「今日も冷えるねぇ……」
空を仰ぎ。
吐いた言葉と共に白く空に溶ける息。
腕組みをし。
寒さに縮こまって、転がる小石を蹴る。
この江戸へ戻ってどのくらい経ったのだろうか。
懐かしいこの土地。
本当なら嬉しいはずなのに。
新選組の仲間をどんどん失って。
追い詰められて。
それでも。
……それでも彼女は俺の傍にいてくれる。
それが、それだけが。
荒みかける俺を唯一癒す。
そろそろ夕刻。
俺は屯所を出、買い物に出た彼女を待っていた。
『ちょっとだけだから、一人で行ってきます。 勇さんは休んでて下さいね』
きみといられるのなら疲れなんて吹き飛んじまう。
一緒に行けばよかった、と。
ほんの数分でも彼女といたい俺はほんの少し後悔した。
その時背後から。
「近藤、さま……?」
呼ばれて声がする方向を見ると。
そこには。
懐かしい顔の、懐かしい匂いの女性が立っていた。
髪を下ろし。
いつも会ってた時の顔とは違い、少し地味目な化粧で。
江戸では絶対見ることのできないその光景に。
俺は。
「……深雪……?」
「ああ、近藤さま……」
涙を浮かべて俺の胸に飛び込んでくる。
俺は言葉を失いかけた。
お、おいおい……ここは江戸だぜ……。
なんで……こんなところに……。
「私……私…………近藤さまにお会いしたくて……」
「………………」
「ようやく……ようやく会えました……」
「……深雪」
「遊郭にも足を運ばれず、黙って江戸まで行かれてしまうんですもの……一言言って下されば……」
「………………」
「近藤さま……どうか…………どうか私を近藤さまの元で……」
「………………」
「……近藤さま……」
「…………もしきみに江戸へ来ることを伝えていたならきみは俺と一緒に来たかい?」
「え……」
俺の胸で泣く深雪、そっと顔を上げる。
相変わらず細く白いうなじで、すぐにでも手折れてしまいそうな。
「私は……ずっと、ずっと近藤さまをお慕い申しておりました……!
近藤さまは……私の事…………」
「俺は…………」
「………………」
「俺は……きみの事…………好きだったよ」
「………………」
「きみは綺麗で繊細でたおやかで……俺の理想の女性だよ」
「………………」
『でもね』と言い掛けたその時。
「私は今……貴方の子を身篭って……」
目を見開く俺を他所に。
深雪は俺の名前をひとつ呼ぶと。
俺の肩を掴んで。
背伸びをして。
自分の唇を。
俺のに押し当てた。
つねに悪いと思ってたからか。
どんなに遊んでも。
深雪は勿論。
他の誰とも決してしなかった。
口づけ。
――彼女、以外は。
眼前に見えるのは。
震える深雪の長い睫毛。
身、篭る……?
俺の子を……?
……深雪が……?
漂うのは。
絡みつくような甘い香り。
ぐるぐると。
記憶と思考が頭の中を駆け巡る。
感じるのは。
無理矢理馴染もうとする紅。
俺が彼女を抱かなくなって。
どれだけの月日が流れた……?
俺の大好きで、俺の感じていたい感触じゃないそれに。
眉を寄せた瞬間。
気配。
じゃり、っと。
後方から砂と草履の擦れる音が耳に入った。
早急に深雪を剥がし。
ひとつ息を吐き。
ゆっくりと。
振り向く――。
心臓が鷲掴みにされる思いがした。
買い物から帰ってきたのだろう、包みを持った彼女が俺を見ていた。
鈴花が。
俺と、深雪を。
無表情。
それは。
本当に何の感情も含んでない。
驚くでもない。
怒るでもない。
悲しむでもない。
唇をきゅっと結んだ。
蒼白の顔。
立ち止まってた彼女は、俺に小さくお辞儀をして横を過ぎ去ろうとした。
「す……」
すかさず俺は深雪から身体を離し、鈴花の手を取った。
でも彼女はゆっくり俺の手を振り解き、静かに言った。
「……泣いてますよ?」
小走りに屯所に入る。
それを追いかけようとするが。
俺の袖を別の手が制す。
「近藤さま……」
涙の後が消えないその顔を見る。
俺は深雪に告げた。
「……ごめんね」
「…………近藤さま……」
「本当にごめん」
深雪はじっと俺を見て逸らさない。
「護りたい、娘がいるんだよ」
「………………護りたい……」
「そう、とても強い娘だよ」
「………………」
「でも……ずっとずっと弱い娘なんだ」
「……それは私ではないのですね……?」
「………………」
俺は深雪から目を逸らす事しかできなかった。
深雪は確かにいい女だ。
