溜息しか漏れない。
尾張を出てから手元しか見てない。
何の感情も沸いてこない。
手触りのいい真っ白な着物に身を包む。
輿入れとはいえ市には意味はない、こんなもの。
この先厳かに事が進めば。
それからは。
思案に明け暮れ、動向を見極め、好機を窺う日々。
また溜息。
視線の先は自分の手の平。
この手で。
夫となる人を――。
「敵襲ー! 今川軍が姉川を包囲!!」
市は顔を上げた。
籠の中で外が見えない。
避難するのに支える人たちが走ってるのだろう、大きく籠が揺れて。
下ろされ、織田の人が顔を覗かせる。
「お市様はどうか避難して下され!」
抜刀する音。
法螺貝の音。
穏やかではない空気が立ち込めた。
「おのれ、今川! 何を考えているのだ、不埒な男め!!」
遠く、男の人の声がする。
浅井の人……かしら。
今川軍がここにいるということは。
必然的に戦になる。
戦になれば、血も流れる。
そうすれば。
浅井の大将は。
ここで命を落とす可能性もあるということ。
そうすれば市が手を下さなくてもいい。
それとも。
戦に紛れて命を取ることもできる。
相手の勢力がよくわからない。
今川軍では浅井の大将を討ち取れないかもしれない。
なら市が直接。
「理の兵よ、今こそ浅井の力を見せる時だ!」
この声の持ち主かしら。
市が。
この手にかける人。
馬の蹄の音がする。
それは籠の近くで止まり、上方から声。
「私は浅井長政だ。 織田の者たちよ、急な事態で申し訳ないが信長殿の妹御を小谷の城まで連れていってもらえぬだろうか」
え……?
市は籠の中で、声のする方を見上げた。
「これは浅井の戦だ、そなたらの力を借りる訳には行かぬ。
此処で今川を食い止める故、小谷まで行けば安全だ」
市を。
戦場へ連れて行かないの?
「はっ、畏まりました。 ご武運を祈りまする」
籠が揺れ動く。
「ま、待って……」
「……お市様?」
「……下ろして」
市は。
籠から出た。
ざわついてた辺りが、しんとする。
白無垢の裾を気にしながら。
馬の傍まで。
その馬に乗る人は下りて。
市の傍に寄る。
甲冑を纏っていた。
「――貴殿が妹君か?」
「はい……市にございます」
頭を下げ、名乗った。
その人は兜の緒を解き、脱いだ。
「私が近江の小谷城主、浅井備前守長政だ。 この日に斯様な対面で申し訳ない。
だが早々にこの場から立ち去られよ。 貴殿を危機に晒す訳にはいかぬ」
「………………」
「戦を鎮め、私も早急に城へ戻る」
綿帽子に遮られた視界は。
その人の胸の部分までしか見えてはいない。
浅井の紋が目に入る。
「あ、あの……」
「さぁ、早く籠に入られよ」
「あの……市も、お供します……」
周りがざわつく。
市は幾度となく戦に臨んでいる。
怖くはない。
人の死も。
自分の死も。
けれど。
「何を言われるか」
「え……」
「連れて行く訳にはいかない。 城で待たれよ」
「でも……っ」
市は、顔を上げた。
少し曇り気味だった空。
その雲間から陽が徐々に顔を出す。
それを背に。
その細身の甲冑に身を包む人の姿を見た。
白銀の鎧を身につけ、脇に兜を抱えていたその人。
少しくせのありそうな黒の、多少茶の混じる髪が靡いていた。
固く閉じられた口元。
鼻筋が通り。
意志の強そうな目元。
髪と同じように若干の茶を帯びた瞳が。
やはり市を捉えていた。
吸い込まれそうなそれ。
逸らせなかった。
市は言葉を失いながら。
その人を見ていた。
どれだけ時が経ったのかも分からず。
ただただ。
見つめていた。
その人も、ずっと市を。
ある程度して二人が現状に気づき。
市は慌てて視線を外し。
その人も横を向いた。
「で、でもではないのだっ。 お、お前らも行け!
織田の者たちの道案内をしろ!」
「はっ!」
市は強引に籠に乗せられ。
小谷へと運ばれる。
そっと窓を開け。
その人を見た。
手の中の兜を再び被り。
馬に乗り込み、指揮を執るところ。
あの人が。
浅井長政。
市の旦那さまになる人。
市が手をかける人。
まっすぐ市を見てくれた。
視線を外してくれなかった。
市を戦へ連れ出すと思っていた。
それは濃姫様もまつ様もそうしてきたから。
命なのか自分の意思なのかは別としても。
家のために。
夫となる人のために。
妻となる人も兵のひとりだと。
それを拒んだ。
城にいろと。
あの人は、違うの――?
