数日後。
モデル業を再開した珪くん。
また珪くんに誘われて撮影現場に来たわたし。
本当は気が進まなかったんだけど。
『もう大丈夫だから』
なんて珪くんの笑顔と優しい言葉でまたここに来てしまった。
今日は、マネージャーさんお休みなのかな……。
ビクビクしながら。
きょろきょろしてマネージャーさんを探した。
スーツを着てネクタイもして写真を撮られる珪くん。
窓に凭れる。
今日は、ひとりだった。
パイプ椅子に座ってそれを見るわたしの隣に見慣れない女の人が立つ。
「今日も珪は調子がいいわね」
「え……?」
「いい顔してる。 夏野ちゃんの彼氏は最高だね」
女の人、いないのに?
そういう時じゃないの?
珪くんの調子のいい時って。
「あれ? 夏野ちゃん知らない? 珪はあなたがいるとすごい調子がいいのよ。
そういうところはわかりやすいのよね、あの子は」
そう言われてみると。
前にも同じこと、言われた気がする。
女の人は続けた。
「そう、イタリアの時なんか最悪だったわね、最初。
撮影にならなかったんだから。 でもその次の日くらいから順調に撮影がうまく行きだして……夏野ちゃんに励まされたのかなって思ったんだ」
わたしは。
この前の珪くんの言葉を思い出す。
早く仕事終わらせて。
わたしのこと、はっきりさせたくて。
仕事に影響させちゃった……。
本当に、ごめんね珪くん。
少し……胸が痛かった。
「けどその後が散々よね。 この一ヶ月くらい撮影なんて全然ダメ。
一日も休みナシだったのよ、撮影が撮っても撮ってもダメだったのもあるけど。 珪が毎日でもバイト入れてくれって。 でもやっぱり最悪で彼に近寄れなかったわね……二日酔いで来るし、怖い顔して何本も煙草吸って」
「……珪くんが……二日酔い? 煙草?」
信じられなかった。
どっちも全然想像が出来なかった。
「よっぽどイライラしてたのね。 誰も近づけなかったわ」
わたしはただただ驚いて。
女の人の言葉を聞いていた。
「でもね、この間珪が雨の中ものすごい剣幕でスタジオに入ってきてね、あなたと別れるならモデル辞めるって言い出したのよ」
「え? 雨の日って……」
「それで……その……夏野ちゃんにちょっとひどいこと言っちゃったマネージャーがクビになっちゃって……まぁ、今私が珪のマネージャーしてるんだけど、珪の申し出があってね、あなたにひどいことを言わないことと、もう女の人とは仕事しないっていうのが条件でもう一度珪にモデルしてもらうことになったの。
もしそれが出来ないならモデル辞めるって言い出してみんな困ってね、結局もう女性のモデルとは仕事しないの。 仕事減るかと思ったんだけど、これだけいい表情してくれるとさむしろ逆に仕事増えてるのよね。
大丈夫、みんなあなたのこと大好きだから。 あ、ちなみに私旦那持ち。 あのカメラマンがそう。 だから安心してね」
全然知らなかった。
珪くんがそんなこと……。
マネージャーさんも辞めちゃったんだ……。
何か、悪いことさせちゃたかな……。
そういえば、大学でもあの娘たちの呼び出しがない。
それも。
もしかしたら、わたしの知らないところで。
珪くんが……?
「はい、休憩―!」
撮影の合間。
珪くんがわたしの近くまで来てくれる。
問いただしてみれば彼は一言。
「……知らなくていい、そんなの」
少し照れたのか。
珪くんはそっぽを向いた。
「ねぇ珪くん……わたし大丈夫だよ? 珪くんがほかのモデルさんと一緒ならもっと違うお仕事も……」
「いいんだよ、俺がそう決めたんだ」
「でもわたしのせいで……う」
珪くんはわたしの鼻をつまむ。
「おまえは関係ない。 いろいろ言うな、俺はこれでいいんだ。
本当に女とは誰とも仕事したくない……わかったか」
こういう時の珪くんは頑固。
渋々頷いた。
珪くんは笑ってつまむのをやめた。
「そうだ。 ね、お酒飲んでたの?」
「なんだ……そんなことも聞いたのか……」
「飲めるの?」
「まぁ、飲める……でも親父さんには黙ってろよ。
言ったら多分一緒に飲もうって言うから……一応、俺まだ未成年だし」
「煙草は?」
「…………それも少し、な」
「わたし、見たことないよ?」
「……見せない」
「何で?」
「おまえがいるから」
「……? わたしが煙草の匂い嫌いだから?」
「それもあるけど…………ちょっと、違う……わからなくていい」
にっこり笑って珪くんはわたしの頭をポンポン叩く。
からかわれたようで。
わたしは口を尖らせる。
「う〜、何〜?」
「おまえが、ずっと俺の傍にいるなら……精神安定剤なんていらないだろ?」
「?」
「さぁ、もう少し撮るよー珪くん!」
撮影が再び始まる。
今度の珪くんはスーツのジャケットを脱いでベストの姿。
ネクタイも緩めて、ベッドの上に座る。
珪くんはわたしをじっと見てる。
照れたわたしははにかんで。
みんなにわからないくらいに、小さく手を振った。
そしたら珪くんの歯を見せての満面の笑顔。
それはもうわたしの心なんていとも簡単にときめかせる笑顔。
「こら、葉月! 彼女がいる時だけそんな顔するな!!
