恋なんてするもんじゃない。
きみが笑えば。
きみが泣けば。
きみがいれば。
きみがいなければ。
いつもの俺が俺でなくなる。
こんなに苦しい、辛い思いをするのなら。
俺は局長になんかならなければよかったんだ。
きみが新選組に入らなければよかったんだ。
きみと。
出逢わなければ、よかったんだ。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
もう夕刻も過ぎ、漆黒の闇が町を覆う頃。
上を見上げれば。
雪は勢いなくはらはらと舞う。
もう春なのに。
今晩は、だいぶ冷えるか。
寒くないか?
疲れてないか?
怖い思いをしてないか?
心細く、ないか?
俺の心中はそんな事ばかりだった。
総司の療養してるこの屋敷。
屯所から何百里もあるわけではないのに。
俺が先に着いた。
彼女が着いた気配はない。
きっと、迷ってるんだろう。
捜しに行きたかった。
早く逢いたかった。
でもすれ違う事を考えれば。
俺はここを動けなかった。
鈴花。
鈴花。
俺は屋敷の入り口の階段で腰をかけて、組んだ手の上に額を乗せ俯いていた。
竹林に囲まれてるこの屋敷。
辺りはすっかり夜に包まれていた。
空耳だろうか。
右方向から小さな雪の混じった土を踏む音が聞こえる。
俺は咄嗟に顔を上げて、目を凝らした。
闇に白く小さくぼんやりと浮かび上がる。
踏む音は、聞こえない。
俺は立ち上がり。
その方向へと歩み出す。
気のせいか。
ほんの少し、強張るように後ずさる影。
俺は歩みの速度を速めた。
いや、走っていたんだろう。
徐々にその姿が明確になる。
それに俺は走るのを止め、安堵した。
大きな荷物を抱え。
クセのある髪。
信じられないような瞳をして、俺を見ている。
「どうして……」
消え入りそうな声。
悲しそうに。
「……ようやく…………逢えた……」
「どうしてここにいるんですか……? 私……もう……」
「……鈴花」
「……近藤さん、こんな所にいる場合じゃないでしょう?
早く、帰って下さい」
「………………帰らないよ」
「雪が……近藤さん、いつから……」
俺の髪や肩に乗ってる雪を見たのか。
「今だよ」
「私……もう戻らないと心に誓ったんです……なのに、なんで……」
「きみを、連れ帰るために来た」
「……連れ帰る?」
鈴花は首を振る。
「帰ろう」
「…………嫌です」
「命令だ」
「嫌です……許されないなら…………除隊でも切腹でもします」
俺は鈴花の手を引いて。
強引にその場を後にしようとした。
でも彼女は。
その場に留まろうとする。
「嫌……っ! 近藤さ……っ」
「帰る。 俺は許さない。 きみが勝手に屯所から出てくのは」
「だって……だって……! 辛い……っ、近藤さんの傍にいるのは……」
歩みを止め、鈴花の手を離す。
静かに振り返る。
鈴花は……俺の目を見なかった。
「鈴花……」
「…………その名を、呼ばないで下さい」
「………………」
「…………痛いんです」
「……花……」
「近藤さんの傍にいると…………胸が、痛いです……悲しいし、苦しいです」
「………………」
「嫌です。 もう貴方の傍にいられないんです。 沖田さんの傍にいてやりたいんです………………私には、無理だったんです…………」
続く沈黙。
「……鈴花……」
「いつか……」
「………………?」
「いつか、こんな日が来ると思っていました」
目を閉じてゆっくりと話し出す。
「近藤さんはとても風のような人で……奥様以外は近藤さんを捕まえることなんか出来なくて…………それは私も例外じゃないんです。
近藤さんを、留めることなんで出来ないんです」
「………………」
「どう見ても私たちは吊りあいなんて取れてないし、近藤さんには奥様がいて……一緒にいることなんか許されないんです。
だからいい機会だなって思ったんです」
「鈴花…………」
「だから、これが普通なんですよ」
「………………」
目を開ける。
目いっぱいの声を上げて。
「近藤さんと深雪さんの子供じゃきっと可愛いですよね?
