血の匂いが鼻腔を擽る。
数え切れぬ屍の間を縫う様に。
最早人気の無い城を後にした。
陰鬱とした空気がようやく薄らぎ始める、安土城の外。
もう、二度と。
ここへ来る気など、無い。
待たせていた馬の手綱を傍の木の枝から外し。
ゆっくりと振り返り、見る。
距離を置いて私の後をついてきた。
俯いている、市。
「早く来い」
「……は……はい……」
私の傍らまで寄れば、市の腰に手を添える。
「………………」
「…………? ……長政さま……?」
今、思えば。
市に触れたのが、今。
初めてだった気がする。
婚姻式もあの不躾極まりない今川のせいで混乱に陥った。
日の浅いうちにあの不届き至極な南蛮人から変な勧誘があった。
そして。
小谷へ帰れば。
織田の急襲。
敗北し、市と別れ彷徨って辿り着くのは極寒の地。
ゆっくりと。
二人きりになる事なんて、無かった。
「……いや、何でもない」
両腕で市のいやに細い腰を担ぎ、そのまま馬に乗せた。
私も市の背後に乗ろうと鐙に足をかけ、馬に跨る。
市が馬から落ちぬ様背に腕を回し、その手に持つ手綱を静かに引くと。
馬はゆっくりと歩行を始めた。
「長政さま……怪我……」
私の腕や胴体には赤い鮮血が滲み出ている。
相手はあの魔王だったのだ。
無傷で帰れるとは思ってはいなかった。
市もそれらを見たのか。
眉間に皺を寄せ、今にも泣きそうな顔。
「私は平気だ。 気にするな」
「ごめんなさい…………市、どうしたら……」
「お前が気に病む事ではない」
「市のせい……これも……」
「貴様のせいではない! 私が自分で決断した事だ」
私は思わず声を上げれば、市がぎゅっと目を瞑る。
溜息をついた。
もう、覚えてはいないが。
あの姉川からどれだけの日が経ったであろうか。
後ろ向きな性格は。
暫く逢わずとも、相変わらずか。
蹄の音だけが辺りに響く。
夕刻。
陽もだいぶ傾き始め。
気付かれぬ様、たまに市の顔をそっと伺えば。
私の胸の中でその陽に背を向けて一点だけをじっと見つめてる。
手に持つ、白い百合を。
あの村で手に入れ、市に渡した。
あの、百合と。
「市……お前、まだそれを持っていたのか」
「だって……捨てられなかったの……」
すっかり枯れきった。
もうひとつの百合。
それも私が市に手渡したもの。
あの胡散臭い南蛮人の城で。
もうだいぶ前の、話――。
「長政さまがくれたんだもの……捨てられないよ…………市、ずっと……ずっと大事にするの」
「か、勝手にしろ」
私は即座に市から視線を外し。
声を上げる。
思ってもない返事に思わずの事。
「ここ……すごい花畑……」
市に言われて、辺りを見回す。
見れば一面の花畑。
夕陽に照らされ、色とりどりの花が咲き競う様に。
「綺麗…………でも……」
「………………?」
「市……やっぱり、これがいい……」
そう言うと、市は再びその二本の百合を。
胸元に導き、ぎゅっと握った。
――悪い気はしなかった。
自分が市に与えたものを。
こうして大事にしてくれている。
たったそれだけで、心に平穏を感じる。
不思議なものだ。
小谷への道を歩く。
山は既に見えてはいるが。
この調子で行けば、城に着くのは夜か。
それでも良い。
暫くはこの時をじっくりと味わうのも良い。
何もかもを終え。
全てを取り戻した、この時。
「長政さま……ありがとう」
「何だ? いきなり」
「嬉しかったの……長政さま、来てくれて……だけど」
「……?」
市の顔が沈んでいるのに気がつく。
「どうした」
「市……小谷へ、戻っていいの……?」
「今更何を言ってる。 駄目ならばお前を馬に乗せていない」
「でも……」
何が言いたいのだ。
馬を止める。
「……尾張に戻るか?」
「………………」
「それならば……それで……」
「お市様」
二人で顔を上げ、前方を見れば。
傷を負った武将が肩を押さえていた。
息も絶え絶えな男。
私達を直視している。
「柴田……」
小谷で負った傷。
私が負わせたもの。
浅井の兵が捕獲していた筈だが。
上手い具合に逃げてきたのか。
「お市様……織田にお戻り下さいませ。 皆一同、お市様のお帰りをお待ちしておりまする!」
「………………」
市は。
柴田から目を離さない。
「これは仕組まれただけの婚姻でございました! 小谷へ戻る事もないのです!
