「お市様。 夕餉の支度ができております」
黙っていて。
市に話しかけないで。
城のみんなの。
あの、視線。
にいさまの影を追う、あの視線。
またこれを感じる日々が始まるのだと思うと。
嫌悪すら感じた初日。
それは幾日も幾月経っても払拭などできなかった。
お市様?
そんな呼び方しないで。
市が呼んで欲しいのは。
これも市への罰ね。
にいさまの罪は市の罪だもの。
また。
市の罪が積み重なる。
これが、市の運命。
そう、元の生活に戻るだけ。
市に。
夢だとか、幸せだとか。
そんな儚いもの。
ある訳がない。
窓に凭れ掛かり、見上げるは夕月。
鬱蒼とする森に囲まれ、息を吸うのも躊躇われるような濁って重苦しい空気。
この安土城に連れて来られて。
どれほどの日が経ったのだろう。
ひと月、以上なのかしら……。
薄暗い部屋の中。
市は、そっと目を閉じる。
そして思うのは。
いつも同じ事。
近江は織田の領地となった。
小谷の城も降伏し、織田に明け渡している。
そして。
城主は行方不明となっていた。
浅井と同盟を組んでいる朝倉。
その朝倉をにいさまは侵攻しようとしていたのだから。
当然、浅井も敵になる。
浅井・朝倉の力を削ぐための婚姻。
たった数日の、婚姻。
情なんか生まれる訳など、ない。
笑わない人だった。
自尊心の高い人で。
よく怒る人だった。
すぐに善と悪をきっちり分け隔て。
正義については熱い情熱を持つ人だった。
市と、正反対の人だった。
これで良かったの。
もう怒られる事もない。
熱弁をふるわれる事はない。
にいさまの思い通りになったんだもの。
これで、良かったの。
なのに。
何故、市は。
長政さまの背ばかり。
思い出すんだろう。
その背は。
戦の中で。
市の盾となってくれていた、背。
細身の身体なのに、広くて大きくて。
頼もしくて。
一度も見失った事のない背だった。
市は手の中にある生まれて初めて貰ったものを見ながら。
息をつく。
でも。
もう、駄目。
嫌われた。
長政さま、怒ってた。
すごく、怒ってた。
悲しい瞳をして。
あの瞳が、未だに忘れられなかった。
当然の事。
朝倉の侵攻のための婚姻だと。
長政さまを欺いていたんだもの。
騙していたんだもの。
いくらにいさまの命でも。
長政さまに嘘をついていた事に、変わりない。
浅井の人はとても市の事、大事にしてくれて。
優しくて。
そして。
長政さまは、あの姉川まで。
市の事、最後まで信じていてくれていた。
だから。
どうしても。
長政さまの命を取る事、できなかった。
取れる筈、なかった。
たった数日の生活だったのに。
笑わない人だったのに。
自尊心の高い人で。
よく怒る人だったのに。
情なんか生まれる訳などないのに。
市の手の中には。
先程部屋の片隅に置いてあった水の入る茶器の中から取り出したもの。
草臥れて萎れて、変色していて。
既に初めて対面した時の真っ白い綺麗な百合の花の面影は一欠片もない。
切れた茎の先から水が滴り落ち。
市の着物を濡らす。
あまりにみすぼらしいと。
織田の女中が新しい百合を持ってきて。
替えようとするのを怒った事もあった。
これじゃなきゃ。
駄目。
これじゃなきゃ駄目なの。
他の百合なんて意味がない。
温かくて優しかった。
その心が嬉しかった。
この世でたった一輪。
長政さまが市にくれた、たった一輪の百合。
「……本当に、ごめんなさい……」
市は。
萎れた花を。
きゅっと抱いて。
「逢いたい…………長政さま……逢いたい……」
涙を流した。
いつからだったんだろう。
もしかしたら、一目見た時からかもしれない。
気付かない振りをしていたのかもしれない。
駄目だって。
想ったら駄目だって。
でも。
遅かった。
そう。
もう市は――。
嫌われている事は知ってる。
でも。
もう一度。
行方知れずの長政さま。
生死すらも定かではないと聞く。
お願い。
生きていて。
そして。
もう一度だけでいいの。
許されるのなら。
長政さま。
貴方に、逢いたいの――。
突然。
城の外が騒がしくなる。
興味のない市はそのまま伏せていたけど。
法螺貝も鳴り始めた。
「敵襲ーっ! 敵襲にございますー!!」
敵襲……?