首を振った。
違わない。
変わらない。
市が命を取ること。
何も変わらない。
市は綿帽子を取り。
上掛けも剥いだ。
それを外へ放る。
「おっ、お市様っ!?」
「市、戻る……鎧と武器をちょうだい……」
「し、しかし……!」
「お願い……」
織田の人と浅井の人に何度も懇願されるけど。
頑なな市に折れる。
籠が下ろされ。
渡された鎧に狭い籠の中で腕に通す。
織田の鎧。
早速着ることになるなんて。
幸か不幸か。
たぶん、不幸……よね。
「お、お市様……」
織田の兵と浅井の兵の人が籠を出た市の顔を覗き込む。
織田の兵のひとりが持つ市の薙刀を手にし。
「ちゃんと、帰ります……」
その場を去り、あの人のいる陣へと走る。
そう。
隙を見つけるために。
そうして輿入れをしてきたはず。
にいさまの命。
ちゃんと守らなきゃ。
「な、長政様!」
浅井の兵の人が市に気づいて声を上げる。
その人も振り返り。
その瞳を丸くした。
「な……!?」
市は傍に寄り。
その人を見上げる。
「市も、一緒に行きます……」
一気に息を吸い込む音が聞こえると。
辺りに。
「駄目だと言っただろう!!」
響き渡るほどの大声。
市は思わず目を閉じ、肩を震わせた。
驚いた。
いつ以来だろう。
怒鳴られたのなんて。
「今ならまだ間に合う、早く城へ行かれよ!!」
「で、でも……市は……市たちは、今日から夫婦だから……」
「………………」
「旦那さまのお手伝いを……」
静かになる。
誰一人口を開かない。
市も俯いて、その人の言葉を待つ。
しばらくして。
「それは……織田の鎧だな」
「……はい……」
「まだ猶予がある」
何のことか分からない市。
仕方ないと。
大きな溜息をつかれ。
「私は貴殿を戦に出すつもりはない。 だが……浅井の鎧を用意してある」
「え……」
「今後貴殿は私の妻として当然命も狙われる。 その時の為だ。
殆ど無防備に近い着物よりは良いだろう。 いいか、出陣する時の物ではない。 己を護る為の物だ」
驚いて。
声も出なかった。
その人は家臣の人に、早急に城へ戻り鎧を取りに行く様促した。
「幕を引く。 家臣が戻ったらその後ろで着替えよ」
そう言い残すと。
その人は指揮を執り、地図を広げ陣の確保に勤しんだ。
市はその人の背中を見る。
初めて。
こんな男の人。
織田の姫とか、にいさまの妹だとか関係なかった。
誰だって市を戦へと連れ出したわ。
先陣を切ることもあった。
誰もが市を兵のひとりだとしか思ってはいなかった。
市が死んだって、織田の人はそんなには気にならなかったかもしれない。
なんだか、不思議な人。
そのうち、市の鎧が届いて。
それを手にする。
かわいい。
黒と紅梅色の鎧。
あの人と少し似た鎧なのね。
着替え終わり、陣幕から姿を出した市は。
その人の傍らへ歩み寄る。
市の姿を見たその人は、目を閉じ溜息をつく。
「……危険だと承知なのだな?」
「は、はい……」
「市」
目を見開き。
胸がひとつ跳ねた。
思わず、顔を上げる。
「ならば私から離れるな」
「え……?」
「私の後ろにいろ。 決して前には出るな。 いいな?」
「そ……それは…………命、ですか……?」
「そうだ」
驚いて。
その人を見た。
やっぱりそう。
まっすぐに市を見る。
そして市に、命。
にいさまや明智様と変わらない人だと思っていた。
容赦なくて非情で冷酷で。
なのに。
初めて呼ばれた名も。
初めて与えられた命も。
何故だろう。
全てが市の思うことと反していて。
非情とか冷酷とか。
微塵も感じられなかった。
――どうせなら、にいさまや明智様のような人だったらよかったのに。
きっと今すぐにでもここでその命を取ってしまうのに。
……まだいい。
今日でなくても平気。
また機会はある。
だから今は。
「……長政さま」
「何だ」
「市……頑張ります……」
今は。
今だけは、浅井のために。
すぐだった。
朧げなそれが明確になっていくこと。
また、あまり時間を要さないこと。
この人との出逢いは。
大河へと続く、小さくささやかな。
ただ一滴の源流であったこと。
だけどこの時の市はそれには気づかず。
ただ、この人の言う命を。
従順に守るだけだった――。
「ただ一滴の源流」 |
20110213 |