春。
今日からはば学の生徒になったからとかじゃなくて。
何の目的もなくふらふらと。
後々考えたら……吸い寄せられたのだろうか?
彼は。
何気に来たこの教会のドアの前に立ち、その教会を仰いだ。
少し懐かしむように目を細めたのは決して太陽が眩しいからではない。
――……またいつものような日が続くのか……普通に朝起きて、普通に登校して、普通に授業に出て、普通に家に帰る……。
なんのことはない。
今までとは何ら変わりはない……これから何か変わるわけではない、と。
多少うんざりしながら、恨めしそうに潔く散る桜を眺めていた。
天気もいいし、このまま入学式サボってここで寝てしまおうかなんて考えていた。
どこか日当たりのいいとこはないかと探していた時。
少し、赤みがかかった褐色の髪をした女の子がやってきた。
こちらには気付いていない。
何かぶつぶつ独り言を言ったが、彼には聞えなかった。
その女の子の声が小さすぎた訳ではない。
彼女との距離が離れていたからではない。
普段眠そうとかさんざん言われている翡翠の瞳が大きく見開かれて、その彼女を映し出していた。
ぐっと誰かに心臓を掴まれたような。
ドクン、と。
沸き起こる、溢れ出す懐かしい感情。
ずっと忘れることが出来なかったこの感情。
自分の心の奥の何かが動き出した。
彼は何の意識もせず、彼女の方にゆっくり歩き出した。
あと、5歩……4歩……3歩という時に。
予鈴がなった。
「あ、いけない!」
彼女がふいに向きを変えて走り出すが、そこには彼女に歩み寄った彼がいたわけで。
「わっ!」
ドン!!
勢いあまって彼にぶつかってしまった。
「いたた……」
彼女は尻餅をついて、腰のあたりをさすっている。
「…………?」
彼女が彼に気付く。
彼女がわけが分らずきょとんとしていた。
葉月は思わず、彼女に手を差し伸べていた。
「ほら……」
大きな瞳がさらに大きくなって彼を見ていた。
「どうした? ……手、貸せよ」
「……は、はい」
彼女は彼の手をとり、ようやく立ち上がった。
「あの、すみません先輩、わたし慌ててたから……」
年上に見えるのはこの風貌がいけないのか、妙に落ち着いて見えるのか。
それより彼はその言葉を聞いて、傍目には決して分からぬ驚きを見せた。
それを何とか押しとどめて口にした。
「俺も、1年」
彼女は同級生だと聞いた途端、少し緊張がほぐれたようで人懐っこそうな笑顔を彼に向けた。
「あ、そうなんだ! よろしくね! わたし、樋渡夏野」
名前を聞いて彼はじっと夏野を見ていた。
その口からは何か言いたげで。
「……?」
夏野は不可思議に小首をかしげながら、彼を見ていた。
そんな夏野に見透かされないよう夏野から視線を外し、
「……急いでたんだろ? 入学式」
「あっ、そうだ!! ……あれ? でも……」
一緒に行こうとしない彼を夏野は促そうとした。
「俺は……ここで入学式」
「……?」
少し悲しく彼は笑った。
「早く行ったほうがいい」
「あ、うん。 それじゃあ、えっと……」
名前が分からず困っていると彼は名前を教えてくれた。
「葉月 珪」
「ありがとう! 葉月くん」
軽やかな足取りで彼女は体育館に向かって行った。
葉月の中でちょっとした衝撃が走った。
憶えて、なかった。
「………………」
苦い思いがした。
葉月は視線を自分の足元に落とした。
――……俺は……俺は、あれから一度も……。
淡くて小さくて成長するにつれ徐々に消え入りそうな記憶を無理に引っ張り出して生きてきた10年――。
それにすがって生きてきた自分が惨めで。
全て否定された気がして。
――……かえって良かったかもしれない……。
こんな俺に気付かないで欲しいから。
変わってしまった俺を、見ないで欲しいから……。
あの娘はいなかったんだと。
あれは遠い昔の夢だったんだと。
あれは……恋なんかじゃなかったと。
一生、誰にも言うことはない。
そう言い聞かせて再び寝床を探しながら彼は呟いた。
「……夏野……」
少し遠目になってとても懐かしそうにもう一度。
無意識のうちに。
「夏野」
まだ温もりのある自分の手をじっと見ながら、教会の入り口に寝転がり睡眠体制に入った。
彫りの深い瞼をゆっくり閉じてゆく……。
葉月はこの時、もちろん気付いてはいない。
この先の生活、人生がこの少女の存在によって大きく変化することに。
夏野は沢山の新入生に囲まれて体育館に向かって走っていた。
――綺麗な人だったな……。
太陽に照らされてきらきらした薄い琥珀色の柔らかそうな髪や、吸い込まれてしまいそうな翡翠色の瞳……。
なぜか分らないけど、懐かしい感じ……。
どこかであんな場面に遭遇したような……。
今朝あんな夢見ちゃったからかも、とそれ以上の追及はしなかったが。
――ひんやりしてて、気持ちよかった。
夏野は掴んでくれた自分の左手を見て、これからの学校生活に胸を膨らませていた。
――葉月くん、かあ……。
顔が少し赤くなっていたのは、走ってきたからという理由だけではなさそうだ。
「meet again」 |
20040315 |