でも……本当の恋なんて感じた女じゃなかった。
一度も、本気になった事はなかった。
「……知っておりました……貴方が桜庭さまを見ていた事……」
「………………」
「心の底から『好きだ』と言って下さらなかった事……近藤さまはずっと…………いつでもずっと私を見て下さらなかった事……知っておりました」
「………………“嘘”、だよね……?」
深雪はそれに答えなかった。
「私たちの間には……何も生まれてないのですね……?」
「………………ごめんね」
「謝らないで下さい…………私もこれで踏ん切りがつきました……私……今度祝言を挙げるんです」
「……そう、か……」
「こんな私でも貰ってくれる殿方がいらしてくれて……悩んでいたのですが……でもここへ来てやっと決心できました。
近藤さま」
「ああ……」
深雪は静かに笑い。
「深雪は近藤さまに出会えてとても嬉しかった」
「深雪……」
「私、幸せになります。 近藤さま……近藤さまもどうか幸せに…………すみませんでした、試すような真似をしてしまって…………桜庭さまにも謝って下さいませ」
「……ああ」
「では……さよなら」
頭を深々下げると。
俺に背を向ける。
「…………さよなら」
本当にごめん。
思わせぶりな事、してたんだよな。
俺も、出会えてよかったと思う。
でも。
それ以上に。
俺は手の甲で自分の口元を拭い。
走って屯所の中に駆け込んだ。
「鈴花……いるよね?」
鈴花の部屋の前。
返事はない。
「…………話したい。 出てきて、くれないか……?」
どのくらいそうしてただろう。
ようやく。
部屋から声が響いた。
「仕方、ないですよ」
明るく振舞う声。
たぶんそう感じてるのは当本人だけだろう。
「近藤さんには、試衛館にいるお嬢様以外にお子さんがいてもおかしくないですもの」
「………………は?」
「これが普通、なのかもしれませんね」
「…………な……!」
違う。
だから俺は。
襖を開けて。
鈴花の元へ。
「鈴花、なんでそんなこと言うんだ!? 俺が娘以外に子供がいると……」
「だって」
部屋の真ん中で襖を背に座ってる鈴花の前に回り込み。
その小さな肩を掴んで叫んだ。
鈴花はゆっくりと俺を見て。
「だって、近藤さんは女の人を何人も愛して、何人も夜を共にしてるじゃないですか」
俺を通り越してどこか遠くを見る彼女は。
にっこりと微笑んだ。
彼女の口から。
聴くとは思わなかった、言葉。
俺は愕然とした。
「俺がきみに恋してどれだけ遊郭に行った? 深雪とどれだけ会ってた?
有り得ねぇ話なんだよ!」
「やだ、近藤さん。 そんなの、知らないですよ。
私には関係ないですもん」
「俺はきみが好きなん」
「“好き”……?」
彼女はきょとんとした顔して。
「あはは、近藤さんの“好き”って何ですか? 私には、分からない」
鈴花は立ち上がって。
俺の腕を引っ張り、立たせると。
背中を押し。
俺を部屋から出した。
「その言葉、深雪さんに言ってあげて下さい。 もう来ないで下さいね。
私も近藤さんの所へは行きませんから」
ぴしゃりと襖を閉める。
最後まで。
“俺”と目を合わせなかった。
それからどんなに話しかけても返事は返って来ず。
食事を持ってきても。
彼女は部屋から出てくることはなかった。
だから。
一番奥にあるこの部屋。
この部屋の前で俺は。
鈴花が出てくるのを。
ずっと、ずっと待っていた。
翌日。
俺は鈴花の部屋の前で目が覚めた。
そのまま眠っていたらしい。
眠ってた俺に羽織が掛けられていて。
俺は咄嗟に立ち上がり彼女を探した。
部屋にいる気配はない、稽古場にもいない。
まだ陽が上って間もない事に気づき。
休憩室か食堂にいるだろうと予測した。
案の定台所にいる彼女は忙しく島田さんと隊士の食事の支度をしていた。
鈴花は俺に気づくと。
微笑んだ。
「あ、近藤さん! もう少ししたら朝食が出来ますので座って待ってていただけませんか?」
いつもの。
彼女だった。
卓上に並べる味噌汁やおかず。
座る俺の前にも並べてくれる。
すかさずその手を掴み。
名を呼んだ。
「鈴花……」
瞳を伏せて。
微笑を絶やさない。
「もう部屋に来ないで下さいね……迷惑ですから」
低く小さい声で。
それだけを囁き。
炊事場に戻る。
……当たり前なんだよ。
いつもの。
彼女じゃないに決まってるだろ……。
「あはは、それは酷いですよー」