男の子かな? 女の子かな? 楽しみですね、近藤さん」
「…………え……」
「私も負けませんよ? いい人見つけて、近藤さんのお子さんたちに負けないくらい可愛い子を沢山産みますよ」
「…………す…………ずか……」
「剣術を教えて、近藤さんのように強くしてあげるのが夢なんです。
だから…………だから、ごめんなさい」
「………………?」
三度目。
それは力なく。
手をかざせば。
今にも。
儚げに散ってしまいそうな花のように。
俺の、一番見たくない鈴花の笑顔。
「近藤さんの気持ち知らないで私、近藤さんの事……」
「………………」
「迷惑、かけてごめんなさい…………本当に、本当に本当にごめんなさい」
「……俺の、気持ち……?」
「………………」
「………………」
「もうなかった事にしてますから安心して下さい。
迷惑、かける事ももうないですから」
それは本当に。
無意識の事で。
俺は両手で彼女の両頬を包み。
自分に向けた。
違うんだ。
「は……離して……」
「俺の気持ちって何?」
「………………近藤さんは……」
「………………」
「……私には、本気じゃなかった事……」
鈴花がそう思ってた事にひどく驚愕と落胆したが。
力強く否定した。
「遊びなんかじゃない」
「もう、いいんです……っ、離して……離して…………!」
「鈴花……聴いて。 俺の目を見てくれ」
「………………嫌……」
「鈴花…………俺……俺はずっと、ずっと……女と遊んでた」
「……そんな事聴きたくない。 私にはもう……関係のない事……」
目を逸らす彼女の頬に触れている両手に力を入れて。
無理矢理鈴花を自分に向けさせた。
『私も負けない』
『いい人見つけて可愛い子を沢山産む』
聴きたくなかった。
言わせたくなかった。
俺は奥歯をぎりっと鳴らした。
ずっと慣れてたはずなのに。
もう、そう呼ばれることなんてないと思ってた。
鈴花。
きみの「近藤さん」が痛いよ。
胸に、何度も何度も突き刺さるんだ。
「見合いで出逢ったつねと祝言を挙げて、娘ができて……でもやっぱり俺はずっとずっと遊んでた。
楽しくて時が経つのも忘れて」
「………………」
「それで俺は幸せだったんだ。 後悔なんてしなかった」
鈴花は身をよじり、腕の中から逃れようとするが。
それは許さない事。
「でも……きみに逢って…………俺は」
「もう止めて下さい! 聴きたくない! 私だってその中の一人です……近藤さんの中ではすぐに忘れられる人間です!
近藤さんは…………近藤さんには……私の気持ちなんか一生分かりません!!」
「鈴花……!」
「私の名を呼ばないで下さい!!」
「………………」
「近藤さんには一番近くに近藤さんの大好きな奥様がいる……たくさんの好きな太夫さんがいる…………絶対に離れない人がいる…………でも……でも私には……私の大好きな人は近藤さんしかいなかった!」
悲痛な声。
胸を裂いてしまいそうな鈴花の気持ち。
……初めてだった。
「近藤さんには……近藤さんには大好きな人と別れる気持ちなんて……諦めなきゃいけない気持ちなんて分からないんです!!」
俺には。
分からないと。
鈴花は言った。
違う。
鈴花。
だって。
俺は。
「違う! 俺は……――女なんて数知れずいる。 俺に言い寄る女なんていくらでもいる。
俺が抱ける女なんていくらでもいる。 なのに……俺は」
鈴花の頬を覆う両手に力を込めた。
「鈴花。 一緒に羽ばたきたいと……俺の進む方向を傍にいて一緒に見てくれるきみじゃないと駄目なんだ」
「それは……忘れて下さいと……!」
「俺は忘れない。 きっと、きみは」
ひとつ息を吸い。
ゆっくりと。
「きっと、きみは俺が生まれて初めて本気になった女だから」
鈴花は俺の目を逸らさない。
「情けねぇよ。 きみを傷つけて……初めて胸が痛くなった…………死ぬとかそういうんじゃなくて……初めて、人を失いたくないと……思った」
「………………」
「きみが、初めてなんだよ」
「………………」
「……鈴花」
「………………」
「鈴花」
「……どうして分かってもらえないんですか……?
