外が騒がしい。
でもそれを経験するのは、初めてじゃない。
市はそれに構うことなく、手の中にあるそれを指でなぞる。
亀甲形に縁取られた中の花菱。
北ノ庄城に来て一年と満たない。
豊臣の兵がこの城を取り囲んでいる。
夫は。
それらを城に侵入させまいと、篭城戦にて奮戦している頃だろう。
……夫?
口角を上げ、笑う。
建前上、名目上の夫。
市の旦那さまは。
この世で、たったひとりだけだわ。
側室を置かず、市だけを見ていてくれた。
笑う事もなく、融通のきかなかった人だったけど。
優しい瞳で、市だけを見ていてくれた。
こうして敵兵に囲まれていると。
今朝から市は十年前の事しか思い浮かばなかった。
――小谷陥落の、あの時。
『市も、一緒に……!』
『駄目だと言っているであろう!! 貴様が死ぬ事など許さん!!』
両方が折れない。
織田がここを包囲して間もない。
小谷の城の一角。
敗北を喫した自軍は。
国主のあの人が果てる以外の道しかなかった。
“己の信念を貫いたつもりだったんだがな……”
そう言って遠くを見ていたあの人は。
笑っていたけど笑っていなかった。
瞳だけは悲しさを隠しきれていなかった。
最後の最後まであの人の傍にいて。
織田に戻らなかった市は。
あの人との死を望んでいたの。
あの人のいない人生なんて。
市には何の意味も持たないもの。
死なんて怖くなかったのに。
あの人のいない人生の方が。
よっぽど怖かったのに。
姉川を攻めたにいさまを恨んだわ。
盟約を破ったにいさまが悪いのに。
ここで果てるのはにいさまであるべきなのに。
なのに。
なのに。
何故、この人が果てないといけないの?
朝倉様との義を選んだこの人は間違っていないのに。
何故なの?
死を覚悟していた。
それでも。
あの人は。
市と一緒に死する事。
望んでなかったの。
『どうして……? 市のこと、嫌いなの……?』
『……馬鹿者!』
苛立ちを隠せなかったのだろう。
目を剥いて、市を怒鳴った。
『生きろ……! 何が何でも貴様は生きるんだ!!』
だって。
市を見てくれる真っ直ぐなこの瞳も。
市を呼んでくれる低めのこの声も。
市を包んでくれる安らぐこの温もりも。
この人の何もかもが、無くなってしまうの?
この人の何もかもを、市は失くしてしまうの?
『でも……でも…………市をひとりにしな』
気がつけば。
市の身体はあの人の腕に包まれていて。
『お前が死んだら……誰が私達の子の生を見届けるのだ!』
『市たちの……』
『万寿丸も江もまだ乳飲み子だ……お前を連れて行く訳には行かん』
市は涙であの人の顔がよく見えなかった。
慎みがないと怒られてもいい。
市は。
あの人の背に腕を回せば。
その着物を。
ぎゅっと掴んだ。
掴んで、泣いた。
声を上げ。
声が枯れるほど。
あの人を知らなければ。
こんな市、誰が想像できただろうか。
自分でも、知らなかった感情。
『……お前の事を想ってなかったら……私は生きろと、言わなかった』
あの人も。
息苦しくなるほど。
市を抱く腕に力を入れる。
『……市のせいで……ごめんなさい……』
『お前のせいではない』
『……市と一緒になったこと……後悔、していないの……?』
市の髪に顔を埋めたあの人は。
市の耳元で囁く。
『後悔など、ある筈がないだろう』
本当は。
そのまま離してほしくなかった。
あのまま。
連れて行ってほしかった。
妻として死にたかった。
でも母としてはそれを許されなかった。
だったら。
“いかないで”、と。
そう喉まで出かかった、言葉。
言っても、きっと止められなかった。
この時代の理。
分かってる。
だけど。
だけど。
『さぁ、支度しろ。 織田に行ったら……今度は幸せな生活を送れ』
『できるわけない……できるわけ、ない!』
