目を細めた。
天守閣から眺める城下。
近江は至って平和だ。
空気は澄み。
姉川も眩しい陽を受け、燦然と輝いている。
やはり私は此処が一番だと改めて思う。
自身が生まれ育った、この近江。
一度は手離した故郷。
一時とは言え、領主の変わった故郷。
忘れ去られる記憶では無い。
それだけが口惜しい。
ぎゅ、と目を瞑った。
もう二度と。
手離すまい。
何も、かもだ。
そう私の決意が改めて固められたその時。
城内も彼方此方で笑い声が聞こえる。
「全く……」
溜息をついた。
浮き足立っている様が手に取る様。
その証拠に視線を下ろせば、城の庭の女中と庭師が楽しそうに談笑している。
弛んでると。
今の私には叱責する元気は無く。
言った所で所詮聞く耳など持たぬであろうが。
私が安土から戻って数日。
信長を討ち、市を連れ戻してから数日。
祭りのような騒ぎが未だ続いている。
安堵は、している。
生きて帰って来られたのだ。
こうして地に足をつけて。
あの戦で死んでもおかしくはなかった。
奇跡だとは思いたくない。
だが、よく帰って来られたとは思う。
悪は削除。
それは私にとって揺ぎ無いものだが。
それでもあの魔王相手に。
命を落とす事無く。
近江に戻って来た。
しかし。
「………………っ」
思わず顔を顰め。
腹を押さえる。
無事とまではいかなかったが。
多少の傷を負って。
「く……まだ塞がらんか」
それでも。
不幸中の幸いか。
これだけの傷で済んだのは。
指一本でも落とす事を考えれば。
先日まで療養してはいたが、いつまでも寝ている訳にはいかない。
職務も山積みだ。
少しずつ歩いて身体を慣らして。
明日にでも剣の稽古をしようと思ってはいたのだが。
情けないな。
雲ひとつない、快晴の午後。
もうひとつ溜息をつき。
階下を降りる。
城の廊下を歩けば、すれ違う城の者が私に辞儀をする。
本当に、平和だな。
まだどこの将が此処を襲うと言う情報は無い。
僅かかもしれんが。
今少しこの状況が続けば良いと思う。
何気無く通りかかる廊下。
ある部屋の中から女の声がする。
「まぁ、姫様可愛らしい!」
「これもどうかしら? 先日町に出たら行商がこれを売ってて」
「姫様は元が良いから、何をつけてもお似合いですもの」
姫様、という事は市もいるのか。
そうだろうな。
ここは市の部屋だ。
通り過ぎようともするが。
あまりにも中で盛り上がってる様で。
また私も今後の予定までまだ時間が空いてる事もあり。
「何をしている」
襖を開ける。
一斉に振り返る、縁側に座る女中たち。
その真ん中には。
庭を向いたまま私に向かない、市。
「あ、長政様。 見てやって下さいまし」
「で、でも……市……」
「姫様、せっかく長政様がいらっしゃったので見て頂きましょう?」
そう言っても。
市は俯くばかりでこちらを見ない。
髪が装飾されてるのだけは分かるが。
「市……恥ずかしいから……」
「市が拒んでいるが?」
「姫様は照れているだけでございます」
何だか半ば強引な気もするが。
仕方なく市に歩み寄り。
妻を見下ろした。
一瞬、心臓の鼓動が激しくなる。
漆黒の髪は高い位置で結わえてあり。
それに花も添えられ。
顔には目元と唇に薄紅が施されていて。
普段とはまた違った。
少し大人びた姿の市。
動悸。
それを悟られたくなくて。
口を真一文字にきつく結んだ。
「さ、これでお終いです」
ひとつ簪を市の髪に挿せば。
「まぁ姫様、良くお似合いですわ!」
「また行商が来られたら、姫様の元に伺いますわ」
「それでは、私達はこの辺で」
女中たちは礼をし、その部屋を後にする。
残った私達。
仕方なく、市の隣に少し距離を空けて胡坐を組んだ。
「一体どうしたのだ」
「あ、あのね……女中さんたちが市に化粧をしてくれて……」
「……それは見れば分かる」
何となく想像が出来る。
市は、きっと。
黙ったまま、じっとしてされるがままだったのだろう。
遊ばれたな。
「……女というやつは暇だな」
「ご、ごめんなさい……」
別に市が謝る所ではないのだが。
「長政さま……怪我は、どう……?」
「順調に回復している。 余計な心配はするな」
折角の気遣い。
素直になれぬ自分が少し腹立たしかった。
それにしてもいい天気だ。
そろそろ朝倉が来る頃だが。
もう暫くこの陽気に浸っていても良かろう。
「市……濃姫さまみたいね」
手鏡で自身を見ている市。
「みんな……どうしたかしら」
目を伏せて。
市の言う“みんな”とは、間違いなく眷属。
義姉と子は止めを刺さなかった。
生き長らえているはずだ。
だが浅井の兵が安土へ向かった時には行方知れずとなっていた。
兄者と共に。
あの高さから落ちたのだ。
生死すら分からん。
だが、死しているのならその死体もあるはずだが。
「私が、憎いか?」
「え……」
市が私を見た。
「お前に私に対しての憎しみがあるのは当然だ。 お前の唯一の兄に刃を向けたのだからな」
「……長政さま……」
「私はお前に憎いと思われても仕方の無い事をしたのだ」
市の目が見れずに背ける。
陽が眩しくてそれにすら目を細めた。
そうだ。
市が私に嫌悪を抱いても。
仕方の無い事なのだ。
それでも。
