『……おまえの名前って変わってるな』
『え? わたしの名前?』
『……“夏野”、だろ?』
『やだ、知らないかと思ってたよー』
樋渡はくすくす笑ってる。
下校の途中、俺たちはそんな会話をしていた。
『夏生まれじゃないんだけど、両親が夏の野原のように爽やかであってほしいって。
だから“夏野”』
『ああ……夏の野原の青いのは俺も好きだ』
『わたしね、この名前好きなの』
『そうか……俺もいいと思う』
『ホントっ!? わーい、嬉しい!』
そう言って嬉しそうに笑ってた。
だから俺は名付けたんだ。
おまえとそっくりだったから。
その日は俺が氷室に進路について職員室に呼び出された後の放課後。
進路希望を「未決」と書いたらしこたましぼられた。
本当にたまたまだった。
教室に戻ろうとすると、声が聞こえた。
少し開いたドアから。
ひとつは樋渡の声。
もうひとつは……。
「姫条くん、ここはね、こうしてこう……こうやって解くんだよ」
「おお、そっか。 夏野ちゃんはホンマアタマええなぁ」
「違うってば〜、昨日氷室先生に教わったんだよ」
「あのセンセは俺の事、目の敵にしとるしな……」
「あははははっ」
樋渡が楽しそうに男と話している。
「あ、ねぇ、この間ありがとう。 本当に楽しかった。 でもよかったの? わたしが行っちゃったりして……」
「あ、ええんや。 あれは俺のクラスのヤツが行けなくなってな、それで譲ってもらった映画のチケットや」
「うん、ありがとうね」
「せやったら、また俺と……」
バンッ!
そこまで言って俺はドアを全開にし、教室へ入った。
ふたりはびっくりして俺を見る。
きっとすごい音を立てたのだろう。
勢いよく開けたドアは跳ね返って少し戻ってきた。
「葉月くん、まだ学校にいたの? 今日バイトじゃなかったっけ?」
「………………ああ」
いちゃ悪かったのか……?
俺の言い方は冷たかったかもしれない。
でも……。
でも、俺は……。
「夏野ちゃん、今日はホンマありがとさん。 もうこれでええわ、助かったわ」
「え? ああ、ゴメンネ?」
そのデカい男は教室を出て行った。
俺もすぐに席にある鞄を取り、教室を出た。
「待って、葉月くん!」
慌てて机の上にある教科書やらを自分の鞄を手早くしまい、俺の後を樋渡はついてきた。
……ついてくるなよ……。
俺は苛立っていた。
厳密に言うと、また。
この間のバレンタインの時から俺は。
苛立つ事が多くなった。
それは周りにいる男だけだと思ってた。
用もなく樋渡に声をかけたりして。
最近では違う。
樋渡自身にも苛立つ事を覚えた。
用もないのに話しかける男に笑顔で応えるから。
俺にだけだとは思わなかったけど。
樋渡のあんな姿を見たくなかったのかもしれない。
他の男と楽しいところなんか……。
ましてや二人きりなんて……。
自分でも分からなかった。
知らなかった。
こんな感情。
「ねぇ、葉月くん……何か怒ってるの?」
「………………別に」
「あ、あのね……その、今度の日曜日……空いてる?」
「………………どうして?」
「森林公園にでも行かないかなと思って……」
俺はひとつ息をつく。
「おまえ……あいつ、いいのか?」
「え?」
「あのデカい男……何か約束してるんじゃ……」
「え? え? 姫条くん? なんにもしてないよ? この間ね映画に連れて行ってもらったの。
最初断ったんだけど、一緒に行く人がいないからどうしてもって。 姫条くん、ホントにあの映画が好きみたい」
俺のイライラが増す。
理由は分からない。
でも分かってるのはその姫条とかいうその男が樋渡の事が好きだという事。
それだけは分かった。
分かったら俺は……俺は、何だ?
