小谷城。
門前よりその姿を見上げる。
久しぶりに見るその風貌は、変わりない。
手の中の“それ”を戦火の被害が及ばぬ様。
その場に置く。
心は、落ち着いている。
顔を上げ、その城内を。
睨み付けた。
まずは、城。
私は全てを取り戻すための布石。
全ては、ここから。
中に住まうのを。
一掃。
「何だ、貴様……」
「なっ! まさか……あざ」
門兵は確認せずとも認識できる。
鎧に付く“織田木瓜”。
私は有無を言わさず、二人の門兵に斬りかかった。
城から出てくる織田の兵が声を上げ、仲間を集め始める。
法螺貝も鳴り始め。
「あ……浅井長政! 侵入しました!!」
私は城に入り、視界に入る全ての織田の兵を倒していく。
城中には悲鳴が響き渡り。
各部屋から織田の兵がなだれ込んで来る。
数は圧倒的に不利。
勿論浅井は私ひとり。
だが。
数で負けても。
雑魚程度。
いくら束になってかかって来ても。
負けるつもりなど、ない。
私は。
全てを、取り戻すのだ――。
「退け! ここは織田の居城だ!!」
「まだ懲りぬのか!! 貴様は信長様に敗北したのだぞ!!」
「元大将ならば、分かるであろう! 生き恥を晒すのか!!」
織田の声が耳に届く。
どれもが罵声。
それでも。
私は止めなかった。
生き恥。
生き恥かもしれぬ。
兄者に負け。
全てを失くし。
裸同然にまで陥った。
何もかもを失くした私は。
もう失うものは、無かった。
一度は。
自分の非力を呪い。
自分の運命を呪い。
このまま落ちぶれた、荒れたままで。
名を捨て、生を終えようとも考えた。
城を失くし。
兵を失くし。
信念を失くし。
――妻をも失くし。
当て所もなく彷徨っていた途中。
小谷の話を聞いた。
織田に落ちた、と。
誰もがこんな大将を慕ってついて来る筈もない。
脆弱な私よりは。
今勢いの良い織田に下った方が。
何時の日か天下を取るかも知れぬ織田に下った方が。
浅井の兵も危険に晒される事も無い。
誰でも良い。
私を斬ってくれて構わない。
信じるものも無い。
正も義も、この世には無い。
私を必要とする人間も居ない。
そう。
身も心も、荒んでいた。
腰の刀を引き抜き。
自害をも考えた。
意味の無い生を終えようと。
松永に蹂躙されていたあの村に踏み入れるまで。
ずっと、考えていた事だった。
自分が弱いのを承知していて。
強い者に挑む。
勝つためではなく。
護るために。
確信したのだ。
兄者に負けたままでおめおめと生き長らえている方が。
逃げたまま、背を向けたままの後生の方が。
生き恥。
このまま人生を潰えても。
誰も同情などしない。
笑われるだけ。
どん底を見た。
これ以上は落ちぬ。
そう。
これからは手に入れるだけ。
取り戻すだけ。
一から。
始めるだけだ。
大将を探しに、小谷の天守閣近くまで駆け登る。
織田の兵はまだ尽きない。
だが、私は疲れを知らなかった。
何が何でも。
全てを。
「浅井……よく生きていたな」
足を止める。
立ち塞がるは、名の知れた大将。
「柴田……勝家、か」
「無様な……あの場で果てていれば良かったのだ」
抜刀すれば。
私も盾を前に、身構えた。
「はああああーっ!!」
柴田が剣を振り下ろすのと同時に。
私の剣がそれを止める。
流石に鬼とも瓦割りとも言われる男。
その懇親の一振りは私の膝を僅かに折る。
だが。
私も折れる訳にはいかない。
共に退く事のない鍔迫り合い。
「何故だ……! 何故織田に刃向かう!?」
「そうではない……私は兄者に奪われたものを取り戻しに来ただけだ」
「奪われた……? まさかお市様もか!?」
刀身が火花を散らすが。
怯んだ隙に柴田を押し退け、即座に剣を振り被って。
柴田の肩の紐を掻っ切った。
袖が音を立て、床に派手に落ちる。
市。
それも。
兄者に奪われた。
……取り戻す?
