「あ、そうだ。 ねぇねぇ、わたし前髪伸ばした方がいいかなぁ?」
「何だ、急に」
仕事から帰り。
ジャケットを脱いで時計を外していると。
おたまで味噌汁を小皿に移し、味見してる夏野がそんなこと。
「前髪伸ばすと、ちょっと大人っぽくならない?」
「まぁ、多少は……何か言われたか?」
「ふふふ、それがねぇ〜」
ん、オッケー!と。
味噌汁をお椀によそって、テーブルに置く。
「なんと夏野ちゃん、今日スカウトされちゃいましたー!」
「………………何の?」
「んー、芸能界?」
………………。
………………。
………………。
……聞き間違いだと思いたかった。
……夢だと思いたかった。
一番恐れていたことが。
最悪の事態が。
とうとう。
「お綺麗ですねって。 芸能界に興味ありませんか?って」
「……どうしたんだよ? それで」
「あ、珪くん。 怒ってる」
「だから、どうしたんだって」
「もう、大丈夫だってば。 丁っっっ重ーーーにお断りしましたっ」
たぶん俺が反対するのは知ってると思うから。
そこはそんな心配もしてないけど。
一体誰だよ。
人の女に気軽に声かけるんじゃねぇよ。
「……何処の事務所なんだよ」
「名刺貰った。 だけどねー」
近くに置いてあった鞄から名刺を取り出す。
それを受け取ると。
「……は?」
「ね、珪くんの事務所の人だったんだよ」
……誰だ?
知らない、名前。
夏野と結婚する時に偉い人たちとスタッフには紹介してるから。
新人か?
「これ、貰うぞ」
「え? いいけど……お、怒っちゃダメだよ? 若い人だったから新人さんかもしれないし……ちゃんと断ったんだからね」
「わかってる……言いたいことがあるだけだ」
わかってる。
わかってるけど。
多少なりとも心中穏やかじゃないのは事実。
夏野は続けて今日あった出来事を笑顔で話す。
全く。
うちの奥さんは俺の気も知らず。
相変わらず呑気な顔して――。
朝10時。
撮影開始前。
コーヒーカップを受け取り。
スタッフに挨拶しながら、マネージャーに問う。
名刺を差し出しながら。
「なぁ、この男知ってる?」
「ん? ああ、今月入った子ね。 今日ここにいるんじゃない?
今研修中だからいろんな撮影現場回ってたと……あ、ほらいたいた。 って何この名刺、どうしたの?」
「ちょっと話がしたくて……」
「ちょっと待ってて。 おーい!」
細身のスーツを着る若い男。
自分が呼ばれたことに気づき。
走って俺たちの元へ。
「おはようございます! あ、葉月さんもおはようございます!」
「ああ、おはよう……なぁ、聞きたいことがあるんだけど……」
「え……葉月さんが僕に、ですか……?」
「昨日、駅前で女をスカウトしなかったか?」
「え?」
「髪が腰近くくらいまでのストレートで、小柄の……」
ああ!と。
ぱっと瞳を輝かせ、思い出したようだった。
「いましたいました! 凄く可愛くて……思わず声かけちゃって……」
「え、まさか……」
マネージャーが感づく。
聞けば。
男は事務所の先輩とスカウトの極意なるものを教わるため、街に出ていたらしい。
先輩がトイレに行ってる間に見つけたのが、夏野だとか。
その男も夏野を見つけた時は、暫く惚けてしまったと。
でも我に返り。
気づけば追いかけて。
夏野に声をかけていたらしい。
『あ、あのっ!!』
『は、はいっ!?』
『あ、あの……あの……』
『はい……』
「瞳が大きくて顔小さくて……綺麗というか可愛くて……健気なカンジで嫌味がなくて……仕事忘れてナンパしちゃいそうになっちゃいまして……」
「…………いいから続けろ」
「珪、やめなさい。 顔が不機嫌の塊よ」
夏野は胸に抱えていた鞄を持つ手に力が入り。
不審な目で、その男を見る。
『き、きみ……高校生でしょ?』
『え?』
『……どこの学校の子なの?』
『あの……わたし、とっくに成人です……23です……』
だいぶ夏野の顔は複雑だったと。
なるほど。
あいつの前髪の原因はこれだ。
若く見られたがったり、大人に見られたがったり。
女は、大変だな。
『え!? 俺の上!? す、すみません……つい、貴女がお綺麗だったので……』
『あ、あはは、ありがとうございます。 でもそんなことないですから』
『あの……芸能界に、興味はないですか……?』
『……はい?』
『あ、僕はこういう者でして……全然怪しくないです、うちの事務所ちょっと知れてる所で……』
夏野は名刺を受け取るが。
すぐ、あれ?という顔をする。
『ぜひ……ぜひとも! みんなのアイドルになりませんか!?