どうしてこんなにも苛立つんだ。
「葉月くん……?」
「……ああ、わかった……予定しとく」
「本当? じゃ、楽しみにしてるね」
結局俺は断りきれなくて了承した。
断りきれなくて……とは俺の都合のいい言い訳で。
本当は俺が行かなかったら、樋渡は誰かと行くかもしれないと。
少し……ほんの少しだけ不安になったから。
あいつが男にも女にも人気があるのは知ってる。
誰にでも懐いて。
誰にでも優しくて。
何の屈託もなく生きている。
いつでも笑顔が絶えなくて。
そこに樋渡がいるだけで。
何も心配ないんだと。
救われるような時もある。
そんなあいつだから。
そんなあいつが俺には眩しすぎた。
そんな俺にあいつがどんどん入ってくる。
俺の全てを否定しているようで。
けど俺は。
俺はつまらない人生を送ってきた。
心を開くこともなく、誰に気持ちを伝えるでなく。
だからそんな俺に染まって欲しくないんだ。
いろいろな葛藤が俺の中で起こり俺の胸を締め付ける。
いろいろな思いがかけめぐりながら日曜日を迎えた。
いつも通り待ち合わせして。
「ごめんね? 葉月くん、わたし遅くなっちゃった」
「ああ……大丈夫だ」
「今日どうしよっか? 桜が咲いてるんだよねー、見に行ってみる?」
「……そうだな」
二人で歩き始めた時、女二人の会話が俺の耳に入ってきた。
「ねぇ……ちょっと、あれ……」
「……もしかして葉月……?」
まずい。
こんなとこで騒ぎになったら。
しかも樋渡と一緒にいる時に。
「女と一緒だよ」
「かわいくないじゃーん」
今までこうして女を連れて歩くなんてしなかった俺は驚愕した。
俺と一緒にいるだけで……こんな風に言われるのだろうか?
何の罪もない、こいつが。
樋渡が悪く言われてしまうんだろうか?
なら……なら俺は。
俺は奥歯をぎりっと噛み締めながら。
「……ちょっと来い」
「え? わっ!」
俺はそいつらをまこうと樋渡の手を掴んで早足で歩く。
樋渡は気付いてなかったようだが。
周りを見渡してもうまく隠れるところもなくて。
仕方なくちょうど差し掛かった芝生の上に樋渡を押し倒した。
「ちょ……葉月くん!」
「……しっ」
「え……?」
足音が聞こえ、声がする。
「あれー? どっか行っちゃったよー」
「絶対葉月珪だったよね! ああん、見逃しちゃったー」
樋渡もようやく気付いたらしく、息を潜めている。
「仕方ないねー、よくここに来るっていうからさ、また来るよね?」
「そうだねー、あーあがっかり」
そう言って去って行ってしまった。
俺は安堵の息をつき、ほっとした。
やっぱり樋渡に迷惑をかけるわけにはいかない。
「ね、ねぇ葉月くん……もう行ったよね?」
「ああ……」
「……も、もう起きよっか?」
「……あ」
改めて俺達は目が合った。
樋渡に迷惑かけまいと咄嗟に出た行動だったけど。
平常だった心臓の鼓動が早まる気がした。
樋渡の匂いが鼻腔をかすめる。
それはとてもいい匂いだった。
俺の腕の長さしか離れてない。
初めて至近距離で見た樋渡。
ぱっちりした大きな目で俺を見ていた。
頬をほんのり紅潮させながら。
唇もぷっくりしていて。
予想通り小さい身体で。
このまま……。
………………バカ……。
何をしようとしてるんだ、俺……。
「悪い……」
俺は慌てて樋渡の上から退いた。
樋渡の顔は真っ赤だった。
俺はひどく後悔した。
「は、葉月くんってやっぱ人気があるんだねぇ」
「……そうか?」
実際そんなものに興味のない俺は今の気持ちを悟られたくなくてそっけなく答える。
「うん、すごいよ、葉月くん。 わたし感動しちゃった! 葉月くんは大変だね……いつもこんな調子なの?」
「……だからイヤなんだ……」
「……?」
「おまえも、俺の傍にいると……迷惑だろ?」
俺は樋渡を突き放そうとする。
俺の近くにいたら、おまえ絶対後悔する……。
あんな風に中傷されたら、おまえは傷つくだろ……?
おまえが気にしなくても……俺が気にする。
だから、俺は誰も近づけないようにするんだ。
だから、もういい。
俺の気持ちも……きっと一生誰に言うでもないんだろう。
自分の思いを諦めたその時。
ふと、額に温かい感触を覚える。
見れば樋渡が俺の前髪を上げて、額をさらけ出していた。
「お、おい……」
「葉月くんの額ってやっぱり形いいんだね」
びっくりする俺を他所に樋渡は続ける。
でも自然と俺は拒否しなかった。
触れられることを望んでなかったはずなのに。
「葉月くんはこうやって前髪長くして、目を見られないようにしてる。 葉月くんは話をする時相手の目を見て話す?
葉月くんも自分の目を見せようとしないでしょ」
「………………」
「わたしね、葉月くんの目、好き。 深い緑ですごく綺麗。 とても綺麗な瞳をしてるのに……葉月くんはいつもそれを隠すんだ。
葉月くんの目はいつも寂しそうだから……」
「………………」
「葉月くんはいつも構えて話すでしょう? 誰も近づけないように……わたしにも一歩おいて話してるのかな?
