駄目だと目を瞑った。
ああ。
このまま。
市は死んでいくのかな……。
誰にも見つからず。
また。
長政さまに怒られるのかな……。
それでもいい。
罪だらけの市だもの。
いない方がいい。
誰も、市なんか必要としていないもの。
誰も。
悲しむことはない。
でも。
長政さま。
もう一度。
もう一度だけ。
逢いたかった。
声を聴きたかった。
それでも、何故か。
そんなに息苦しくはなく。
少し目を開けると。
黒い何かが。
市の身体を取り巻いていた。
くるくると旋回している。
これは……。
何……?
黒い…………。
黒い……“手”…………?
「双瞳の焔 第四章 -恋情-」 |
20080704 |