私は市を小谷へ連れて来た。
何故……だったのだろうな。
弁解したかったのか。
それとも。
「……嬉しかった」
暫しの沈黙を市が破った。
「市、にいさまの人形だったの……」
「…………?」
「織田では、にいさまの言いなりでしか生きられなかったの……」
市が自身の着物の裾を弄りながら。
ぼそぼそと喋る。
「にいさまはひどい人……そんなにいさまを市は止められなかった……」
「………………」
「市が悪いの……」
「…………っ」
「全部……全部、市のせいなの……」
「貴様がそんな事を思う必要は無い!!」
市の肩が大きく揺れ。
私を見た。
「全て自分の所為にするな! 前を向け!」
「な……」
どうにも、私の中での許容範囲に収まらない。
卑下も、悲観も、退廃も。
織田に生まれて、信長の妹として育った市。
その血に嘆き悲しみ、畏れている事は聞いている。
だが。
私にはそれが到底理解出来ぬものだった。
何を嘆く。
何を悲しむ。
何を畏れる事があるのだ。
兄は市ではなく、市は兄ではない。
血を分けた兄妹とて。
信長は信長。
市は市なのだ。
お前はもう。
浅井の人間で。
そして。
「――お前はもう私の妻だ。 胸を張って生きろ」
目を丸くして見ていた市は。
徐々に目を細め、眉を下げる。
私から目を背ければ髪がその顔を遮り。
程無くして鼻をすする音が聞こえる。
「泣くな」
「……小谷の人は……みんな優しいね」
「……?」
「みんなにあんな裏切るようなことしたのに……市に優しいの……化粧もしてくれたり髪も結ってくれたり……」
その肩が震え。
一層その身体が小さく見えた。
「市ね……ひとりでもよかったの……」
「市?」
「織田ではね……市、ずっとひとりだったから……慣れてるの」
“長政さまがにいさまを倒しても、その後ひとりで小谷へ帰ってくれてもよかったの”と。
市はしゃくり上げながら呟いた。
私はじっと。
市の言葉を待つ。
「でもね……長政さまが市を小谷へ連れてきてくれて……こうしてお話もできて、傍にいられて……ひとりじゃないことを知って……」
「………………」
「市……もう、ひとりでいられないかもしれない……」
その白い指は。
力を入れて着物を掴んで。
更に白くなる。
「長政さまも……市、長政さまを……」
「………………?」
「……長政さまを失ったら……市、どうなるんだろう……」
「……市?」
「怖いの……どうなっちゃうのか分からないの……」
市は膝を抱え蹲り、泣いた。
震えは治まらない。
「憎むなんて、あるわけない……にいさまの元にいるより……長政さまのいない世界の方が……」
私は手を伸ばす。
その肩に、その髪に触れようとして。
思い止まる。
ひとつ咳払いをした。
「そのような心配事は無用だ。 今後ひとりになる事も無く、ひとりにする予定も無い」
市が僅かに顔を上げる。
赤くなった目を、私に向ける。
「……本当……?」
「ああ」
市は涙を甲で拭って。
「長政さま……」
「何だ」
「……もう少し……傍に寄っても……いい?」
わざわざ了承を得る様なものでもないだろう。
呆れて息をつけば。
それを承諾する。
市がゆっくりと傍に来て。
肩が触れた。
花の香りが強くなる。
市の髪の花。
喧騒は無い。
陽の光が燦々と庭に降り注ぐ。
花は一斉に咲き乱れ。
青々とした木の枝には鳥が止まり。
その鳴く声だけがふたりを取り巻く。
他に誰もいない。
それだけ確認して。
自身の膝に乗る市の手。
その細くて長い指を持つ白い手を。
掴んだ。
瞬間、市の身体が僅かに跳ねたが。
拒む事も無く。
そして。
間を置いて、涙を流す気配。
私はそれを見なかった。
容易に想像が出来るからだ。
目を赤くして、鼻を赤くして。
「もう少しで朝倉が来る。 そ、それまでだからな」
「はい……」
「泣くなというに。 化粧が落ちる」
「ごめんなさい……でも……市、嬉しいから……」
市が頭を私の肩に預ける。
その重みが、市の重みで。
確かに感じてる。
拘る理由は無いと言うのに、市を連れて来た訳は。
今、この時を望んでいたからかもしれない。
私が此処に帰ってきた証。
生きている証。
市が、私の傍にいる証。
全てを今、実感していた。
「泣くな、折角の花も簪も台無しだ」
「…………見ていてくれたの?」
「嫌でも視界に入る」
「……長政さま、何も言わないから……似合わないかと思ってた……」
「似合わないとは言っていない」
「似合……う?」
「す、少し黙れ」
幼子の様に首を傾げて訊ねる市の手を強く握って、軽く叱咤した。
花が似合うだの似合わないだの。
口にするのは苦手だ。
似合っていないのなら、花も簪もとっくに毟り取っている。
似合っていないのなら。
この手はとっくに離してる。
何が嬉しいのか。
膝の上に置く市の手の上の、私の手を見て。
静かに微笑んだ。
人の思考や性質など簡単に覆せるものではない。
だが。
市。
お前は強く生きろ。
下を向くな。
上を見ろ。
私が見守っている。
お前との歩む道がある限り。
私の生がある限り。
見守って。
命に懸けて護ってやる。
そして。
そうやって。
いつまでも、隣で笑ってろ――。
「隣に在る微笑」 |
20100615 |