だからそんな事しなくてもいいように、何でも話してくれたら嬉しいな。 迷惑だなって考えたことなかったよ……って葉月くんがわたしが迷惑だって思ってるって思われてる方が悲しいよ。
わたし葉月くんと一緒にいてとても楽しいんだから」
樋渡の言葉は俺の心臓を貫いた。
今まで誰だって言わなかった事をこいつは平気で口にする。
樋渡が話し終わるまで俺はずっと樋渡を見ていた。
自分でも信じられないほど、穴があくほど樋渡を見ていた。
俺は……いいのか?
ここにいてもいいのか?
モデルの俺じゃなくて、ただ一人の人間として。
俺を……見てくれるのか?
それから何を会話したか覚えてない。
どうやって帰ったか覚えてない。
ずっと考えていたから。
ずっと樋渡の事と俺の事を考えていたから。
翌日、学校で。
樋渡が俺に挨拶する。
元気に俺の背中叩いて。
教室に入っていくと、隣のクラスの……デカいやつが樋渡に話しかけた。
「夏野ちゃん! おはようさん」
「あ、姫条くん、おはよう!」
「今日も自分えらく元気ええなぁ、なんかいい事でもあったん?」
「ううん? なんでもないよ」
「ほな、今度の日曜日俺とデートでもせえへん?」
「え……? 今度の日曜?」
姫条とかいうその男はチケット2枚をひらひらさせて。
「遊園地の優待券があるんやけどな……それがちょうど2枚で今度の日曜で切れてまうんや」
「そうだね、特別用も……きゃっ」
俺は咄嗟に樋渡の腕をつかんで背中に回していた。
「……夏野は今度の日曜、俺と過ごすんだ」
姫条はほえ?とバカ面をさらした。
「え……ええと、夏野ちゃん、それホンマなん?」
「え? あ……あの、えーと……」
「だよな?」
俺は姫条から目を逸らすことなく。
「え……あ、う、うん……ごめんね? 姫条くん」
そっか、しゃーないなーと頭を掻きながら、ほなまたなと教室を出て行った。
おまえの次はもうない……。
後ろを振り向き、樋渡に問う。
樋渡はびっくりしたように俺を見ていた。
「……いいよな?」
「本当?」
「に決まってるだろ? プラネタリウム。 10時に駅前に来いよ」
樋渡はぱあっと笑顔で答える。
「うん! わかった! 楽しみにしてるね!」
自分の席に戻り、俺は確信する。
昨日家に帰ってからもずっと考えていた。
樋渡の事。
俺は今まで自分を誤魔化しながら生きてきた。
偽って生きてきた俺が初めて思うままに生きてみたいと思った。
自分の欲のままに生きてみたいと。
初めて思った。
樋渡。
ようやく気付いた、俺。
もしかしたら、俺……。
俺……おまえが傍にいないとダメな気がする。
だからおまえが他の男に向ける笑顔を全て俺に向けて欲しい。
もう誰にも近寄らせたくない……。
俺は、おまえが……。
「葉月くーん!」
1時間目が終わって次の授業で移動だったため教科書を持って教室を出ると樋渡に呼び止められた。
「どうした?」
「あ、あのね……えーと、今朝わたしの名前……」
「おまえ、好きなんだろ? 自分の名前」
「え? あ、うん」
「……だから今度からそう呼ぶ」
「え?」
「“夏野”、ってそう呼ぶ」
そう言うと、樋渡は顔を真っ赤にしていた。
「あ、あははははっ、やっぱね、男の人に呼び捨てにされるのって……照れちゃうな」
「イヤか?」
「ううん! とっても嬉しい!」
「おまえは……?」
「え?」
「だから……おまえはどうなんだ?」
「何が?」
「……俺の事……」
「葉月くんの……?」
「俺の事いつまで“葉月くん”なんだ?」
「あ……」
樋渡は下を向いて黙ってしまった。
俺……ヘンな事言ったか?
「あ、あのね……わたしずっと葉月くんの事……その……な、名前で呼びたかったんだ……わたし、葉月くんの名前好きだし……」
俺はそんな樋渡が可愛く思えて。
「なら呼べよ」
「下の名前で? いいの?」
「当たり前だろ?」
「だって……呼んだら怒られるかなって……」
……俺はこいつの目にどうやって映ってたんだ……。
どこが怖いんだよ……。
項垂れた俺は大きな溜息をついた。
「バカ……いいんだって」
「じゃあ………………け、珪くん」
もっと前から呼びたかった名前。
樋渡なんて余所余所しい呼び方じゃなくて。
もしかしたら。
昔に戻れるように。
昔の想いを色褪せたものにしないように。
だから。
“夏野”と。
「なあ、夏野」
「なあに?」
「今日、俺と一緒に昼休み校舎裏に来いよ」
「校舎裏?」
「紹介してやる……おまえと同じ名前のヤツ」
「???」
いいから、と。
俺は樋渡と一緒に廊下を歩いていく。
樋渡に近づけた事を少し嬉しく思いながら……。
「or love」 |
20041016 |