近藤さんの傍にいられない事……近藤さんと一緒に羽ばたけない事…………私が近藤さんの事嫌いだって言えば分かっていただけますか……?」
首を振った。
「無理だよ」
「違います…………近藤さんは抱ける女が欲しいだけなんです……一番近くにいたのが私なだけで…………気持ちなんかないんです……」
「………………」
「……お願い、します……帰って下さい……」
「鈴花」
「………………」
「ねぇ、鈴花。 俺はきみの体が目的で、きみの事好きになったわけじゃないよ?」
「………………」
鈴花は黙って、俺の言うことを聞いていた。
「俺はきみの心が大好きだから、一緒にいたいんだ」
「………………」
「きみの事が大好きで大好きで、終いには全てが欲しくなる……心も体も全てが。
俺がきみを抱いたのはきみの全てが欲しかったから……でもね」
「………………」
「鈴花。 きみが抱かれたくないのなら俺は抱かない。
きみに嫌われるのは嫌だから…………だからと言って他の女にも行かない…………ただ、ずっと俺の傍にいて欲しいだけなんだ」
「………………」
「俺に笑っていて欲しい……俺の名前を呼んでいて欲しい…………俺と手を繋いでいて欲しい。
ただ、それだけ」
どれだけの沈黙が続いたのだろうか。
破ったのは鈴花。
一言。
「……嫌いです」
「…………」
「…………嫌いです」
俺は。
目を閉じ、肩を落とした。
俺が悪い。
俺が、一番。
分かってたんだ。
もう、鈴花に嫌われてること。
当たり前なんだよ。
鈴花に嫌われて。
自業自得だって。
分かってたのに。
なんでこんなに胸が痛くなる。
それでも。
聴きたくなかったんだ。
嫌いだって分かってても。
鈴花の口から直接。
聴きたくなかったんだ。
「嫌い……」
「………………」
「自分が、嫌い…………」
俯いて俺と目を合わせない鈴花を見る。
いくつもの大きな涙が頬を伝って、それらを包む俺の手を濡らした。
「勇さんを…………いつまでも忘れられない自分が………………嫌いです」
歯を食い縛って。
鈴花は泣き崩れて。
その場に跪いた。
「う…………っ……」
そして震える指で。
俺の袴の裾を。
小さく握った。
それは。
縋るように。
迷子になった子供が母親を見つけ。
決して離すまいとその袂をぎゅっと握るように。
俺が。
どこにも。
行かないように。
視界が、ぼやけた気がした。
「鈴花、ごめん……!」
俺はすぐさま鈴花を抱いてやり。
頭を俺の胸に押し付け。
その髪を撫で。
その小さな背を擦った。
「う……わあああああ……!!」
声を上げ泣く彼女に。
堰き止めていた気持ちが。
俺の中に入り込んで。
ぎゅっと目を瞑った。
ごめん。
本当にごめん。
傷つけた事。
悲しませた事。
苦しませた事。
泣かせた事。
我慢させてた事。
ずっと、一人にさせていた事。
本当に、ごめん。
きっと、ずっと。
俺の中から消え去ることのない、自責。
失わないよ。
一人の夜が。
あんなに怖いものだったなんて知らなかったから。
きみがいなくなることが。
あんなに怖いものだったなんて知らなかったから。
もう、絶対失わない。
俺の腕の中でもぞもぞと動く鈴花はゆっくり顔を上げ。
懐に入れてあった手拭いを持ち。
震える手でそっと俺の口を拭った。
それは。
――深雪のそれが残らないように。
「……最後の感触……深雪のじゃ俺嫌だ」
「………………」
「……鈴花……」
「嫌です…………あんなとこ見るの……」
「もうないよ、絶対ない」
「奥様はいいんです…………奥様は……勇さんのたったひとりの奥様だから…………」
「…………鈴花……?」
「でも……でも奥様以外の女の人と仲良くしないで下さい…………私だけ……見て下さい…………今だけでいい、今だけ……私の事考えて下」
「鈴花……今だけじゃない。 今までもこれからもずっとずっと、誰とも仲良くならないし、俺は鈴花の事しか見てない。
鈴花の事しか考えてない」
「勇さん……」
「鈴花」
「もう……他の人と、しないで……」
息なんかさせてやらない。
このまま窒息して。
動かなくなって。
俺だけのものになればいい。
そんな気持ちで。
鈴花を力強く。
抱き締めた。
おずおずと。
鈴花の細い腕が俺の背に絡みつく。
嬉しかった。
鈴花が初めて。
自分の我侭を表現してくれた。
初めての、恋だって。
そう言っても過言じゃなかった。
――つねにも感じなかった。
つねは……いい女だ。
見合いで会ったつねは。
従順な女で。
俺の子供も産んでくれて。
喧嘩もした事なかった。
いつだって笑顔が絶えなかった俺たち。
おしどり夫婦と言われ。
幸せだった。
だから、胸が痛くなるなんて。
感じた事はなかったんだ。
きっと。
ずっと俺の知らないとこで泣いてたんだろう。
でもずっと俺についてきてくれる。
失う事はない。
それに甘えて。
遊郭の女と遊んでた。
けど。
つねへの気持ちは昔から変わることはなかった。
それは今でも。
……でも。
鈴花を抱く手に力を入れた。
きみは……違ったんだ。
他のやつらから見れば太夫と遊ぶのと何ら変わらないんだろう。
だけど。
違う。
彼女は。
俺のために。
笑って。
怒って。
……泣いて。
俺と同じ方向を見てくれるきみを。
俺は。
いいトシして。
マジで初恋か?
