「起きていて良いのか」
ぴくんとそれに反応し、顔を上げる。
どの戦場だってそうだった。
どんなに刀の音がしても。
どんなに歓声が上がっても。
どんなに断末魔が響き渡っても。
愛しい人の声だけは聞き取れた。
今もそう。
その声に。
異常なほど敏感になっている。
市を呼ぶ声が。
市にかけてくれる言葉が嬉しくて。
「長政さま……」
縁側に座る市はゆっくりと背後を振り向き。
部屋に入る、その姿を確信する。
いつでも安心できる長政さまの姿。
「今日はね、気分がいいの……」
「あまり無理をするな」
「……長政さま、優しい……」
「き、貴様のためではないっ! そ、その……貴様は……」
何故か顔を赤らめて長政さまは市から目を逸らす。
布団に掛けられてる上掛けを手に取り。
長政さまはそのまま市の座る隣に間を開け、胡坐を組んだ。
嫁いでからも、今もなお長政さまの市への態度は変わらない。
怒るし厳しいし。
だけど。
「冷やすな」
その上掛けを市に差し出した。
厳しくも随所に優しい気持ちが込められてる。
それが市には嬉しい。
「はい……」
上掛けを受け取り肩に掛ける。
湿り気のある風が僅かに吹き髪が靡くけど、それほど寒くはない。
けれど長政さまの気持ちに応えたかった。
長政さまは遥か遠くの琵琶湖を望む。
いつ見ても端正な顔立ちを横で見ていれば。
何も話さなくても。
この空気が心地いい。
市も同じように、露の乗る庭の葉の向こうを眺めた。
海と。
更にその向こうの遥か彼方に広がる暗雲を。
『長政さま……あのね、市……』
長政さまに市のことを話した時。
顔を徐々に紅くさせて、何か言いたげに口をぱくぱくさせて。
視線をあちこちに彷徨わせて。
怒ったように、市に背を向けた。
『い、いいか! き、き、貴様は今後一切、私の許可無しに城から出るな!!
分かったな!?』
大きな音を立てて、部屋を出て行ってしまった。
その姿に呆気にとられる。
――もう少し喜ぶのかなと思ったけど。
そうよね。
喜ぶ……わけはないわ。
だって。
これは市の。
市はその場で俯いた。
そんな市の心中を悟ってか。
部屋にいた女中さんは。
『長政様、たいそう喜ばれておいでですよ』
そう言ってくれた。
そう、かしら……。
だって。
長政さま、喜んでくれてない気がする。
笑って、くれなかったもの。
でもその晩。
城を上げての宴が明け方近くまで催された。
市はその状況が飲み込めなくて。
『長政様、おめでとうございます!』
『ば、馬鹿者! わ、私はただ単に、城の人間と酒を酌み交わしたかっただけだ!!
勘違いするな!! おい、市にもう一膳持って来い!』
『な、長政さま……市はもう……』
長政さまの隣に座る市は困惑した。
『何を言うか。 貴様は無理をしてでももっと食え』
笑わないけど。
長政さま、表面上は優しくないけど。
そんな気遣いが優しくて。
喜んでくれてるって、実感したの。
市は、それは嬉しくて。
それが。
悲しくて。
最近、長政さまは毎日市の顔を見に来てくれる。
それは前から変わりないことだけど。
市は今。
部屋からほとんど出ていない。
そしてお布団の中で長政さまと会話してる。
傍らに長政さまが座って。
時折、市がその手を握って。
長政さまもそれを拒むことなく。
却って力強く握ってくれるほど。
昨夜もそうだった。
酷い豪雨だった。
止まない雨に雷も鳴り始め。
市の心中を察したかのように降り続く。
広い部屋のお布団の中で丸まり。
震える市を布団越しに呼ぶ声は。
“子供か”と呆れていて。
それでいて優しい声。
小雨になるまで。
雷が遠のくまで。
傍らにいてくれて。
それが市には。
辛くて。
泣きそうになれば、お布団で顔を隠してた。
こうして縁側にいる今は、それができない。
長政さまを好きなのに。
長政さまを愛してるのに。
市はそっと近寄り、手を伸ばし。
いつものように長政さまの手の甲に触れる。
大きくて温かい。
優しいその手に。
「どうした?」
この手はいつだって市を護ってくれる。
涙を流せば拭ってくれて。
そのまま髪を撫でてくれる。
この手を失くしそうで。
離して欲しくなくて。
不安で。
不安で。
「顔が白いぞ、具合が悪いのか? だから寝ていろと言っただろう」
長政さまは息をつき、市を立たそうとする。
