今日はトレイにコーヒーを何度運んだのだろう。
もちろん隣のスタジオにも運ぶ。
夕方のこの時間。
学生の帰宅時間もあって“ALUCARD”は非常に混む。
わたしはバイトに勤しんでいた。
何かに取り付かれたように、何かを忘れるように。
そうでもしないと、思い出して。
寂しくなっちゃうから。
「すみませーん」
「はぁーい!」
息をつく暇もなく、あちこちへとオーダーから片づけまで。
ようやく客がまばらになってきた頃。
マスターがわたしをカウンターへと呼んだ。
「今日はもうあがっていいよ」
「え? でも……」
見ると夕方6時半。
わたしのシフトはラストの8時まで。
「まだ、終わる時間じゃないですよ?」
「お疲れ様でーす」
ここでバイトをしている高校生の女の子が、エプロンをつけながらわたしに言った。
「そういうこと。 代わりの娘が入ってくれるから。
今日はもういいよ」
にっこり笑ってマスターはカップを拭いている。
意味深な言葉を残して。
「だから今日は仲良くね」
「うわぁ……」
空を見上げると、星々が煌いていた。
空気が澄んでいるせいか、オリオン座も冬の大三角もキレイに輝いている。
わたしははぁーっと両手に息を吐き、コートのポケットに両手を突っ込んだ。
マフラーも顔の半分まで覆って。
――珪くん、今……そっちは何時くらいかな?
ねえ。
今日の夜空、すっごくキレイだよ。
一緒に見たいね。
でも一緒に見れないね。
もう一ヵ月だよ?
そろそろこっちに帰ってくる……?
『夏野……俺、海外の仕事が入った……』
そう言って珪くんは申し訳なさそうにわたしに告げた。
行きたくないと言い張っていた彼にわたしは。
『ダメだよ? 珪くん、お仕事だよ? みんな待ってるよ?』
『……でも、一ヶ月は……長いだろ……』
もちろん寂しいけど。
だけどお仕事だから。
何とか説得して彼をアメリカへ行かせた。
発つ前の日は一睡もさせてもらえなかったけど。
玄関を出る前、濃厚なキスをして見送ったけど。
この一ヶ月は長くて。
ひとりでいると彼を思い出してしまうため、わたしはマスターにお願いして無理にでもバイトのシフトに入っていた。
三差路。
左に曲がれば珪くん家。
でも今は家主がいないから。
珪くんが発ってからは右に曲がり、自分の家に帰る。
人通りも車通りも少ない道路。
一台の車がハザードランプをつけてこちらを向いて停まってる。
ヘッドライトがついた。
あまりの眩しさに目が眩む。
街頭しか灯りがないからありがたかったけど。
それにしても、眩しい。
でもプランはできてる。
珪くんが帰る日は笑顔で。
ちゃんと空港まで迎えに行って。
家に帰ったらご飯食べさせてあげて。
そしたら。
わたしの、願い事。
聞いてくれるかな……?
一瞬でいいの。
5秒とか。
ちょっとだけでいいの。
そしたら家に帰るから。
珪くんにひとりでのんびりしてほしいから。
下を向き、大きな溜息。
その車の傍を通り過ぎる。
思わず、ぽつり。
「珪くん……逢いたい」
「俺も、逢いたかった」
「本当? 嬉し………………え?」
振り返ると、その車のドアが開き。
長い脚が出てくる。
月に照らし出された髪は。
きらきらして綺麗な褐色。
「け……!」
足早に近づき。
わたしを抱き掲げた。
彼は笑って。
「……いい加減車とナンバー覚えろよ」
間近に見るその翡翠は。
間違いなく。
わたしが逢いたかったそれ。
「だ、だってまさかいるなんて……え? あ、あのっ、い、いつこっちへ……!?」
「さっき」
「や、やだ……びっくりし」
「夏野」
珪くんは大きな溜息をつく。
呆れたようにわたしを見て。
「……他に言うことないのか?」
「え……?」
わたしを下から覗き込む。
「……寂しかった……」
「……それから?」
「早く、逢いたかった……!」
「それと?」
「……おかえりなさい!!」
珪くんはこの上ない笑顔でわたしをもっと抱き締め。
胸に顔を埋めた。
「ただいま」
わたしは珪くんの頭を抱え。
その髪に顔を寄せ、泣いた。
「珪くん……珪くん……」
「夏野……」
「無事に帰ってきて……よかった……」
「帰国の日、教えなくて悪かったな……おまえを驚かせたくて」
「そうだよ……教えてくれたら空港まで迎えに行ったのに」
「おまえの……喜ぶ顔が見たくて」
珪くんは顔を上げ。
「……喜んでくれてるか?」
「当ったり前だよ! すごく嬉しいんだから!」
年甲斐もなく涙をぼろぼろと零し。
