「本当に……いいのか?」
そろそろ空が白む頃、薄暗い部屋の中でひとつ仄かに灯る燈篭。
眉間に皺を寄せ、ひとりの男が煙草を吹かした。
「……はい。 勝手で申し訳ありません……」
「……思い残す事はねぇのか?」
「…………はい」
「あの人は…………きっと混乱するぜ」
その男と向き合ってる女。
くせっ毛が肩の上で揺らめく。
男装こそはしているが、顔も体つきも女で。
勇ましく腰に刀を差す。
白く血の気のないその顔は。
燈篭に照らされたという理由だけではなかった。
「…………あの人は……大丈夫です。 土方さんがついてらっしゃるから」
「………………」
「だから……行ってきますね。 土方さん、お元気でいて下さいね」
ひとつお辞儀をすると、女はその部屋を出て行く。
廊下に置いてある風呂敷を手に取ると。
とある部屋の前に立ち、襖の間に紙を刺す。
そして。
声を出さず、口の動きだけで。
離れる男の名を呼んだ。
長い時間。
その部屋に頭を下げて。
自分の身を置いていたその屋敷を出て行った。
もう春だというのに。
いやに冷え込み。
雲の多い暁。
そろそろ陽が顔を出す。
しゃりしゃりと霜柱を踏む音。
今日もきっと冷えるんだろうと。
女は自分の襟元を正し。
靄のかかる町の中へと消えていった。
「おい、トシ! トシ!!」
男は副長と呼ばれる男を捜していた。
屯所中をドタドタ走り回り、怒鳴りながら。
稽古場にいた副長はひどく驚き。
声のするその方向を見やる。
その男にしては、珍しく上気していた行動。
「近藤さん……どうしたんだ?」
「…………彼女がいない……」
「………………」
「トシ……何か知ってんだろ……? 頼むよ、どこに行ったのか……」
真っ白になるほど血の気の失せたその手に握るのは。
皺になった紙。
男は今朝いつもどおりに起床した。
いつもどおり。
隣にいない彼女、以外は。
起床と言っても浅い眠り。
ちょっとした物音で起きてしまう。
起きてる時間の方が多い真夜中。
それでもその日は夜明け近くに少しうとうとしていたらしい。
できる事なら。
夢であって欲しい。
彼女と一緒にいられない事が夢であって欲しい。
まだ七日ばかりの話なのに。
もう二、三ヶ月経ってる気にもなる。
願う男。
そして顔を覆い。
息を大きく吐く。
――全然、あの娘が悪いんじゃない。 全部俺の…………。
ふと。
男は気づく。
自室の廊下側にある襖と襖の間に。
白い紙が差し込まれているのを。
ゆっくりと立ち上がり、その紙を手に取る。
それは、手紙。
綺麗な字で綴るその手紙には。
男への感謝と――。
男はそれを読み。
震え。
顔を歪めて。
手紙を握り締め。
自分の布団に突っ伏し。
叫んだ。
喉が切り裂かれるほどに。
綺麗な字で綴るその手紙には。
男への感謝と――。
――別離の手紙。
『近藤さん。
今まで本当にお世話になりました。
土方さんにお願いして、ここを出て行く事にしました。
数年間だけでしたが新選組の一員として、近藤さんと一緒にいられて本当に嬉しかったです。
沢山の仲間に出会えて、楽しかったです。
本当は黙って出て行くつもりでした。
ですが、どうしても感謝の言葉だけは伝えたくて筆を取りました。
近藤さんに出会えて、本当に本当に良かったと思っています。
頼りない女の私を力づけてくれたのは近藤さんでした。
いつでも勇気づけてくれたのも近藤さんでした。
いろいろな近藤さんを見れて、いろいろな気持ちも頂いて、とても幸せでした。
私はずっと近藤さんの事忘れません。
本当にありがとうございました。
奥様と深雪さんに謝っておいて下さい。
私が近藤さんの傍にいてしまった事。
本当に申し訳なく思っております。
近藤さんには私のことで悩んでほしくないんです。
今大変な時期なので近藤さんの苦悩がひとつでも減ればいいなと思っています。
これで少し楽になるといいのですが。
今まで色々とご迷惑をおかけしてすみませんでした。
近藤さんの武運、いつまでも祈っています。
これからも頑張って下さい。
お元気で。
さようなら。
桜庭』
男はその場に跪き。
その手紙をぎゅっと握る。
「桜庭は……総司の所だ」
「…………総司の……?」
「どうしてもと頭を下げるから……承諾した」
「………………」
「あんな顔色の桜庭なんか見たことねぇぜ。 何があったんだ?」
「…………トシ、俺は……」
その男は目を瞑る。
いつだって一番最初に浮かぶのは彼女の顔。
笑顔だったそれはあの日を境に無表情になった。
怒ってるでもない、悲しむでもない無表情。
それが。
目の裏に焼きついてから。
ずっと離れなかった。
男の胸中は後悔と謝罪と懺悔と。
逢いたい気持ちと。
前よりも増す愛しさと。
立ち上がり、副長に背を向ける。
「……ありがとう、トシ」
「……大丈夫か?」
ひとつ頷いて稽古場を出る。
部屋に戻り。
身支度をして二本の刀を腰に差す。
足袋を履き。
「総司……悪ぃ…………俺の最後のわがままだ……」
いつもの着流しではなく。
袴と羽織を着用して。
「鈴花」
ひとつ。
愛しい人間の名を吐く。
「本当にごめん。 でも俺は……きみが隣にいない事を許さない。
ずっと俺の元に置くと……そう決めたんだ」
昨日届いたばかりの手紙を取り、懐に入れ。
「………………恋なんて……」
小さく呟いた。
「…………もうイヤだ……」
草履を履いて、屯所を出る。
「もう、ごめんだ…………もう……こんなのは……こんな想いは、きみで終わりだ」
町が動き出す。
その中を。
男は、掛けられる声に振り向きもせず。
ただひたすら、病床に臥せる仲間の元へと走り続けた――。
「慟哭 ― 第三章」 |
20070114 |