「市は……」
「朝倉を落とすための婚姻だった! 貴様に愛情も何もない!!」
柴田が再び攻めに入る。
それを己の剣で受け止めれば。
幾度も刀身のぶつかる音が、廊下に響く。
近くの襖や燈篭も巻き込んで。
そうだ。
私達は兄者の思惑通りの結ばれた仲。
愛情なんてもの。
そんなもの。
市には、無かったであろう。
今でも。
腹の底では笑っているのやもしれぬ。
それでも。
それでも私には。
あの時の市が忘れられない。
兄者に負けた時。
命を取られても仕方無かった状況で。
市は私を助けてくれた。
愛情ではないかもしれない。
ただの気分だったのかもしれない。
だが。
“私”を助けるという思いを。
疑いたくなかった。
市。
お前に。
柴田の切っ先が私の兜を霞め。
頬が一瞬で熱を持った。
一筋の傷が走る。
兜が床に落ちる前。
柴田の篭手に振り被った刀が埋もれれば、それは破片を飛ばし砕けた。
痛みで身じろぐ柴田を見逃さない。
両の手に持ち直した私の剣の刀身が。
兜が床に着くのと同時に。
覆いのない肩に。
数寸。
食い込まれる。
血が、迸った。
「ぐあああああああっ!!」
そのまま壁に柴田の身体を打ち付け。
私は。
肩で息をする。
私の頬を伝う。
顎まで流れた鮮血は。
一滴、床へと落ちた。
市。
お前に。
「私は……兄者に会いに行く」
「な……なんだ、と……っ!? 貴様、正気か……!?」
お前に私への愛情など。
無くても良い。
市は織田の間者で。
兄者の陰謀を知っていて。
私の命を取ろうとしていた。
しかしそれは。
あの雨の姉川で知る事になる。
織田の企てと同時に。
市は己の意志ではなく。
兄者の命で私の命を取る事。
兄者の命で裏切った事。
助けられた事で発覚した事実。
疑った。
本気で、削除しようと思っていた。
……それを、市。
お前に詫びたいだけなのだ。
だが、お前を取り戻したい気持ち。
無いと言ったら嘘になる。
「俺を倒して……城を取り戻して……お市様もか……?
誰でも良かろう! 貴様にお市様など……」
「私の妻は…………」
奥歯を噛んで。
柄を握るその手に力を込め、その刃を深く差し込めば新しい鮮血が溢れ出る。
顔を歪める相手を。
睨み付けた。
「私の妻は、市しか考えておらぬ!!」
「長政様……!」
人の気配。
まだ残党がいたか。
小さく舌打ちして見れば。
私達の様子を伺っていたのは。
遠藤と新庄。
「貴様ら……生きていたのか」
「長政様こそ……よくご無事で!!」
「勝負、ありましたな!」
城に残っていた浅井の兵が。
剣を引き抜かれた柴田の身体を拘束し。
階下へと下っていった。
残りの織田の兵も白旗を揚げ、降伏した。
「長政様……」
「城は、取り返した」
頬を手の甲で拭う。
「貴様らは……ここは今まだ織田の配下だ。 私を討つなら今が好機だ」
「な、何を仰るのですか!?」
「我ら一同、長政様が主でございます!!」
二人の背後にいた元浅井の兵達も一斉に声を上げる。
「うおおおお! 長政様!!」
「長政様、ありがとうございます!!」
「小谷は浅井が奪還したぞ!!」
古参も新参の連中も。
勝鬨を上げるが。
「まだ」
私の声がそれを制した。
「私には、まだ為さねばならぬ事がある」
「長政様……?」
落ちた兜を拾い、脇に抱える。
剣についた血を払い。
「信長と決着をつける」
「長政様!!」
遠藤も新庄も、兵達も。
私を取り囲んで、止める様促すが。
「まだ取り戻していないものがある」
「それは……」
周りを見渡し。
一息ついて。
「私の信念……それと」
「………………」
「あれにその気があった時……市を、取り戻す」
「長政様……!」
ざわめく。
それはそうだろう。
政略結婚の二人。
ここまで市に拘る必要も無いのだ。
「で、でも……長政様……」
「もし……もしまた裏切られる様な行いがあれば……」
「それは、私の天命もそれまでだという事だ」
剣を鞘に収め。
窓から遠くに流れる姉川を見る。
もし市を連れ戻せたとしても。
間者であって。
私の首を取るつもりならば、それで良い。
女に寝首を掻かれた情けない武将だと思われても良い。
それでも良いと。
思っている。
「だから、私の考えに同意出来なければいつでも城を捨てるが良い。
止めはせぬ」
息を吐くと。
階下へと降りた。
馬小屋から私の馬を連れ。
その背に乗り、姉川まで一気に駆けた後。
馬を下り。
川に顔を突っ込み。
水を飲んだ。
顔の傷が多少沁みたが。
痛くはなかった。
顔を上げ、手の甲で顔を拭えば。
波紋が落ち着きを取り戻し、水面に自身の顔が映る。
もしも。
一緒に帰ると言って、お前が頷けば。
もう一度。
もう一度だけ。
あの城で。
小谷で、やり直さぬか。
あの場にいた浅井の連中が残らなくても、良い。
誰ひとり。
私に賛成する者が居なくとも良い。
たったひとり。
私だけでも、お前を護る。
城を出る時に、誰にも踏まれていなかったであろう“それ”。
形が崩れていなくて安堵した。
北国で見つけた、白い百合。
今馬に括りつけてあるそれを見る。
もう二度とない。
危険な目にも遭わせん。
お前が護ったこの命。
今度はお前のために使う。
今度は私がお前を護る事。
お前に、誓わせろ――。
「もう一度だけ」 |
20080501 |