屯所の裏で笑い声が聞こえる。
縁側に腰をかけ、隊士と一緒に楽しそうに。
そんな鈴花がいた。
彼は二人の後ろを歩こうとする俺に気づき、声をかけてくれる。
でも。
鈴花は。
俺にずっと背を向け。
何かを話そうとはしなかった。
俺はそのまま通り過ぎ、自分の部屋へと向かう。
こうして。
彼女は俺と目を合わさなくなった。
そればかりか彼女は。
他の隊士と一緒にいる事が多くなり。
他の隊士に向ける笑顔が、多くなった。
入隊したばかりの隊士たちに稽古をつける。
それは何時の間にか彼女の仕事になっていた。
終わればすぐに食事の支度があり。
隊士の中で一番最後に食事をし。
隊士の中で一番最後に入浴し。
もうすでに日が変わってだいぶ経つ頃に、彼女は眠る。
鈴花の部屋の前でそれを待った。
風呂から戻る彼女が俺を見つけると。
一瞬立ち止まったけど。
すぐに瞳を逸らし部屋に入ろうとする。
「鈴花……」
「来ないで下さいって言ったじゃないですか」
「鈴花、話を……」
肩を掴もうとするが。
それは簡単にかわされ。
「話なんかなんにもありませんよ?」
「鈴花、頼む……!」
微笑む鈴花に。
ずきん、と俺は胸を痛くした。
また、だ。
「私は、近藤さんと一緒に……傍にいれる人間じゃなかったんです」
「鈴花、違う。 俺にはきみが……」
鈴花は静かに笑い首を振る。
「…………怒らないのか?」
「……? なんで怒るんですか?」
「泣かないのか……?」
「泣きませんよ。 泣く事じゃないですもの」
「……じゃあ、何で」
鈴花の両肩を掴んで。
「呼び名を変える……?」
「……もう、今までの私たちに戻りませんから」
「え……」
「いえ。 近藤さん、私が新選組に入った頃に戻ったんです。
これが普通なんです。 これが当たり前なんです」
違う。
それは。
「鈴花……俺は一番きみのことが」
「私じゃないですって。 近藤さんに一番必要なのは私じゃない」
「違う! 俺はきみが必要だ!」
「近藤さん」
俺の両手を自身の肩から外し。
「私は父親があんなでしたから……寂しい気持ちが分かるんです。
親は子の傍にいてあげるべきなんです。 だから近藤さんは、お子さんの……奥様や深雪さんの傍にいてあげて下さい」
「…………鈴花……! あれは違……絶対ないことなんだよ!!」
「そして、忘れて下さい」
「え……」
鈴花は。
まだ、笑う。
「一緒に羽ばたく約束、忘れて下さい。 私は忘れますから」
頭を下げそれだけ言うと。
鈴花は部屋に入った。
傷、つけた。
それはきっと。
一生癒される事のない。
深い、深い傷。
あんな無理な笑顔。
見たくなかった。
まだ大泣きしてくれた方が良かった。
余計。
きみがどれだけ辛くなってるか。
痛くなるほど。
わかった。
一度だって。
今までの俺を俺が。
悔いた事なんて、なかった。
女は俺の癒し。
殺伐とした仕事の合間に出掛ける遊郭は。
派手な化粧をして舞を踊り、俺の傍で酌して時折もたれかかる舞妓は。
俺にとって、唯一の気の休まる場所。
変わらないと思ってた、それ。
それなのに。
罰、なんだろうか。
俺が今までしてきた事の。
全てに対しての、罰。
そうだとすれば俺は。
今まで自分の人生で。
こんなに後悔した事があっただろうか……?
こんなに自己嫌悪になった事があっただろうか……?
こんなに…………時を取り戻したいなんて。
考えた事があっただろうか……?
有り得ない話。
どんなに遊んでても。
子供を作るような真似まではしてなかった。
――嘘だと思ってくれてもいい。
自分に、嘘はついてないから。
きみと出会ってから、遊郭に通う回数は減り。
きみに恋してから、女を抱くことはなくなり。
きみと愛し合ってからは。
俺の心も身体も。
きみだけのものになって。
でも。
それでも。
きっと、言い訳になる――。
ごめん。
本当に……ごめん。
傷つけてごめん。
悲しませてごめん。
傷つけて、ごめん。
言い訳なんかしない。
だから。
もう一度。
もう一度だけでいい。
笑ってよ。
あんな笑顔じゃない。
きみの笑顔。
大好きだって言ったろ?
知ってる。
俺は我侭な人間だと。
俺はずるい人間だと。
今の俺が一番必要としてるのは。
つねでもない。
深雪でもない。
鈴花。
きみなんだよ――。
「慟哭 ― 第一章」 |
20061223 |