軋む音をなるべく立てない様。
静かに階上へ上がる。
ここからでも聞こえる外のお祭り騒ぎ。
もしかしたら目覚めてしまったかな。
部屋をそっと覗くと。
欄干に手を添え。
長い黒髪を風に靡かせながら。
城下を見ていた。
「お市殿、起きていたのか」
ひとつ息をつき。
お市殿の隣へと立つ。
関が原の一件。
全てを終え。
三成を倒した傍で崩れる様に横になったお市殿をこの城に連れてきて丸一日。
お市殿は眠り通しだった。
「光色さん……みんな何をしているの……?」
「あ、いや。 日の本を統一できたその祝いかな。
もう戦乱もない、安心して暮らせる世になったんだ」
「にいさまは……いないのね……」
「あ、ここは徳川だからね……」
「そう……どうだっていいわ……」
その黒髪に覆われる顔を覗く。
頬は濡れていて。
「お市殿……泣いていたのか?」
「………………」
「疲れているんじゃないのか? もう少し眠った方が……」
「夢を見るの…………いつも同じ夢……」
遥か遠くを見る。
「……対岸が見えない……」
「え?」
「あれは……海?」
「ああ、そうだね。 あれは海だ」
「夢に……対岸のある海が出てくるわ…………その浜にいるの」
対岸のある海。
それは。
「市は戦姿じゃない……着物を着ているのよ……」
戦場ではない。
それは。
きっとお市殿の中で。
一番。
「……海は陽が当たって綺麗なの……眩しくて…………市の手の中には、何かがあって……温かくて、大きくて……」
一番好きな場所で。
一番穏やかで。
忘れられない記憶なのだろう。
以前のお市殿にとっては。
「いつも同じ夢…………懐かしくて……でも、はっきりと思い出せない……思い出さなきゃいけないのに……きっと、大事なことなのに……」
「お市殿……」
「隣にいるのは……そこには、にいさまも濃姫さまも、蘭丸もいない…………尾張じゃない……一体、どこなのかしら……」
また風に僅かに靡いて、お市殿のその横顔が垣間見れた。
幾年月も経つのに、あの頃からその風貌は変わりない。
居城を背に、城主の後ろで健気に戦に出向いていたその姿。
いろいろと融通の利かない人物ではあった。
お市殿には特に厳しくて。
いつも泣いてたっけ。
それでも。
お市殿の前から退く事はなく。
いつだってその盾になっていた。
お市殿も。
その後ろから離れなかった。
何故だろう。
信長公も濃姫殿も蘭丸も忘れてはいないのに。
何故。
「お市殿……お市殿は恋をしたことがあるか?」
「……恋?」
何だか慶次みたいな質問になってしまったな。
「光色さんは……? 恋をしたことがあるの……?」
「ワシ? ははは。 いや、ワシはまだ意中の人を見つけられない」
「そう…………そうね……市は、恋なんてしてないわ……今は」
「今は?」
「そう……今は……誰も市の中に入り込んでこないもの……」
――思い出さない方がいいのかもしれない。
思い出したら。
もうこの世にいないと分かったら。
きっと。
また壊れる。
繰り返す。
今の姿ですら。
とても、見てはいられない。
でも。
「市……行くわ」
「お市殿?」
「市の居場所は……きっとここじゃない…………探すの、あのきらきらした場所……」
ありがとうと。
ひとつ言葉を添えると。
涙を拭う事もなく、お市殿はふらふらしながら部屋を出ようとする。
「お市殿!」
その手を掴んで。
その身体を片腕の中に。
お市殿は抵抗しなかった。
お市殿に好意があるとかそういう事ではない。
ただ。
お市殿はこの先もきっとひとり。
たったひとり。
彷徨い続ける生活。
不憫で。
見過ごせない思いからなのか。
いや。
お市殿はひとりではないと。
気づいて欲しかったんだ。
傍にいるのは、味方でいるのは。
ワシだろうが生き残った織田の人間だろうが。
そして――。
「ワシは知ってたよ。 お市殿は……恋をしてた。
いや、今でも」
「………………」
「泣くんじゃないと、昔言われたのだろう?」
思い出したら。
もうこの世にいないと分かったら。
きっと。
また壊れる。
繰り返す。
でも。
やはり思い出して欲しかったのかもしれない。
戦乱の世でも。
お市殿もこうして温もりを貰っていた事。
泣くなと叱咤されていた事。
だから。
壊れても、繰り返しても。
思い出して。
縋って。
想っていれば。
ひとりではないと気づいてくれれば。
ワシでも誰でも、他に代わりになれる事などない。
そんな貴方もきっと、本望ではないのか。
「何かあったら、ワシの所に来るんだ。 いくら平和になってもどこかの残党がいるだろうし。
ワシが面倒を見よう」
「ふふ、光色さん……温かいのね……」
ワシは身を離してお市殿を見下ろした。
お市殿は笑って。
胸を押し返す。
「ありがとう……さようなら」
背を向け。
部屋を出る。
見えているか?
聞こえているか?
――詫びを入れよう。
貴方のものに触れた事。
お市殿は。
どんなに壊れても。
どんなに全てを忘れようとも。
貴方以外を愛す事は、ない。
二人には、未だ壊れえぬ絆があると。
確信したよ。
お市殿も心の奥底で貴方を愛してる。
貴方も。
今なお、お市殿を愛しているだろう。
凄いな、尊敬に値する。
きっとお市殿が思い出せないのは。
一番の拠り所であっただろう貴方が、この世から消えた事。
お市殿にとっては。
最も受け入れ難い事実であって。
最も過酷な現実であって。
光なのはワシじゃない。
分かっているだろう?
血も肉もなくなった今。
貴方は何処にいる?
ワシからの願いだ。
誰にも出来ぬ事。
血も肉もないのなら。
彼女の光となって。
糧となって。
最後まで。
照らしてやってはくれぬだろうか。
包んでやってはくれぬだろうか。
導いて、そこから。
護ってやってはもらえぬだろうか――。
「代われぬ光」 |
20110831 |