さすがにみっともなくて。
見られないように珪くんの首に顔を埋めた。
珪くんは“ALUCARD”のマスターに電話をして。
もしわたしがバイト入ってるなら、早くあがらせてやれないかと話をしたらしい。
ヘンなとこ用意周到なんだから。
わたしをようやく地上に下ろし。
助手席のドアを開ける。
「乗れよ」
暖かい車内。
わたしが車に乗り込むと。
珪くんも回り込んで、運転席に腰掛ける。
途端。
珪くんはわたしの肩を引き寄せ。
それはもう。
濃厚な、口づけをした。
何度も角度を変えては。
舌も絡められて。
荒い息遣いまで。
わたしも自ずと。
珪くんの首に腕を回していた。
何分か後。
唇を離し。
「このままじゃマズい……送る」
珪くんは苦笑して。
最後に、啄むキス。
珪くんのいなかった間の話をする。
珪くんも向こうでの話をしてくれる。
たくさん話はあるのに。
車だとさすがに家に着くのもあっという間。
「ね、珪くん。 寄って行ってよ」
「ああ、サンキュー……でも今日は家に帰る。 急だったからな、おまえは今日こっちにいろ。
あ、土産があるんだ……親御さんに渡してくれ」
「明日は? 仕事?」
「二、三日休みある。 おまえに用がなきゃ明日どこかに行くか?」
「ホント? いいの? 疲れてない?」
「全然。 昼くらいに電話する」
にっこり笑う珪くん。
わたしはもうどうにもたまらなくなって。
「け、珪くん! ちょっと待っててね!」
お土産を片手に勢いよく家に入った。
両親に事情説明し、手早く支度。
「夏野―、珪ちゃんにご飯食べていきなさいって言ってー」
「明日でいいー? だってお父さん珪くんと飲むと長いんだもん!」
必要なものはだいたい珪くん家に置いてあるから。
持っていくものは、ほとんどない。
玄関を出て。
門扉の前に停まってる車のドアを開け。
助手席に乗り込む。
「……夏野?」
「……え、えーとね……」
ごにょごにょするわたしの顔を珪くんが覗き込む。
「け、珪くん……疲れてるからね……あ、あのね……」
自分が聞いても。
歯切れ悪い。
「疲れてない。 どうした?」
「ご、ごめんね……わたし……」
「……?」
「……珪くんに……もっと、ぎゅってされたい……」
帰国したばかりなのに。
きっと時差で感覚がおかしくなってるはずなのに。
きっと眠いのに。
わたしの、こんなどうでもいいわがまま。
本当はダメなのに。
恐る恐る。
珪くんを見上げる。
瞳を見開いてた珪くんは。
徐々にそれを細め。
静かに口を開く。
その前に。
「や、やっぱり今日はわたし家にいる! ごめんね珪く」
「なんだ……そんなこと」
彼は呆れて息をつく。
「そんなの……おまえが俺の家に来るならいくらでも予定に入ってる……じゃあ一緒に、帰るか?」
「……うん!……え?」
「抱くのもキスするのも……もちろん、それ以上のことも」
「え……」
「……おまえ今日眠れないぞ? いいのか?」
珪くんの不敵な笑み。
顔が一気に。
熱くなった。
無言で。
頷く。
珪くんが近づく。
さっきと同じくらいの。
キス。
「……俺も逢いたかった……」
合間の。
珪くんの囁き。
久しぶりの。
珪くんの匂い。
声。
体温。
たった一ヶ月なのに。
その一か月が、異常に長くて。
寂しかったけど。
でも。
今はここにいる。
珪くんを感じてる。
匂いも。
声も。
体温も。
その甘い時間を。
いとも簡単に。
わたしのお腹の音が遮った。
ふたり瞳を開けて見つめあうと。
珪くんが吹き出して。
「そうだな……飯食いに行くか。 俺も腹減った」
シフトレバーを動かし。
ゆっくり車を進める。
「……おまえが甘えるの……俺嬉しいんだ」
「え?」
「あまり言わないから、おまえ……付き合って長いし、もうそろそろ結婚するし……もっと甘えていい」
「珪くん……」
珪くんは腕を伸ばし。
わたしの頭をポンポンと叩く。
「その方が、男冥利に尽きる」
明け方。
珪くん家のベッド。
ふたりで丁度いいサイズのベッドの上。
互いに何も纏わない姿で。
珪くんを抱き締めたまま。
珪くんに抱き締められたまま。
でも寒くない。
珪くんの寝息が聞こえる。
いつもの碧の瞳は閉じられてる。
それをいいことに。
珪くんにおやすみのキスをすると。
無意識だろう。
珪くんのわたしを抱く腕に力が入る。
今日最後の、ぎゅう。
わたしも。
笑って。
珪くんにこれ以上ないくらい寄り添い。
瞳を閉じた――。
「wish」 |
20170401 |