ホント情けねぇな。
「鈴花」
泣くのを止めない鈴花に。
小さく耳打ちをした。
それは永劫変わらぬ愛の告白。
それに俺の背中に回した腕に力を入れて応えた。
鈴花を立たせ、ついた雪を払い落とす。
肩に手を回し。
鈴花の荷物を持ち。
屋敷には入らず。
二人で来た方向へと戻った。
朝日が部屋の中に差し込んで。
瞼の向こうが明るくなって。
俺は目が覚めた。
見覚えのない部屋。
それは屯所へ戻る途中の宿だと気づく。
左腕は重い。
そっと脇を見れば。
俺の腕の上で、鈴花が静かな寝息を立て小さく丸まり寝ていた。
手を伸ばせば、柔らかな髪が指に絡む。
幻なんかじゃない。
久しぶりの感触。
この重さが好きなんだ。
鈴花に気づかれないよう左手を上げ頭を抱き。
横を向いて右腕で鈴花の腰を抱いた。
冷たくなった足先に気づき。
自分の足をそれに絡め、俺の体温を分けてやる。
ずっと。
ずっとずっとこうして俺の傍にいて欲しかった。
鈴花。
俺はきみの体が目的なんかじゃないよ?
覚えてるかい?
俺はきみと想いが通じるようになって。
だいぶ後だったろ。
互いの体を知ったの。
その気になればすぐに体を開いてた遊女と遊んでた俺だったのに。
俺は。
きみを。
心底大事にしたくて。
本当に大切に思ってて。
勿論どの男にも譲る気はなかったけど。
俺なんかできみを汚してもいいんだろうかって。
なかなか手が出せなかった。
結局鈴花の柔らかさに溺れちまったんだけど。
カッコ悪ぃな。
笑っちまうだろ。
鈴花の髪に、口づける。
恋なんてするもんじゃない。
そう思ってた。
きみが笑えば。
俺は幸せな気持ちになって。
きみが泣けば。
泣き止ませる事しか考えなくて。
きみがいれば。
どんな男がきみにちょっかい出すのかいつでも心配で。
きみがいなければ。
自制心もきかない、理性もきかない。
掻き乱されて。
いつもの俺が俺でなくなるんだ。
きみが俺のものであると。
わかってるのに。
こんなに苦しい、辛い思いをするのなら。
きみと。
出逢わなければ、よかった。
そんな風にも思ったんだ。
でも。
やっぱり。
今のこの気持ち。
鈴花に対するこの想いが。
とても嬉しい。
きみと、出逢えて本当によかった。
少し笑って。
少し腕の力を入れて。
鈴花を引き寄せて。
目を閉じる。
まいったな。
“その時”がすぐ傍まで来ているというのに。
きみが。
ずっとこうして隣にいてくれるのなら。
俺。
離れられなくなるよ。
それとも。
俺達は……もうずっと、離れられないのかな――。
もう。
どこまでも。
ずっと――。
なんて、な。
有り得ない事は考えないようにしよう。
こんなの我侭だ。
いずれ俺はきみの元を離れていくのに。
鈴花を手放したくないだなんて。
これ以上は何も望めない。
だからせめて。
彼女を。
忘れないように。
忘れられないように。
「…………好きだよ」
この身に、刻んでおこう――。
「慟哭 ― 第五章」 |
20070414 |