「今日はこの辺で終わらせないと……」
長政さまは今日もお出かけ。
城下だからきっとすぐに帰って来る。
市は静かに襖を開けて辺りを見回す。
誰もいないことに安堵して、廊下に出た。
安堵して歩き出して。
また、溜息。
部屋に戻り、縁側に雑巾を置き腰を下ろす。
長政さまの部屋のお掃除。
今日も何とか無事に終えた。
庭にはいろいろな樹や花が植えられている。
綺麗に彩られていて。
目を細めた時。
「姫様」
襖の向こうから声がする。
「前田の殿方がお見えになっております」
「前田……?」
女中さんに言われ、迎えに出ると。
客間に殿方。
「よっ、お市さん。 結婚おめでとさん!」
「前田様……」
確か。
前田の利家様の甥の。
慶次様、だったかしら。
「ごめんなさい……長政さまは今城下に…………そろそろ戻ると思うのだけれど……」
「ああ、いいんだよ。 俺はちょっと通りがかっただけさ。
それに祝いを届けたくてさぁ」
「お祝い……?」
「結婚のお祝いだよ。 これ、薩摩の焼酎。 島津のじいちゃんから貰ってきたのさ、これうまいぜー」
それを受け取りじっと見る。
結婚の、お祝い。
「……祝福、ってこと……?」
「そりゃそうだろう。 結婚ってさ、いいもんだろ?」
「………………」
……知らないわ、そんなこと……。
結婚がいいものかどうか。
市は祝福される立場にいるのかすら。
よく分からない。
前田様を客間の縁側へと通し。
そこにふたりで座ると。
女中さんがお茶を持ってきてくれる。
「悪いねぇ、茶まで出してもらってさ」
「ううん……前田様はどこへ行かれるの……?」
「いや、西国にいたんだけどちょっと家までね。 帰りたくはないんだけど利がたまには帰って来いって言ってさ」
「……ちゃんと心配してくれる家族がいるのね……」
「お市さんだってちゃんと心配してくれる人がいるだろ?」
市は。
考えた。
心配、してくれる人。
もう織田の人間じゃない。
浅井側の人間。
浅井……浅井には。
たくさん、いる。
だけどそれは“姫様”の心配であって。
“市”の心配じゃない。
「市には……いないわ」
「何言ってんのさ。 旦那さんがいるだろ?」
「長政さまは……市のことなんか心配しない」
「え?」
市は空を見る。
二羽の鳥が揃って。
近くの木へとまった。
「番いかしら……仲よさそう」
「あんた達だって仲良いだろ? こんな美人の嫁さん貰って、世の男はみんな羨ましがってるぜ」
「長政さまは……市の顔なんてよく知らないんじゃないかしら……」
女中さんにもらった茶に口をつける。
「長政さまは市を見ないもの……いつも忙しそうだし、城を空けることも多いし……」
「でも、お市さんに気持ちはあるだろ?」
気持ち。
市の、気持ち。
「市は……長政さまのこと……」
「…………」
「……何も望んでもないの……長政さまから何も欲しいなんて思ってない」
「……?」
「だって……市は“人質”だから…………人質に情なんか生まれるはずないもの……」
「お市さん…………」
「でも……長政さまには感謝してるの……こんな市を娶ってくれて……」
それは心の底から思ってること。
こんな形の結婚でも。
長政さまは市を拒まなかった。
一度も逢ったことのなかった市を。
どんな人間か知らなかった市を。
「ねぇ、前田様。 好きでもなかった女を娶る殿方の気持ちってどうなのかしら……」
前田様は。
黙って市を見てた。
「子を成すためだけの、道具……なのかしら……」
「ちょ……!」
「……市でなくても、よかったはずなのに……」
そう。
長政さまのお嫁さんは。
市でなくても。
「長政さまには……他に想ってる女の人がいるのだと思う……」
「え?」
「職務だと偽って城を出ることがあるから……きっと、市と反対の……何でもできる人……」
「それは……」