ああ、当然だわ。
にいさまには敵が多いもの。
本当は誰かににいさまを消して欲しい。
こんな市は、にいさまのせいだもの。
けど。
にいさまは。
市は目を閉じた。
ああ……。
また。
この地に。
たくさんの血が流れる――。
「近江の浅井長政単身で城に乗り込んだ模様!!」
市はぱっと目を開けた。
そして、立ち上がる。
今、何て言った?
聞き違い……?
「長政……さま?」
市は窓から顔を出した。
城下には織田の兵たちが鎧に身を包み、武器を片手に城から出る所。
長政さまを探す。
刀の音がしない。
こっちでは、ない。
市は部屋から出。
向かいの部屋の襖を開ける。
廊下で女中にぶつかりそうになるが、それにも構わず。
向かった部屋の窓を開け。
同じように顔を出し、長政さまを探す。
見れば。
前方が騒がしい。
人の塊が見え。
数人の織田の兵が悲鳴と共に蹴散らされてる。
目を凝らせば。
その真ん中には。
白銀の甲冑。
「長政さま……? まさか、嘘……」
見間違える筈がない。
いつだってあの鎧に包まれた背を見ていた。
「長政さま……! 長政さま……!!」
叫ぶけど。
そこには届かない。
長政さまの後ろには。
幾人も倒れて動かない織田の兵の屍。
「長政さま……!!」
市の目にはまた新しい涙が溢れ。
落ちては宙に消えていった。
徐々に城に近づく長政さま。
だけど城の手前の。
非道なにいさまが作った大きな建物に閉ざされ。
辺りは静かになった。
中には拷問に近い事が繰り広げられると聞く。
まさか。
長政さま……!
嫌だよ。
一目見ただけでこれが最後だなんて、嫌だよ。
お願い……!
誰でもいい。
長政さまを救って……!
市がぎゅっと目を閉じて。
手を合わせる。
互いに握った手を額につけ。
市は祈った。
長政さまを失いたくない。
まだ、市。
長政さまに何も言ってない。
ごめんなさいも。
ありがとうも。
ずっと。
ずっと長政さまと一緒にいたい、も。
暫くすると。
軋んだ音が響く。
大きな門が開けられた、音。
恐る恐る目を開ける。
ああ。
どうか。
門の真ん中には。
肩で息をする。
長政さま。
顔には返り血が飛び散っていて。
手の甲でそれを拭っていた。
「ああ……!」
相変わらず攻撃の手を止めない織田の兵を倒しながら。
長い階段を上り始める。
その後ろには。
銃口に弾丸を詰め込む銃兵。
長政さまはそれに気付かず。
「長政さま……後ろ!」
市の言葉が届いたのか。
長政さまは即座に振り向く。
銃口が長政さまを向くのと同時に。
長政さまの剣の錆となった。
一息ついた長政さまは。
城を見上げる。
「長政さま……!!」
「市!!」
長政さまが市に気付いた。
「どうして……どうして来たの……!?」
「市! お前はそこで見ていろ! 今、私の心を見せてやる!!」
「長政さま……市も行くから!」
「そこにいろと言ったろう!」
「長政さま……」
「この花に誓う! 必ずや兄者の元に辿り着く!!」
長政さまの手には。
あの、百合と同じもの。
市は口元を押さえる。
涙が止まらなかった。
だって。
相手はにいさまだよ?
たったひとりでだよ?
無茶なのに。
再び織田に襲われ。
長政さまは止まる事無く。
戦へと戻る。
「長政さま……」
霞んで。
涙で目が見えない。
だけど。
市は。
その場から離れず。
眼下の長政さまだけを。
見続けた。
長政さま。
市、ちゃんと見てる。
長政さまの気持ち。
ちゃんと届いてる。
じゃなきゃ。
市の心は。
こんなにも痛くないもの。
市は長政さまが本丸に入るのを見届けると。
自分も鎧を身に付け。
薙刀を持ち、その場へと向かう。
手には。
百合を持って。
長政さま。
あのね。
市、初めて知ったの。
誰かに捕らわれる事。
誰かに心奪われる事。
こんな感情市にくれたの。
たったひとり。
長政さまだけなんだよ。
帰りたい。
近江に帰りたい。
長政さま。
一緒に帰りたい。
市を連れてって。
そして今度は言うから。
ごめんなさいも。
ありがとうも。
ずっと。
ずっと長政さまと一緒にいたい、も――。
「剣と一花に乗せ」 |
20080219 |