市には。
何もない。
希望も将来も。
持ちたい夢もない。
眩しい光もない。
激しい感情もなかった。
市には。
誰もいない。
見世物の様に市を遠巻きに見る人はいた。
でも真っ直ぐに市を見てくれる人はいなかった。
その裏で何を考えてるか分からない様な作り笑いをする人はいた。
でも優しく接してくれる人はいなかった。
にいさまに諂う様に。
反吐が出る様な社交辞令を口にする人はいた。
でも心の底から、偽りない本当の事を話してくれる人はいなかった。
みんなが市を褒め称える。
美しいって。
市の何が?
容姿?
こんな、入れ物。
どうせいつかなくなってしまうのに。
一時の美しさなど、いらない。
誰のものでも、ないもの。
だから。
織田が嫌いだった。
でも。
織田が好きだった。
だって。
織田にいれば。
誰も市に目をかけなかったもの。
誰も気にかけなかったから。
放っておいてくれたから。
何も知らなくてもよかったの。
外の世界なんて興味もなかった。
戦も何もかも。
そんなものにも。
ふふ、天下なんて。
誰もがいつかは死んでしまうのにね。
にいさまの妹だから。
誰もが市を“にいさまの妹”という目でしか見ない。
それで、いいの。
市はにいさまの人形。
感情なんて持ち合わせてないの。
市に関わると不幸になる。
それで。
構わないの――。
宵闇に包まれる城。
ひとつの部屋をひとつの灯だけがゆらゆらと辺りを照らす。
ぼんやりと浮かび上がる真新しい褥の上。
二つの影。
真っ黒な双瞳が。
市を見つめてる――。
今日から。
新しい生活。
新しい人々。
新しい、環境。
市の輿入れの日。
婚儀を終えて。
夜も更け。
辺りが静かになり。
「市」
市の隣には今日から市の旦那さまになった人。
長政さまが市の名を呼ぶ。
市の肩が大きく揺れたのが、分かった。
長政さまの手が市の髪に伸び。
毛先が長政さまの指に絡む。
市はどうしても。
身体の震えが止まらず――。
「……不安か?」
市は。
先刻から長政さまの顔が見れないでいる。
顔を上げられずに、いる。
長政さまの問いにも。
答えられずにいた。
すぐ傍にいる長政さま。
息遣いも聞こえてきそうなほど。
長政さまの指が。
市の顎に触れ。
自分の方に向けた。
長政さまの真っ黒い、瞳。
吸い込まれそうなそれに。
市は目を伏せるしか、できなかった。
どのくらいの時間が経ったのかも分からない。
長政さまは。
顎を掴んでた指を離し。
市の傍から退いた。
「長……」
「……すまん。 世間体を気にして急いていたようだ」
「……長政さ、ま……?」
長政さまは立ち上がり。
襖を開けた。
「尾張から近江……遠い所よく参ったな。 ご苦労だった……疲れたであろう。
もう休め」
市に背を向けたまま、用意されていたかのような言葉。
「な、長政さま……待っ……」
止める市の言葉も聞かず。
長政さまは。
そのまま部屋を後にした。
……違うわ。
違うの。
分かってる。
市たちは、政略結婚。
浅井と織田の結ばれた同盟のための、結婚。
市は。
人質。
気持ちは……通じ合えないかもしれないけど。
それでも。
浅井の存続のため。
為さなければならないことも……ある。
不安じゃないと言ったら嘘になる。
だけどそれ以上に。
不安なのは。
怖いのは。
それじゃない。
怖いのは――。
市は、灯を消し布団の上から退き。
障子に凭れた。
…………やっぱり。
市は。
みんなを不幸にするわ。
今だって、長政さまを悲しませた。
呆れさせた。
もう長政さまはここには、来ない。
――うん。
それで、いい。
二度と。
長政さまを悲しませることはないもの。
呆れさせることもないもの。
市に触れること。
二度と、ないもの。
今夜は満月かしら……。
障子から明かりが漏れてる。
市に宛がわれたこの部屋の隅々まで鮮明に浮き上がらせてる。
近江の月も綺麗なんだろう。
きっと綺麗だって。
思ってた。
尾張と違う、月。
でも。
きっと変わらない。
「ふふ……織田の生活と、同じね……きっと……」
市には何もない。
誰もいない。
市は目を閉じた。
何故、なのかしら。
市は“手段”なのに。
“人質”なのに。
“浅井長政の妻”を演じなければならなかったのに。
部屋から出て行くあの人の背を見て。
何の意味を持つんだろう。
心が痛くて。
張り裂けそうで。
溢れそうになる、この涙は――。
「双瞳の焔 第一章 -不変-」 |
20080519 |