「――ただいま」
しん、と静まり返る家の中。
いつもなら近づいてくる規則正しい軽いスリッパの音。
それが今日は、聞こえない。
「……?」
出掛けてるのか?
でも、靴は置いてある。
リビングに入っても。
気配はない。
「夏野……?」
キッチンにもバスルームにも。
一階にいる気配はなかった。
怪訝に思い、二階に上がり。
寝室に入れば。
カーテンを閉め切って。
薄暗いその中のベッドに大きな。
布団の塊。
「……夏野?」
動かない。
眉を顰め近づくと。
小さく。
嗚咽。
「夏野、どうした?」
ベッドに座り。
布団を捲ろうとすると。
それは中から拒否される。
嗚咽が少し。
大きくなった。
「なぁ、夏野。 具合悪いのか?」
「………………」
「……どうしたんだ?」
「………………」
「夏野……言わないとわからない」
その塊に手を置いて少し揺さぶる。
暫くすると。
布団の中でごそごそと。
出てきたのは。
携帯を持つ、夏野の手。
その携帯は何かを表示してる。
その携帯を受け取れば。
それはネットニュース。
タイトルは。
『人気女優、トップモデルとデートか』
記事を読めば、先週の土曜夜10時頃。
繁華街を歩くふたりをキャッチしたとのこと。
写真も添えて。
鮮明ではないけど。
その中の男は。
キャップを目深に被り。
サングラスとマスク。
襟足の髪も少し、明るめで――。
「おい夏野……これ、俺じゃない」
「………………え」
ぴた、と。
夏野が止まる。
息をついた。
夏野の泣いた顔も好きなんだけど。
早くしないと。
手に負えなくなる。
「俺と背格好が似てるモデルの男だ……こないだ会ったけど、最近ドラマにも出てるから役作りで髪を明るくしたって」
「………………」
「だいたい、先週の土曜なんて俺家にいたろ……?」
「………………」
「それに俺は……メガネはしても夜にサングラスなんてしない」
左手の指輪も写ってない。
自慢じゃないが。
仕事以外で指輪を外したことなんて、ない。
俺は携帯の画面を消し。
夏野の頭がありそうなところに顔を近づけた。
「夏野」
「………………」
「……夏ー野」
再び布団を揺する。
「ほら、だからもういいだろ……? 起きろ」
「…………やだ」
「どうして……?」
「み、みっともないから……!」
俺はその布団の塊に覆い被さり。
「俺の惚れこんだおまえの、そのみっともない顔とやらを見せろよ」
「やだやだ!」
「……俺、まだ“おかえり”言われてないけど」
「………………えりなさい……」
「こら、俺の目をちゃんと見て」
暫く動かなかった夏野は。
もぞもぞと布団から顔を出した。
「ん……?」
散らばった前髪を所定の位置に。
「前髪切ったのか?」
小さく夏野が頷く。
「……ああ、いいな……懐かしい……高校の時、思い出す」
「……おかしく、ない……?」
「やっぱ前髪あると幼く見えるせいか、若く見えるな……」
「……子供っぽい……?」
「そうじゃない……前髪長いのもいいけど……こっちも好きだ、俺」
俺は笑って。
髪を撫でた。
「しかし、だ……あーあー……そんなに泣いて……目も鼻も真っ赤だ」
涙を拭う。
「お、かえりなさい……」
「ただいま…………妬いたのか?」
「………………」
「仕方のない奥さんだな……」
その無言の肯定が。
俺にはひどく嬉しくて。
「結婚して何年も経つのにな……」
「だって……」
「なぁ、夏野……おかしいんだ、俺……」
夏野を覆う布団を剥ぎ取り。
夏野の傍に横たわり。
その頬を指で添え、こちらに向かせる。
夏野と俺の鼻先は1センチ程。
「結婚して何年も経つのに……普通だったら安定するか、まぁ多少飽きたりするだろ……?」
「………………」
「……俺には、それがない」
「珪くん……」
「高校の時より……新婚の時より…………もっと、もっと好きになってる」
夏野の頬に添える指を顎へと。
唇へと。
「……おかげさまで他の女に興味ないし、浮気する気にもならない」
「……なったら困るよ……」
「――そうだな」
俺を理解してくれるのも。
俺の傍にいてくれるのも。
俺に笑ってくれるのも。
もう、ひとりでいい。
何人もいらない。
親指で唇をなぞると。
その唇が俺を呼ぶ。
夏野と目を合わせれば、まだ真っ赤な涙目。
「……大好き」
弾かれたように。
俺は自身の唇を。
夏野の柔らかいそれに押し当てた。
唇を重ねたまま。
夏野のシャツのボタンをひとつずつ外し。
露わになった首筋から鎖骨に。
いくつもの所有の証を残す。
夏野は俺の頭を抱き。
何度も何度も。
俺の名前を呼んだ。
人が聞いたら呆れるんだろうな。
結婚して何年も経つのに。
まだ夏野が足りないなんて。
まだ夏野が欲しい、なんて。
でも事実だから仕方ない。
カーテンが閉まっているのをいいことに。
俺はその身体を。
いつまでも貪るように。
求めていた。
もう夕方だろうか。
汗ばんだ額に張りついた前髪をかき上げる。
「そうだ。 今日は仕事終わるの早かったんだね」
隣の夏野は俺に肩を抱かれてる。
「……言わなかったか? 俺、今日午後からは仕事入れてない」
「………………?」
「今日の半日は準備……まさか、明日のこと忘れてないよな?」
「もちろん。 ねぇ、どこ行くの?」
「おまえ、たぶん行ったことがないところ。 ホテルも取ってあるから」
「ふふ、楽しみ! ありがと珪くん」
夏野はそう言って俺の頬にキスをした。
明日は、結婚記念日。
車の中に入れてあるプレゼントも。
おまえのためのもの。
喜んでくれるだろうか。
なぁ、夏野。
俺、おまえがどうしたら喜ぶかとか。
笑ってくれるだとか。
そんなことしか、考えてない。
だから有り得ないんだ。
浮気とか。
安心してろ。
絶対、ないから。
次の日。
俺の心配をよそに。
想像以上の喜びを見せてくれた夏野。
本当に。
甲斐があるというか。
単純というか。
おまえのせいで。
今度は何しようって。
考える時間が、増えたな。
その時間は。
夏野が思う以上に。
他の人間が思ってる以上に。
至福な時間、だけどな――。
「more and more」 |
20170402 |