『お前はまだ若いだろう。 やり直せ。 良いのだ、私に義理を感じる必要はない』
『嫌……! 市の旦那さまはたったひとりだけなの……!』
『市……それ以上言うのはよせ。 余計な事を言いかねない』
あの人は市の身体を離し。
その代わり。
その日まで毎夜貰っていた。
荒々しくて少し不器用だけど。
優しくて温かみのある口づけ。
その時も。
最後の最後まで、同じ。
何度も角度を変え、噛む様に。
市の吐息も声も。
あの人の口内に吸い込まれた。
唇を合わせる中。
あの人は。
周りに誰がいてもきっと聞こえないであろうほどの声で。
市に囁いた。
あの人の、本心。
連れて行きたいこと。
でもそれは今時期ではないこと。
転嫁を薦めるのは心の底からと言えば、嘘になること。
でも市が幸せだと思える相手がいればそれでいいということ。
そして最後に。
“先に行く”と。
市は涙が止まらなかった。
離したくなくて、あの人の首に縋りついていたけど。
市の腕を掴むと、剥がし。
市を真っ直ぐに見てくれた。
頬を包んで、乱暴に涙を拭ってくれて。
『もう、行け』
あの人は浅井の兵の人を呼び。
市を立ち上がらせ。
自室へ行って支度をするように促した。
『さ……姫様』
市はその人に腕を掴まれる。
それでも。
白装束に身を包む、あの人から目が離せなかった。
『また……』
『……?』
『また……逢える……? 市たち、また逢える……?』
あの人は黙って市を見てた。
市も涙であの人が見えなくなるのが嫌で。
何度も目を擦る。
『ああ……その気持ちがあれば、いつかは逢えるだろう』
『市……いつでも想ってるよ……?』
『…………市』
『市、いつでも……想ってる』
襖を開けられ。
部屋から出る所で。
告白した。
婚姻して六年。
なかなか言えなくて、胸の奥にしまい込んでいた言葉。
あの人が愛しくて。
ずっと言いたくて。
ずっと言えなかった、言葉。
ようやく、言えた。
引きずられるようにして出た部屋。
市の嗚咽は。
その部屋から離れるに従い。
大きくなっていく。
市は知らなかった。
その部屋に残されたあの人は。
唇を噛み、拳を握り。
声には出さず。
市の名を呼び。
市に謝罪の言葉と。
市の最後の言葉を。
同じように、口にしたこと。
市は自分の部屋で、子供たちを抱き締め。
母親としてだめだと分かっていながら。
大声を出し、泣いた。
後にも先にも。
それが最初で最後だった。
泣き続ける中で聞いた。
それから、間もなくの。
愛しい人の。
自刃――。
それ以降は。
抜け殻の様になった。
人形の様になった。
嫁ぐ前と変わらなかった。
織田に帰っても。
にいさまの命に従うだけ。
にいさまの命で戦場に出陣しても。
何の感情も沸く事は、なかった。
ああ。
何もかもを奪った。
にいさまへの恨みだけは、残ったわ。
にいさまを恨み。
自分を呪い。
世界の全てが憎くて仕方なかった。
だけど、そんな市にも。
その合間に人間らしい一面を取り戻すことができた。
だめになりそうな自分を、壊れてしまいそうになる自分を思い止まらせてくれる、存在。
戦終わりに城に戻れば。
城を空けている間には任せている乳母の所へ真っ先に行き。
その腕から子供を剥ぎ取れば。
子供全員を市の部屋に連れ手元に置き。
ぎゅっとみんなを抱き締めた。
唯一の。
市の安らぎ。
市が笑える場所。
夢も希望も市にくれた。
あの人の忘れ形見。
あの人はすごかった。
何も持たない市に、何もかもを与えてくれ。
こんな市にも、幸せだと思える感情をもくれた。
以前にも。
市が出産直後で戦に出られない時。
戦からの帰りを城で待っていた時。
あの人が馬をすごく飛ばして帰ってきてくれたことがあった。
『姫様、殿は姫様に早くお会いしたく、勝鬨も漫ろに帰って来たのですよ』
