今まで誰かに嫁いだことはない。
だから市にとって、長政さまが初めての旦那さま。
きっと。
最初で最後の、旦那さま。
長政さまと離縁したら。
たぶん、もう誰かに嫁ぐことはない。
だって。
今まで市は。
自分の意思を持つことはなかったから。
誰かを好きになったことがなかったの。
誰かのために生きようって思ったことがなかったの。
そんな人がいたって。
報われるとか結ばれるとか。
市の思うようにはいかないもの。
だから。
誰かのために何かできることはないか、なんて。
考えたことなかった。
誰かのために何かしてあげたい、って。
考えたこと、なかった。
長政さま。
市の、旦那さまは。
この数日で、とても曲がったことが嫌いな人だって知った。
真面目で。
眉間に軽く皺を寄せて。
そして。
笑顔を見たことがなくて。
笑い声を聞いたことがなくて。
自分にも他人にも厳しい人なんだって、知った。
だけど。
それしか知らない。
だから、市。
長政さまに喜んでもらいたくて。
長政さまに嬉しく思ってもらいたくて。
長政さまのこと、それ以外まだ何にも知らないから。
でも。
「ひ、姫様! そんな事は私達がしますから!」
「でも……たまには…………」
暫く城を空けていた長政さまが今日朝倉様の屋敷から戻って来るというから。
市にも何かできないかと考えて、夕餉の支度をしようと城のみんなの反対を押し切って作ろうとした。
市は料理なんて、出来ない。
織田でも女中さんが何人もいてその人達が朝餉も夕餉も作ってくれてた。
だから作り方だけでも教えてくれたら。
少しはできるかもしれないと。
「煮物を作るくらいなら……」
「姫様、そこに触れたら鍋が熱うございます!」
「お味噌汁……」
「芋にはまだ砂が……手が汚れてしまいます!」
「……お……お刺身……」
「ああ、包丁などお持ちにならないで下さいまし!!」
「一体何の騒ぎだ」
その場がぴた、と止まる。
低く響く声。
顔を上げると長政さまが調理場に顔を出していた。
市だけを見据えて。
「置け」
「え……?」
「それを置いて、こっちへ来い!」
吃驚して、包丁を置き。
その場から身動きできずにいた。
「来いと言ってるんだ!」
慌てて長政さまの傍に行くと。
着物ごと二の腕を掴まれ。
強引に調理場を後にする。
着物で足が縺れそうになるほど。
「市……貴様、一体どういうつもりだ」
「あ、あの……市……長政さまが今日戻ると聞いたから……何かできないかと思って夕餉の支度を……」
直後。
城中に響くほどの大きな声で。
市を怒鳴った。
「そんな事は貴様がしなくても良い!」
「ご、ごめんなさい……」
「それと、この間私の寝着を繕ったのはお前か?」
袖の所が解れていた長政さまの寝着。
それも城の人達が反対したけど。
何とか説得して繕わせてもらった。
縫い目が酷くて……お世辞にも見栄えのいいとは言えない仕上がりになったけど……。
「他にする人間はいるんだ! 余計な事はするな!!」
「…………ごめんなさい……」
織田にいた時。
家臣の人達が言ってた。
加賀の前田様の話。
まつ様が利家様の面倒を全て見てると。
食事も裁縫も。
何もかも。
そして。
すごく仲睦まじいと。
だから市にもできるかと思ってのことだった。
少しは長政さまが喜んでくれると思ってた。
だけど。
じわりと。
市の目に涙が溜まる。
思わず、鼻をすすれば。
「……泣くな!!」
慌てて目を擦り。
もうひとつ。
謝った。
長政さまは大きな足音を立て、その場を去り。
市だけが残される。
「姫様。 あまり気になさらないで下さいませ。 長政さまは本当は喜んでくれております故」
女中さんが市に声を掛けてくれる。
喜んでる……?
あんな長政さま。
そんな訳、ない。
「食事の支度も私達にお任せ下さい。 姫様は何もせずにいてくれたら良いのです」
にっこり微笑んで女中さんは炊事に戻る。
何もしないで?
じゃあ。
市の。
ここにいる意味は、何?