ですからお市様……俺は……俺は貴女を!!」
「………………」
「市……」
「あなた……前にも市に言ってくれたわ……市のこと、好きだって……」
「お市様……俺はあの時から気持ちは変わってはいない!
その若造よりも、お市様を想う気持ちは……!!」
「……あなたと一緒になったら……市に、何を与えてくれるの……?」
吃驚して市を見た。
市は、相変わらず柴田から視線を外さない。
市の腰を抱く腕の力を緩めた。
返答いかんによっては。
市は織田に戻るかもしれんと。
柴田の元に。
行くかもしれんと――。
それならば。
それでも、良い。
元々、仕組まれた婚姻だ。
市を小谷へ連れて行く事、勝手に私が促したが。
市が小谷へ行きたい気持ちなど。
無くてもおかしくはない。
私を想う気持ちなど。
無くてもおかしくは。
ない。
「城は……国はどうだ!? 一生贅沢をさせよう、貧しい思いなどさせん!
だから……」
途端。
市は私の胸に顔を埋め。
目を閉じた。
「帰って……もう、会いたくない……」
「市……?」
それ以上柴田が何を言っても。
耳を貸さず。
市が私の手に己の手を重ねれば、手ごと手綱を引き。
馬を歩かせた。
「市……構わんのか?」
「………………」
その時には気付かなかった。
柴田が抜刀していた事。
歯を噛み、憎しみの形相で。
私達に斬りかかって来た。
「……死、ねえええーっ!!」
振り返ると同時に。
柴田の切っ先が真後ろを向いて、今まさに振り被ろうとされた時。
私が腰の刀を抜こうと市を開放した時。
市が馬から咄嗟に降り。
手にした薙刀で。
柴田の頭上から。
それを振り下ろした。
柴田に額から顎まで赤い筋が走ったかと思った次の瞬間。
それから真っ赤な血が吹き出て。
鎧も脆いほどに粉々になる。
声は、上げなかった。
そして。
片膝をつく市の。
黒髪が。
緩やかに、靡き。
ゆっくりと。
腰に落ち着く。
血の海に浮かぶ柴田はその場に伏したまま。
動かない。
「邪魔、しないで……」
「………………」
「あなたの不幸は、市のせいなの……だから、恨むなら……市を恨んでね……」
私も馬から降り。
市の、その背に立つ。
「市……ここまでしなくとも良い。 奴はお前を想っていた」
「………………」
「織田に仕えていた男だ。 一生の贅沢を約束できただろう」
「………………」
「幸せに……なれたかもしれなかったのだぞ」
「……何故そんなこと……市は織田に帰った方が、いいの……?」
「何?」
「……長政さまは……市のこと、嫌いなの……?」
立ち上がった市は、私に振り向く事はしなかった。
その場に佇んで、俯いて。
「長政さまを騙していたんだもの……嫌われても仕方ない……」
「………………」
「だったら……市…………帰る……尾張へ、帰る……」
もう一度“ありがとう”を一言。
私に告げると。
柴田の身体の脇を通り。
薙刀を抱え、ゆっくりと歩み出した。
その丸まった小さな背が。
一層小さく見えて。
僅かに息をついた私は。
離れる市の二の腕を。
取った。
市の肩が、揺れる。
「……お前の事を何とも思っていなかったのなら、私は安土へ行く事は無かった」
「………………」
「兄者に敗北したまま、私は落ちぶれた兵になっていた」
兜を脱ぎ捨て、汗で肌に張り付いた髪をかき上げた。
微かに吹く風が心地良い。
「何もかもを取り戻したかったのだ。 失った近江も、城も、兵も…………お前も」
市が、ようやく私を見上げた。
目には、今にも溢れそうなほど。
涙を溜めて。
「だが、私はお前に貧しい思いをさせるかもしれんぞ?