『ち、違う! 私は万福丸に会いに来たのだ!! し、将来この城を担う男なのだ、何かあっては困るだろう!!』
それを聞いて。
ほんの少しだけ落胆した覚えがある。
けれど。
隣で市の腕で抱かれ眠る我が子を覗き込むあの人の目は優しくて。
市も思わず笑みが零れた。
そして。
誰にも気づかれないように。
そっと、市の腰を抱いてくれた。
吃驚した市はあの人を見るけど。
あの人は怒ったように頬を赤くして市と目を合わせようとしなかった。
でも。
帯越しに感じるその手は温かくて――。
そんなさり気ない優しさが、大好きだったの。
江が泣き喚き、はっとした。
市も慌てて鎧を外し。
母乳を与える。
泣き止み乳を飲む我が子の姿。
たまに見えるあの人の面影。
目元が似ている。
傍らにいる茶々も、初も。
あの人に似ている。
今ここにいない万福丸も万寿丸も。
みんなみんな。
あの人の子供。
一緒に育てたかった。
あの人にも、日々成長するこの子たちの姿を。
見せてあげたかった。
江がふいに。
市の胸元の家紋に手を伸ばした。
家紋。
市は織田に来ても。
戦に出ても。
この家紋を外すことはなかった。
織田の人間じゃないもの。
市は今でも。
私はあの人と離縁はしていない。
ただ今は道を違えただけ。
また、交じり合うの。
そう。
この子たちに流れる血は。
絶えてはいない。
あの人も。
市やこの子たちの中で生きてるもの――。
だからね。
この子たちに、大きくなってもいつもあの人の話を聞かせてあげてた。
自分の信念をしっかりと持ち、立派な人だった、と。
尊敬できる人だった、と。
母がとても愛した人だった、と。
そうして。
愛娘たちを、今日まで育ててきた。
「市。 もうこの城もそろそろ落城だ」
世間一般では夫、と呼ばれるのだろうその人。
天守閣にいた市に話しかける。
市、と。
呼ばないでほしい。
そう呼んでいいのは。
そう呼ばれたいのは。
ただ、ひとりだけなのに。
子供たちの手が離れる頃だった。
にいさまが死んだのは。
にいさまが死んで自由になった市。
これで。
あの人と子供たちのことだけ考えて暮らせる。
安堵したわ。
嬉しかったの。
誰にも嫁ぐ気なんてなかった。
市からあの人が忘れ去られることなんてなかったもの。
毎年、あの人の供養もした。
婚姻話が来ても頑なに拒んでた。
けれど死んだにいさまの後の政権争い。
秀吉様は。
市の大嫌いな人だった。
奪ったの。
あの人の城を解体して自分の城を建て。
あの人のお母様も。
あの人と市の大事な子供も。
その手にかけたの。
だから恨んだ。
死んでほしかった。
にいさまと同じ地獄に行ってほしかった。
市は秀吉様に一矢報いるためだけの婚姻。
天下を狙う秀吉様に対抗するだけの。
織田政権のためだけに織田派の人間と婚姻をしたの。
勿論。
市の意思ではなかった。
仕方なく、の婚姻。
それでも。
市を想って今まで誰も娶ってなかったという、今の夫。
想っては、くれた。
愛の言葉もたくさんくれた。
だけど。
市はそれには応えなかった。
心も身体も求めるけど。
心も身体も拒み続けた。
市が欲しかったのはそんな優しさじゃない。
市が欲しかったのは、あの人がくれたものだけ。
市の心も身体も。
あの人のもの。
今の市は、それで成り立っている。
そう言い放ったこともあった。
一度目も二度目も市の意思ではない、同じ形の婚姻なのに。
不思議ね。
あの人は愛せたのに。
どうしても。
この人を愛せなかった。
「そなたは娘を連れ、生き長らえよ」
天守閣から外の様子を見る。
あの時と、同じ状況。
市はここへ嫁いでから、戦には出ていない。
護るべきは我が子だけ。
それは城にいてもできるから。
先ほど子供たちを呼び。
