耳には、辺りを包み崩す音。
鼻には、辺りを焦がす匂い。
目には、辺りを踊り狂う真っ赤な炎。
全てを飲み込み。
劫火となって。
市の周りを。
市の足元に倒れてる身体。
市はその身体の肩の部分を足で蹴ってみる。
動かない。
市の顔も、手も、身体も、持つ薙刀にも。
この横臥してる身体から放出された血に塗れていた。
この血は。
市の身体にも流れてる。
おぞましい、血。
首を傾げて。
“それ”に問う。
「ねぇ、にいさま。 どうしたの……? 早く起きて……」
起きて市を斬って。
市を斬りたいんでしょう?
殺したいんでしょう?
何故、動かないの?
ああ。
そうね。
「ふふ……ふはは。 意外に脆いのね、にいさま」
市に斬られたんだよね。
にいさま、やっと罪を償う時が来たんだよ。
どう?
市に斬られた気分は?
血を分けた妹に手をかけられた気分は?
最悪でしょう?
死に切れないでしょう?
でもそうやってね。
みんなみんな、死んでしまったの。
これで。
地獄へ行けるね。
地獄へ行って。
罰を受けるといいんだわ。
ほら。
炎がにいさまに忍び寄ってる。
その身体を焦がそうと。
早く逃げないと。
熱くなっちゃうよ?
「ふふ……ふふふふ、ふは……はははははは……!」
これで。
市も、自由。
にいさまに縛られないわ。
これで。
二人で静かに、自由に過ごせる。
――自由?
夢?
幸せ?
そんなもの。
結局市には無かった。
いつだってにいさまの言いなりだった。
感情なんて持たせてはくれなかった。
生まれた瞬間からの、罪だらけの人生。
ねぇ、にいさま。
何故、市は――にいさまの妹だったのかしら……?
にいさまの妹でなければ。
こんなに苦しまなかった。
こんなに恨まなかった。
にいさまの妹でなければ。
一生、出逢わなかった。
ねぇ、にいさま。
「……どこ……? どこにいるの……?」
にいさまの策略のひとつだったのよね。
市の婚姻。
「逢いたいよ……逢いたい」
その策略……残念だったね。
にいさまのお陰でにいさまの誤算だったの。
だって。
市は。
ふふ。
市はね。
「一緒に、いようよ……」
空を仰ぐ。
ああ。
あの梁が崩れそうだわ。
不思議ね。
熱くはないし。
苦しくはない。
にいさまににじり寄り、今まさにその身体を焦がそうとする炎。
それは市にも。
罪のない命を簡単に奪ってきた。
命じたのはにいさま。
手にかけたのは市。
それはにいさまの罪。
それは市の罪。
だから、いいよ。
市の身体をその劫火の糧にして。
何もかも。
無くして、失くして。
市を罪ごと。
この想いごと焼き尽すがいいわ。
でもね。
「市」
背後からする声。
何故、なのかしら……。
その声で市の名が呼ばれただけなのに。
不思議と。
目尻から涙が零れた。
そう、探してたの。
ずっと探してたんだよ。
だって一緒にここ本能寺まで来たのに、途中から見失ってしまったのだもの。
懐かしい?
懐かしくなんかある訳ないじゃない。
誰よりも市の耳にも心にも。
いつでも傍にあった声だもの。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
後ろを振り返る。
「また、泣いていたのか」
白銀の甲冑に。
兜を片腕に抱えて。
ああ。
ようやく逢えた。
市は持ってた薙刀を捨て。
駆け寄り。
その身に吸い込まれる様に。
背に腕を回し抱きついた。
「長政さま、どこに行っていたの……? 市、寂しかったんだよ……?」
ずっと傍にいてくれた、長政さま。
長政さまが。
市を、呼んでくれてた。
近江でも。
三河でも。
加賀でも陸奥でも。
どの戦場にも。
ずっと。
ずっと。
ずっとずっとずっと。
傍にいてくれた。
「長政さま……長政さま……」
「泣くな。 顔が煤と埃まみれではないか」
怒られても、いい。
目を閉じて感じる。
そう。
長政さまの身体。
忘れた事なんかない。
温かさも、広さも。
市が一番安心できる、この胸。
ようやく触れられた。
市に唯一。
自由も夢も幸せもくれた人。
「市」
顔を上げると。
長政さまはその大きな掌で。
顔の汚れを拭い。
そのまま市の頭を撫でた。
「よく頑張ったな」
「見ててくれたの……? 市……悪を滅ぼしたよ」
「ああ、それで良い」
「長政さま……喜んでくれる?」
「そうだな」
市は長政さまの胸に顔を埋めて。
「ねぇ、長政さま……」
「何だ?」
「市……長政さまを探してたの」
「何故だ?」
「……言いたい事があるんだよ?」
「言いたい事? 言ってみろ」
目を閉じて。
しっかり、一言一言。
「市、長政さまを愛しているの…………誰よりも、心から……」
長政さま。
本当よ?
市は、長政さまの事。
愛しているの。
誰よりも。
心から。
強く。
今までも。
これからも。
「……そうか」
長政さまは短く答える。
「お前はもう頑張らずとも良い」
「はい……」
「私はもう行く。 お前はどうする? ここにいるか?」
だからね。
「市も、一緒に行きます……」
もう離れないよ。
長政さまの身体から少し離れ。
その代わり、その手を握る。
長政さまを見上げれば。
長政さま。
笑ってた。
市の思った通り。
初めて見たそれは。
初めて市に向けられたそれは。
優しかったの。
長政さまの笑顔。
だから。
市も、笑ったわ。
視界の中の天井が大きく揺れるのと同時に。
市は目を閉じ。
直後。
頭上から抗う事の出来ない大きな大きな圧力を感じ。
体中のあちこちからぼきぼきと鈍い音が聞こえ。
瞬間、真っ暗で何も無い闇が。
市を襲った。
だけど。
感じるの。
耳には、長政さまの低い声。
鼻には、長政さまの甘い香り。
目には、長政さまの端正な顔。
掌には。
長政さまの温かな体温。
暫くすれば。
唇には。
長政さまだけの、特別な温かさ。
感じてる。
市。
長政さまとどこまでも歩いてく。
いずれこの手を離さなければならない時が来ても。
市の歩むこの道が長政さまと違えようとも。
この手を。
離さないよ。
長政さまの傍から。
離れないよ。
だから。
一緒にいようね。
どこまでも。
いつまでも。
長政さまと一緒にいるもの。
いいよ。
市の身体をその劫火の糧にして。
何もかも。
無くして、失くして。
焼き尽すがいいわ。
この想いの宿った身体を。
でも。
市の心の中の想いだけは。
貴方の糧にはならない。
それは。
ずっと。
ずっと。
何年後も。
何十年後も。
何百年後も。
身が滅んでも。
肉や骨が無くなっても。
消える事はない。
どこまでも、いつまでも、生き続けるもの――。
「劫火の糧」 |
20080424 |