アイドルでなくても……女優とか……』
『すみません、お断りします』
夏野はにっこり笑って。
即答だったという。
『へ? でもお姉さん綺麗だからすぐ売れると……』
『わたしを必要としてくれる人は大勢でなくて、数人でいいんです。
家族とか友達とか……』
『……え』
『それに』
それは。
その男も。
仕事を忘れるくらいの笑顔で。
『何より主人のために、主人のためにだけ生きていたいんです。 だからごめんなさい』
「まさか人妻だとは……自分より年下だと思ってて…………でも性格も良さそうだったから、もったいなかったかな……」
丁度その時、マネージャーがスタッフに呼ばれ。
「珪、怒らないのよ? この子知らなかったんだから」
「……わかってる」
「……?」
その場を去る。
残されたのは。
俺とその若い男。
「……何で性格良いと思ったんだ? 見た目だけで選んでるだろ?」
「それは……」
『ノルマ、とかあるんですか?』
『え?』
『今日何人見つけなきゃいけないとか……だったら、ごめんなさい。
わたし何のお役にも立てなくて……』
『あ、ああ、いいんです! こういうのは本人のやる気なので、無理強いはできないので……』
夏野は白い歯を見せて。
『頑張って下さい。 はばたきには結構美人さんいますから』
何度も何度も謝って。
何度も何度も頭を下げたという。
そして。
最後に。
『主人を宜しくお願いします』
あのバカ。
おまえがそんなに気を遣うなよ。
「うちの会社に旦那さんがいるのかな……まだわからないんですけど……でも」
男は続ける。
「旦那さんのために生きたいなんて、旦那さんのこと凄く好きなんだなと思いまして……なかなか言えないなと。
だからきっと性格も……でもこういう世界って強くないと生きていけないじゃないですか。 あの人が潰されるのはやっぱりイヤで、やっぱり強引に誘わなくて良かったかなって……」
人の女に気軽に声をかけるのは。
確かに癇に障る。
「おまえ……」
「は、はいっ」
「ちゃんと人見る目ある……自信持っていいんじゃないか?」
「え?」
「葉月くーん、そろそろ支度始めてねー!!」
撮影準備の声。
持ってたコーヒーを一口飲み。
テーブルに置いた。
ふぅと、息をつく。
「それ……俺の、奥さん」
「え……えええええっ!? は、はは葉月さんの!?」
「ああ」
「え、あ、あの……っ! す、す、すみませんっ!
俺全然知らなくて……!!」
「もう、いいよ」
「は、はい……」
俺は笑って。
「今日……よろしく」
「よろしくお願いしますっ!」
深々と頭を下げる。
「あ、あの! 葉月さん!!」
立ち去る俺を、男は引き留めた。
「ん?」
「奥さん……本当に凄くいい方で……可愛い方ですね!!」
口角上げて、答えた。
「……だろ?」
人の女に気軽に声をかけるのは。
癇に障る。
けど。
こうして。
俺の伴侶が。
俺の選んだ人間が。
外見はともかく中身をここまで褒められるのは。
悪い気は、しない。
寧ろ、嬉しかった。
やっぱり。
俺にはあいつで良かったんだ。
そして改めて思う。
あいつの想いが。
俺のと寸分違わぬ想い。
そう、あいつと一緒になるのが。
必然だったんだ。
今日は仕事休みだったな、あいつ。
早めに電話するか。
夕飯作らないように。
夜は夏野の。
好きなもの、食べに行こう。
「あれー? 今日いい顔してるねー、いい写真撮れそうだ。
夏野ちゃんいないけど……何でー?」
照明スタッフが控室に行く俺に。
そんなの。
「――内緒です」
あいつを想えば。
この場にいてもいなくても。
それも。
必然、なんだろうな。
単純だ。
俺は。
「inevitability」 |
20170403 |