市からの言葉を告げた。
ひとりずつ髪と頬を撫でてやり。
ひとりずつ抱き締めて。
「ごめんなさい……柴田様」
未だ市は。
夫を下の名前で呼ばない。
「市は……十年前に死するべき女だった…………でも、それをあの人が制したの……」
「市……」
「妻である前に、母として……生きろと言ったわ……」
手の中には市が自分の鎧につけていたもの。
目を閉じて。
あの人の姿を思い浮かべる。
「そして……今日、逢う約束したの……」
市の眼の裏で。
白銀の甲冑に身を包んで。
多少茶の混じる黒い髪が靡いていた。
「市はずっと……この十年間…………片時も忘れた事なんて、なかった……」
名前を呼ぶ声も。
怒鳴る声も。
照れていたのか、顔を真っ赤にして小さく呟く声も。
「市は…………市はあなたの妻としてではなく、あの人の妻として……果てたい……」
何度も市を説得する夫。
だけど、市は決して城を出ると言わなかった。
最後諦めた柴田様が。
そうか、と。
項垂れてその場を離れる背を。
柴田様が部屋を出るまで市は見ることをしなかった。
そう。
ずっとずっと忘れなかったよ。
また逢える日を市は。
ずっとずっと心待ちにしていたんだもの。
ひとりだった子育て。
あの人を亡くして、無理だと思っていた。
でも、頑張ったよ。
あの子たちは、もう大丈夫。
浅井の血を守れと、言った。
だから。
市の役目も、ここまで。
きっと怒るかもしれない。
“何故来た”って。
でもね。
「長政さま……」
愛しい人の名を、呼んだ。
返事はない。
今のあの人は叱りもせず、優しくしてくれる。
でも。
市、だめな女だから。
叱ってもらわないとだめなの。
長政さまじゃないと、だめなの。
叱られても、いいの。
市には子供たちがいた。
だけど長政さま、ひとりぼっちだったもの。
寂しかったはず。
だから。
市がそっちへ行って子供たちの話を聞かせてあげるの。
江が自分の名前を書けた時の話。
初が折り紙で綺麗に鶴を折ることができた時の話。
茶々が浅井の姫らしく、見る見るうちに女らしくなってきて。
自分にも長政さまにも顔立ちが似てきたこと。
話したいこと。
たくさん。
たくさんあるの。
懐から。
一本の懐刀を出す。
昨日、きちんと研いだそれは。
綺麗に、陽に輝いた。
「長政さま……市は……今でも」
それを。
自分の腹に。
差し込めば。
血が激しく。
畳に飛び散る。
長政さまが味わった、この感触。
何故、かしら。
痛くはなかった。
苦しくもなかった。
力を入れ、柄を離さず。
もっと。
もっと奥へと突き刺すばかりだった――。
ようやく。
織田の血から離れられる。
ようやく。
長政さまの元に行ける。
血に濡れる手の中には。
市が自分の鎧につけていたもの。
浅井の、三盛亀甲。
織田でも柴田でも、決して手離さなかった。
横たわる市の視界には。
血に濡れた手に掴んでいたそれ。
「な……が、ま……さ…………ま……」
市の最期も。
涙でよく、見えない。
長政さまの妻として。
長政さまの女としての最期。
許してね。
でも市はこの死が。
嬉しくてたまらないの。
「あ……い…………て、る……」
長政さまに伝えた最後の言葉。
上手く言葉にできた……?
自分の言葉でも、もうよく聞き取れない。
でも、市。
笑ったの。
もうじき、逢えるから。
その時にもう一度。
この言葉を長政さまに伝えるの。
市の想いは、あれから十年経っても。
色褪せてはいないこと。
そして。
逢えたら。
怒って。
溜息をついて。
その後に。
ちょっとだけ年を取ってしまったけど。
呆れないで。
名を呼んで。
強く。
二度と離れないように、二度と離さないように。
強く、抱き締めてくれる――?
「十年後の逢瀬」 |
20080508 |