普段もしろよ!! 毎回彼女連れてくるぞ!!」
スタジオが笑いの渦に包まれる。
わたしはそんな反応するとは思わず。
恥ずかしくなって俯いた。
お酒も。
気を紛らわすためだけにに吸っていた煙草も。
どうしようもない気持ちを抑えるためだけに吸っていた。
今自分はイライラしてるからと理由をつけて吸っていた。
でも決して美味くはなかった、ということ。
それはわたしが。
一生知ることのないことだった。
仕事が終わって。
横断歩道で信号待ちしてた時、周りの人が珪くんに気づく。
珪くんと手を繋いでいたわたしは慌てて振り解こうとし。
でもそれは許されなかった。
「けっ、珪くん! 手、手!」
「構わない」
彼にぴしゃりと言われて。
わたしは黙ってしまった。
「俺、忘れてたんだけど……周りに迷惑かけるならあんまり関わらない方がいいと思ってた」
「え……」
「けどもうおまえには気を遣わない。 少しだけ迷惑かけるけど、いいか?」
わたしはその言葉に。
「じゃあ、交換条件」
「え?」
「今から行くショッピングモールで帽子と眼鏡を買うこと!」
「……?」
珪くんが怪訝そうにわたしを見る。
「珪くんはどうしても目立っちゃうから変装してほしいな」
「変装か……あまりしたことない」
「高校の時とは違うんだから、ね? そしたら、どんどん迷惑かけちゃっていいから」
一瞬驚いたような珪くんだけど。
すぐに笑顔になった。
「わかった。 変装する」
この人がわたしの彼氏なんだって。
わたしは。
少し自信を持とうと。
思った。
暫くの沈黙の後。
珪くんが口を開いた。
「おまえに……言わなかったよな」
「?」
「俺、付き合ってから一ヶ月……おまえと離れること、本当に辛かったんだ……ほら、毎日電話はしてたけど……やっぱりおまえに会えなくて」
一旦、切る。
「おまえの声、俺すごく安心して……でも声を聞くと会いたくなって、会ったら今度は、ってどんどん欲が出てきたんだ。
電話の声じゃなく生の声聞きたくて、写真じゃなくおまえ自身に逢いたくて……おまえが欲しくなって…………でもおまえに逢ったら仕事も手につかなそうで、逢えなくて……」
「珪くん……」
「……バイト辞めれば話は済むんだけど……でも早く金貯めたかったんだ」
「……なんで?」
「…………………………から」
「え?」
「……だから」
「…………?」
「早く……ドイツへ連れていきたかったんだ」
「え……?」
珪くんはとても真面目な顔で。
わたしに、そう言う。
「言ったよな? ドイツへ連れてって両親に会わせて……了承を得たくて…………」
「了承……?」
「……おまえとずっと一緒にいられるように」
それって――。
顔が熱くなった気がした。
「珪くん…………じゃ、もっと素敵な女の子になるから、飽きないでいてね」
「……バカ……おまえはそのままでいいんだ………………俺がおまえに合うような男にならなきゃいけないんだ」
わたしはわからなかった。
珪くんを見る。
「そのままでも十分カッコいいのに……」
「そういうことじゃない……おまえが他の男に取られたら、俺……どうなるかわからないから…………捨てられないように」
「珪くん、バカだなぁ……わたし、捨てないよ? 誰にも取られないよ?」
「……おまえのこと、狙ってる男は高校の時からいたんだぞ。 今でも…………気付かなかったのか?」
「うそぉ……」
「かなり鈍い…………」
珪くんから。
一緒に街中にいたって、他の男の視線は必ずわたしに向くと。
今も例外じゃないと。
教えてもらった。
だって。
自覚、全然ない。
本気でわからなかったわたしに。
珪くんはなぜか。
「おまえも……変装グッズ着用だな」と。
深々と溜息をつかれた。
「珪くん、バス停まってる。 もうちょっと待っててくれるかな?
信号長いー」
交差点の先に見える駅のターミナル。
ショッピングモール行きのバスが停まってる。
大きな交差点の信号待ち。
ようやく相手の歩行者信号が点滅する。
「あ」
「あ?」
「俺、もうひとつ言うの忘れてた……」
「……?」
「免許取った、俺」
「免許?」
「車」
「うっそぉ!? 全然知らなかったよ! いつ!?」
「この間」
「えぇ〜いいなぁ……わたしも免許取ろうかなぁ……」
「ダメ」
わたしはその即答に。
頬を膨らまし尋ねる。
「おまえ……トロいから」
「珪くん!!」
彼の背中を叩く。
肩で揺すって笑う珪くん。
すんごく不愉快。
「……おまえの足は俺がなってやる。 だから今度一緒に車見に行こう」
「……うん!!」
歩行者信号は青になり。
歩き出すと珪くんは。
強くわたしの手を握り返した。
「長かったな……赤。 バス、多分間に合う」
「うん、よかった」
「車の運転も……青が続くと気持ちがいいんだ」
「そっか。 そうだよね、ずっと走っていられるもんね」
「……俺たちも、そうでありたいと思う」
珪くんはいつもの優しい微笑をくれる。
わたしは彼の腕に凭れかかった。
そうだね。
でもね、珪くん。
今回わたしも珪くんも乗り越えた。
だから。
この先また“危険信号”が点っても。
わたし、その試練乗り越える。
切り抜ける。
そして。
ちゃんと珪くんの元に戻る。
ちゃんと珪くんの傍にいる。
その後、ちょっぴりふっくらしたわたしと。
部屋のゴミ箱に吸いきっていない煙草の箱を捨てた彼が。
将来を誓い合うまであと3年――。
「signal ―epilogue この先も」 |
20170301 |