辛い思いをさせるかもしれん」
「………………」
「幸せになれんかも、しれん」
「……市は、そんなの望んでない、何もいらない……城も国も……天下も欲しくない」
「…………市」
ひとつ瞬きをすれば。
簡単に涙が零れ落ちた。
「……市は、城より国より……長政さまがくれた、たった一輪の花の方が嬉しいの……」
「市……」
「長政さまと……一緒にいたいだけなの……」
顔を歪め、即座に俯く。
「だけど、市…………長政さまを、手にかけようとした……」
「………………」
「城の人たちも…………市の事、嫌いだよね……だから、きっと……小谷に戻っても……」
徐々に消え入りそうな声。
市の不安な心中の意味がようやく分かった。
「小谷へ戻っても……私はこの先、お前に警戒する事など無い」
「え……」
市の顔が上がる。
「首が欲しければ、いつでも取れ」
私を見上げ。
涙の筋を増やし。
声を震わせた。
「……長政さま……どうして…………どうして、そんなことを言うの……?」
「市……」
「市……長政さまの傍にずっといたいのに……」
顔を覆い。
しゃくり上げながら。
市の涙。
姉川以来。
あの時とは状況が違うが。
「もう良い。 分かった」
「う……っ……ごめんなさい……」
「泣き止め」
市は泣くのを止めない。
その後、何度も何度も“泣くな”と言ったが。
謝るだけで市の涙は止まらない。
狼狽えた私は。
どうしたら市が泣き止むのか。
その術を知らなかった。
「泣くなと言っているだろう!」
思わず怒鳴ってしまう。
そんなもの、逆効果だと分かっているのに。
肩を震わせ泣く市に。
咄嗟に出た行動は。
掴んでいた腕を引き寄せ。
市の腰を抱き寄せた事だった。
――市の嗚咽が、止んだ。
その華奢な身体に。
自分でも戸惑いが隠せなかった。
自分の背丈以上もある薙刀を振るう。
それは決して軽くはない。
あの細腕で、など。
戦場での功績など期待はしていなかったが。
ほんの僅かだが感心した覚えがある。
だが実際は。
自分が思っていたよりも細身で。
肩も背も小さく。
腕も腰も細く。
やはり女なんだ、と。
改めて気付かされた。
市がゆっくりを頭を上げる。
眉を八の字に下げて。
それに手を添えれば、私は幾らか強引気味ではあったが。
親指で涙を拭った。
初めて間近で見る市。
長く濃い睫毛に縁取られる大きな瞳は、多少の茶味すら交えていない漆黒の色。
その黒さは絡みを知らぬのではないかと思われほど艶やかな長い髪に劣らぬ。
真冬の銀世界のような、真白い肌。
その中に薄く浮かび上がる淡紅の唇。
私には持っていないそれらが、しっかりと整えられている。
掌で感じるその弾力のある頬。
涙の跡を残す、その顔を一撫ですると。
近づき。
目を閉じてその唇に。
自身のを宛がった。
一瞬触れたそれ。
僅かに離れれば。
更に大きく見開いた市の真っ黒い瞳が私を捉えていて。
「泣くな」
もう一度胸に市の顔を押し付ける。
もう少ししっかりと考えれば他の手立てがあったかもしれなかったが。
それしか思い浮かばなかった。
「……織田に帰るな」
「…………え」
「お前が小谷の連中から嫌われても、私はお前から離れん……だから、お前も私から離れるな」
腕の中で市が胸に抱く百合。
それが強く握られながら、私の胸に添えられる。