「市には何もない……長政さまにできること、何もない……何一つ。
だから、長政さま……市に苛ついてしまうんだわ……」
「………………」
「市たちは……利家様とまつ様とは違うもの……」
「俺……浅井さん、そんな事思ってないと思うぜ?」
番いの鳥から。
視線を前田様に向ける。
「浅井さんはさ、ちょっと不器用なんじゃねぇかな」
「……不器用?」
「俺は一度や二度しか会った事ないから、あんまり浅井さんの事は分からねぇけど……きっと照れてるだけだと思うけどね。
あのクソ真面目な性格じゃ好きな女だって他にいないと思うぜ?」
「……そんなことないわ。 市も……長政さまの顔…………よく、知らないもの」
だって見られないもの。
目を合わせたら。
鼓動は早くなる。
だけど。
今、その意味が分からない。
怒られてしまうためか。
それとも――。
「大丈夫だよ。 お市さんもそんな風に下向かないで、ちゃんと旦那さんの顔見てやりなよ」
「………………」
「お市さんと浅井さんは政略結婚だって聞いたけどさ、今からでも遅くはないさ。
恋していい女になりなよ」
瞬間。
市の中で何かが胸を打ち。
僅かに顔を上げた。
「………………?」
でもすぐに前田様の声で我に返る。
「そうだ! 俺さ、まつ姉ちゃんに土産があったんだけど、それお市さんにやるよ」
「お土産……? でもそれはまつ様への……」
「いいっていいって。 また今度買ってくるからいいんだよ」
そう言うと。
前田様は腰から一つの巾着を取り出し。
中から、紅と筆を取り出した。
「それつけてさ、浅井さんに見せてやりなよ」
「でも……」
「何なら今つけてみな? きっと可愛くなるぜー?」
少し赤みの混じる紅梅。
筆に少量の紅を取り。
近くの鏡の前で。
唇に乗せた。
「お! いいじゃん!! やっぱ元がいいから似合うんだよな!」
「……そうかしら……」
「あーあ、俺が浅井さんなら全国にお市さん連れて自慢して歩くのにさ。
先に俺がお市さんと知り合ってたのになー」
「ふふ……前田様って面白いこと言うのね……」
「久しいな、前田殿。 今日は何用で参られたのだ」
その声に振り向くと。
長政さまが客間へ顔を出していた。
「な、長政さま……」
「お、浅井さん。 いや、ちょっと顔見に来ただけさ。
そいじゃ俺はお暇しようかね。 じゃあね、お市さん」
前田様が客間から出るのを見送ると。
長政さまは市に背を向けたまま。
何も言わず。
長政の背を見ながら、その場に立ち尽くしていると。
長政さまが沈黙を破った。
「市……貴様は他の男といる時は楽しそうにしているのだな」
「…………長、政さま……?」
「何だ、それは」
「え…………」
振り返る長政さまの視線が市の唇に注がれているのに気づき。
「こ、これは……」
「貴様には、そんなものは似合わぬ」
「な……」
「……もし、私が嫌であればここを出て行っても構わん」
長政さまは。
そう言い放つと。
部屋から出て行った。
遠ざかる、足音。
長政さま。
視界が揺らぎ、ぼやける。
長政さま。
「…………がうの……ち、がうの……」
どうして。
どうしていつも。
市は長政さまを怒らせてしまうんだろう。
ご飯を作っても。
お裁縫をしても。
お化粧をしても。
そうしたくないのに。
長政さまに、笑って欲しいのに。
やっぱり。
市は、誰も幸せになんかできない。
不幸にするだけ。
長政さまも不幸にするなら。
市――。
部屋への廊下を歩く。
途中、女中さんが市の姿に驚いたのか。
声を掛けた。
「ひ、姫様! いかがなされました!?」
浅井の人はみんな優しい。
優しすぎて。
市はたまに困惑する。
「ごめんなさい…………ごめんなさい……」
「姫様……?」
「市がここに嫁いで来て……みんな、迷惑してる……」
「な、何をおっしゃるのですかっ!? 私共はそんな事……!」
「市……もう、部屋から出ない…………」