何をしても。
長政さまに怒られてしまう。
謝ったけれど。
きっと……許してくれてない。
「姫様、今の時期水仙が綺麗に花を咲かせておいでですよ。
共に愛でに行きましょう」
市の襷掛けを解き、腰に巻いた打掛を肩にかけてくれた別の女中さんが誘ってくれる。
慰めてくれている。
浅井に嫁いで半月弱。
浅井の人達はみんないい人ばかりで。
いつも市のことを姫様姫様と慕ってくれていた。
嫁いでから一番最初、何で怒られたか。
覚えてない。
怒られる数が多すぎて。
覚えて、ない。
空回りの毎日。
今日も。
また、怒られた。
昨日も。
明日も、多分。
長政さまは自分にも他人にも厳しい人。
特に。
市には。
これ以上ないくらい。
厳しい。
誰かのために何かできることはないかとか、誰かのために何かしてあげたいとか。
考えたことなかった市は。
ない頭を絞って絞って考えたの。
何かできないかなって。
そうしたら、喜んでくれるかなって。
そうしたら、嬉しく思ってくれるかなって。
そうしたら。
こんな形の婚姻でも。
少しは夫婦らしくなるかなって……。
そう、思ってたの――。
市には日課がふたつ、ある。
静かに。
長政さまの部屋へと向かう。
今、長政さまは城下へ。
市は長政さまの部屋の襖に手をかけ、音を立てずに開ける。
長政さまの匂いがする。
机の上には書類や帳面が散らかっていて。
出かける寸前までそれらに目を通してたことがわかる。
市は腕を捲くり、それを片付け。
持っていた雑巾で机の上を拭く。
柱や壁も。
手の届く範囲だけでも。
綺麗にしておきたくて。
市のひとつめの、日課。
これくらいしか。
市にできること、ない。
他に思いつかない。
……長政さまのいない間だったら。
誰が掃除したかなんて。
分からないはずだから。
ふと。
目に留まる。
衣桁に掛けられた長政さまの寝着。
市はそれに近づいて。
袖を見る。
そして。
落胆した。
ちゃんと袖の部分は綺麗に繕ってあって。
誰かが繕い直した事が分かったから――。
そう、よね。
あんな酷い縫い目じゃ。
誰も着たくない。
市は何もできない。
何もしてやれない。
どうしたら。
長政さまを――。
途端。
廊下の向こうから声がした。
市は慌てて隣の部屋に身を隠し、襖を閉める。
間一髪、長政さまの部屋に入ってきた人に気づかれず。
ほっとしていると。
襖の向こうの声の主は当の本人と家臣の人。
「長政様。 もうじき夕餉でございます」
「市はどうした?」
「今はお部屋にいらっしゃるかと」
「そうか。 市に伝えておけ、何もするなと。 全く気が気ではない」
「かしこまりました」
市は。
俯いた。
「明日から三日ほど暇を貰う」
長政さま……。
またお出かけなんだ……。
「私用でお泊りですか? 珍しいですね。 姫様はお連れですか?」
「……市は連れて行かぬ。 あれには内密にしておけ」
長政さまの私用。
お泊り。
市には、内緒。
逢瀬。
かもしれない。
長政さまは気が短いけれど。
見目形が良いと聞く。
城の女中さんたちが言っていた。
市のことが、羨ましいと。
じっくりと長政さまの顔を見たことがない。
長政さまと目を合わせることなんてほとんどない。
だから、市はそんなこと知らないの。
市は。
こうして。
自分の足元しか、見ない。
気づいたの。
市が下を向くのは。
怖いから。
長政さまに叱られるのが怖いんじゃない。
長政さまの。
気持ちが。
――怖い。
夫婦、じゃない。
やっぱり市は人質であって。
長政さまのお嫁さんじゃないから。
冷たい雑巾をぎゅっと握りながら。
静かにその部屋を出た。
市の部屋への廊下が長い。
よかった。
長政さまに気づかれなかった。
見つかったら、また怒られちゃうもの。
痛いと思って。
自分の手を見る。
最近晴れてはいるけど、まだ少し寒くて冷たい水に触れるから。
手の甲が荒れていた。
小さな皸を片方の指で擦る。
織田にいた時には絶対なかった、手荒れ。
「市……何してるんだろう…………」
涙が込み上げ。
何度も何度も甲を擦る。
治る筈もないのに。
「ちょっとだけ…………い、たいよ……」
痛いのは。
手の甲じゃなく。
もっと。
もっと深い所――。
近江はよく晴れる。
今晩も月が綺麗。
部屋の灯を消し。
その月を見ていると。
城の一角の灯も消されたのが見えた。
あそこは今長政さまがいる所。
軍議が終わったんだろう。
もう夜が更けてだいぶ経つのに。
今日も長政さまが床につくのは遅いのだろう。
ここ何日も多忙のよう。
疲れてるのだろう。
長政さまの顔色も悪いみたい。
やはり一国の城主ともなれば。
余儀なくされる部分も多いのかもしれない。
長政さま。
今日は、お疲れ様。
無理、しないでね。
市はこうして。
見守るだけしかできないけど。
何の役にも立たないけど。
お祈りしてる。
市はここ数日夕餉も湯浴みも終えれば、自室の窓に凭れかかり。
広間の部屋の灯りが消えるのを確認して。
長政さまが床に入るだろう刻に。
“おやすみなさい”を呟いて。
市もそのまま眠りについていた。
布団に入らず。
障子に、凭れかかったまま――。
それが。
もうひとつの市の日課だった。
「双瞳の焔 第二章 -日課-」 |
20080529 |