「ち、違うの……」
「何が違うのだ」
「市……怖……」
涙が流れた。
驚く長政さまから目を逸らし、顔を伏せた。
「市?」
「怖い……いや…………怖い……」
上掛けを握り、震える。
わからない。
わからないけど。
市には今まで経験したことのない出来事で。
市が。
「市が……市が市じゃなくなるみたいで……」
「……?」
市の身体を気遣ってか。
長政さまは前よりは怒鳴らなくなったけど。
その代わり。
市に触れてくれる機会が、大幅に増えた。
今も例外なく。
市の顎を持ち。
顔を自分の方へと向けさせた。
「一体どうしたのだ? 不安なのか?」
「不、安……」
「そんなものは身体に毒だ。 吐き出すなら吐き出せ」
涙で顔は見えない。
けれど、その声が。
この手が本当に市に安らぎを与えてくれるのは、紛れもない事実。
長政さまの手を市の頬に導き。
その上から市の手を重ねた。
目を閉じる。
「ごめんなさい……長政さま……」
「謝るな」
「市ね……怖いの……市の身体には市じゃないものがいて……」
市には子が宿っていた。
わかってからは悪阻が続き、めまいも酷く。
一日中床に入っていることなんてしょっちゅうで。
でも日に数度、長政さまが職務の合間を縫って寝所に来てくれていた。
「長政さまが……喜んでくれているのも、知ってる……楽しみにしてくれていることも……」
「………………」
「でもこの子は……市の子で……」
「………………」
「市の血が流れていて……織田の、血が……」
織田の血。
市が生を終えるまで付き纏う忌わしい、血。
必然的に子にもその血が。
「長政さまに捨てられてしまうかもしれないわ……織田の血が流れるこの子が禍でも齎すと思うと…………怖いの……長政さまに幻滅されたら……」
同じ血が流れる市も子も。
いずれ長政さまに捨てられる日が――。
「馬鹿を言うな」
それまで口を閉ざしてた長政さま。
市は目を開けた。
「織田の血が何だと言うのだ」
「え……」
「私がそんなものに拘ると思ったか。 織田の血を捨てると言うのならとうの昔に離縁している。
何故私が貴様と今でもこうして夫婦でいるのだ」
「長政さま……」
「それにだ」
長政さまは市の顔を覗き込む。
その顔は少し怒っていて。
でも市の涙を拭ってくれる。
温かい、手の平。
「織田の血だけなのか? それとも何か、織田の人間の子を貴様は宿してるのか?」
「ち、違う……!」
「浅井の血も流れてるのだ。 悪いが魔王と呼ばれる様な人間に育てるつもりは無い。
私が教えるのは正義のみだ」
口調は厳しいけど。
「はぁ……それで最近そんな顔をしてたのか」
「そんな……?」
「私が知らぬとでも思ったか」
市を見ててくれてる。
そんな長政さまが市は本当に。
「市の……市の身体、今までと違うけれど……市、今長政さまと一緒に寝れていないけど……市を嫌いにならない……?」
「馬鹿か」
「この子が女でも……怒らない?」
「下らん。 お前は本当に戯言ばかりだ。 何れにしても私と貴様の子だ、そんなもの関係あるか。
いい加減前を向け、母親の貴様が子に変な影響を与えるな」
市は、間違ってなかった。
本当にこの人が旦那さまでよかった。
本当にこの人を愛してよかった。
長政さまに“母親”と言われて。
長政さまは市の旦那さまで。
市は長政さまのお嫁さんで。
市たちは夫婦で。
そして、市たちの間には。
証がある。
そうね。
市も護らなきゃ。
長政さまが市を護ってくれるように。
市もこの子を護る。
何があっても。
この子だけは。
長政さまの子だけは。
絶対に。
市は再び琵琶湖を望んだ。
大きな海。
陽に当たり水面が光っている。
遥か彼方に広がっていた暗雲はすでにもう見えない。
その下では豪雨と雷鳴が続いているのだろう。
でも、大丈夫。
いずれ明ける。
いずれこんな風に蒼天が望めるから。
「……もし、この子が女の子だったら……男の子生まれるまで、市頑張るね……」
咽て咳き込む長政さまに、市は小さく声を上げて笑ってしまった。
陽も暖かい蒼天の下。
穏やかな、とある日の昼下がり。
市は、望んだ。
長政さまに教わったの。
市が希望を持ってもいいって。
それはいつまでも、この蒼天が。
このささやかな、小さな幸福が続いてほしいって――。
「彼方の暗雲」 |
20110207 |