静かな笑みを零し。
目を閉じ。
「…………はい」
小さく返事をした。
初めてその笑顔を見る。
それは、どの花も開く様。
頑なに閉じている蕾でも。
いとも簡単に花開く様な。
そう。
あの百合の花を渡した時も。
微笑んでいた。
微笑んでいて。
泣いていて。
あの時と同じで。
私はそれが直視出来なかった。
あの時も。
そして今も。
何故、だろうな。
ようやく見れたそれに。
もっと見たいと思うのに。
必要以上に。
心が落ち着かなくなる。
身体を僅かに離し。
市の持つ薙刀に手を添えた。
取り上げれば、市は私を見上げる。
「もう、武器を持たなくて良い」
「……で、でも、市……長政さまを護りたい……」
「今は戦ではない。 人を殺めずとも良い……私の役目だ」
「はい……」
「それに今度は……お前が救ったこの命」
「………………?」
市の薙刀と落ちた兜を馬に括り。
今度は市を抱き抱える。
「あ……」
馬の背に座らせ、すぐさまその後ろに私も乗り込む。
今度は市が簡単に馬から降りられない様に。
背を抱き、市の両脚の膝裏に手を滑り込ませ。
胸に、抱いた。
「今度は、お前に使わせろ」
小さく呟いた。
聞こえるか聞こえないか。
だが市に届いたのか。
市は私の胸に顔を埋めて、“はい”と同じく小さく呟く。
勿論。
貧しい思いも辛い思いもさせるつもりなど無い。
不幸にするつもりも。
微塵も無い。
お前を護るため。
今後も精進するのみだ。
戦があるまでは。
緩やかに、穏やかに。
お前と共にゆっくりと。
束の間かもしれぬ平穏を味わいたいと、思う――。
小谷へ着く頃にはすっかり陽は落ちて。
ひっそりとする門の前に立つ。
人の気配は、無い。
それはそうだろう。
いくら兄者の命とは言え、市の心情を知らぬ者ばかりだ。
市を裏切り者でしか見ない者も少なくはないだろう。
「誰も……いない……?」
「……かもしれんな」
「だからみんな……やっぱり……市の」
「貴様のせいではないと言ってる! 私ひとりでも良い」
「長政さま……」
私ひとりでも、お前の傍に居る。
言わせるな、こんな事。
当たり前の事を。
改めて言う気など、無い。
それでも不安なのだろう。
市が見下ろす私の手をしかと握って。
私はその門を開けた。
門を潜れば、私達の心配とは裏腹に。
浅井の兵が一斉に声を上げた。
城に灯が灯され。
櫓や城に居る者はこれでもかと紙吹雪を撒き散らす。
私と市は目を見合わせた。
市も珍しくひどく驚いた様で、絶句していた。
祝福と歓喜。
城の連中が私と市の手を引いたり背を押したりして。
城の中へと導く。
ようやく事情が飲み込めた私が、取り巻く連中を叱っても。
誰も聞く耳を持たず。
これが本当の祝宴だと。
祝言の仕切り直しだと。
その晩は遅くまで、祝宴が執り行われた。
だがひとり、ふたりと消えていき。
私達に気を遣ったのか。
気付けば誰もいなくなり。
……喜んでいいものかどうかは分からなかったが。
市と二人きりになれたのは。
褥についたのは。
「この刻に一体どうしろと言うのだ……」
「長政さま……?」
「……何でもない」
皆が帰って床についたのは。
雀も鳴く、朝日に目を細めた。
明朝の事――。
「緩やかに穏やかに」 |
20080506 |