涙が止まらない。
胸が痛む。
「誰も部屋に来なくていい……みんな、みんな……長政さまも……」
市。
何かしたいのに。
何もできない。
「あっ! 姫様!!」
走って部屋に辿り着く。
襖を閉め。
その場に座り込み。
何度も。
何度も。
口元を拭った。
手の甲が真っ赤に染まる。
皸も。
気にならない、ほど。
長政さまのために何かしたいのに。
何でこんなに何もできないんだろう。
得意なものもない。
人に胸を張って自慢できるものもない。
こんな人間になるんだったら。
織田の家になんか生まれなければよかった。
長政さまと出逢わなければ、よかった。
「……姫様?」
襖の向こうから呼ばれる。
市は。
返事ができなかった。
「姫様、失礼します」
女中さんが入ってきて。
市の背を擦って、宥めてくれた。
「長政様の事……でございますよね?」
市は。
首を振る。
「姫様、本当に申し訳ございません……長政様は本当はもっと優しい方なのです」
みんなにはそうかもしれない。
だけど違うの。
長政さまは市のことが。
「長政様がお怒りなのは、姫様が他の殿方と楽しそうに話をしているのを見て、嫉妬されてるだけなのです」
女中さんは市の顔を上げ。
手拭いで涙と口元と、手の甲を綺麗に拭ってくれた。
「今までにそんな長政様を見た事はなかったのですが……姫様に関してはそうではないようですね」
「違うわ……長政さまは市のこと、嫌いなの……」
「違わないです。 さ、これをどうぞ」
差し出されたのは。
紙袋。
「…………?」
「塗り薬でございます」
「え……」
「手の荒れにかなり効くと思いますよ?」
女中さんが立ち上がるのを。
市は制した。
「何で……」
「姫様が頑張っておられるのは城の誰もが知っておりますよ? それにそれは越中の薬だそうで。
この間薬売りが城に来まして」
「あ、あの……っ」
「はい、何でしょう」
「あ……あの……長政さまには……言わないで……」
にっこり笑うと女中さんはその場から去り。
じっと袋を見て。
中の薬を出すと。
ゆっくり、手の甲に塗り込んだ。
よかった。
長政さまにはまだ気づかれていないみたい。
これ以上。
怒鳴って欲しくない。
市のせいで、周りのみんなにも迷惑になる。
障子の向こうの庭にはいろいろな樹や花が植えられている。
手に塗り終えた薬を袋に入れながら、再び見るその光景。
やっぱり綺麗に彩られていて。
でも。
何か、違和感。
何か違う気がする。
一角が、白い。
そこだけ世界が違うような。
一輪の花を見つけた。
我が一番だと言わんばかりに咲き乱れる花の中。
純白の、百合の花。
たった、一輪だけ。
……さっきまであったかしら……?
気がつかなかった。
綺麗に手入れされてる庭の一角。
市の部屋の本当に前。
市は裸足のまま、庭に下りその前に座る。
「……お前は綺麗だね…………市と正反対……」
その花に。
市はひとつ涙を流した。
綺麗すぎて。
眩しくて。
ひとつだけだった涙が。
後を追うように。
次々と零れ落ちていく。
泣くと怒られる。
だから市。
一生懸命拭ったり。
流れないように。
上を向いたりしたの。
だけど。
止まらない。
涙を流しながら。
市は。
ずっと。
ずっと前田様の言葉を頭の中で巡らせていた。
『結婚のお祝いだよ』
祝われる結婚じゃない。
『結婚って、いいもんだろ』
愛し合って結ばれた仲じゃない。
『恋していい女になりなよ』――。
儚い人の一生の中。
儚いその感情。
何もない誰もいない市に最も縁遠い感情。
誰にも与えず、誰からも与えられなかった感情。
なのに。
ぎゅっと目を瞑り。
ぎゅっと唇を噛み締め。
ぎゅっと胸元を握り締め。
声を殺して。
漏れた嗚咽が。
いつまでも庭に小さく、響いていた――。
「双瞳の焔 第三章 -紅涙-」 |
20080618 |