市を知らなかったら。

市と一緒にならなかったら。

 

一体私はどんな人生を歩んでいたのだろう。

 

この戦乱の世では、いつ命を落とすかなど知れない。

だがそれまで。

平凡な毎日を。

平凡に暮らして。

平凡な幸せを掴んでいたのだろうか。

 

こんな感情を知らぬままに――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎日通うこの廊下を歩く足取りが。

鉛のように、重い。

息を吐く。

それすらも、重い。

 

 

 

いつか。

いつか凶行に及ぶだろうと思ってはいた。

だが。

妹が輿入れしているここ近江に刃を向けるなど。

魔王。

貴様は、人の心すら。

持ち合わせてはいなかったのだ。

 

私は歩みを止め。

目を閉じる。

 

 

 

朝倉への侵攻。

同盟の、破棄。

 

 

 

双肩にかかるこの真実が、重い。

だが私の心は既に決まっている。

義を知らぬ魔を排除する。

ただ、それだけ。

私は、良いのだ。

しかし。

 

 

 

 

 

市と。

婚姻なんかしなければ、良かったのだ。

 

市を知らなければ。

一緒にならなければ。

私は。

何処かの娘と結ばれ。

こんな思いをしなくても良かったのだ。

 

市を。

知らなければ。

一緒にならなければ。

 

 

 

 

再び目を開け。

再び、いやに長く感じる廊下を歩き出す。

 

いや、もう良いのだ。

もう、決めた事だ。

握った拳に力を入れ。

ようやく部屋の前に着く。

 

 

 

 

 

「市。 入るぞ」

「はい……」

 

部屋の中からか細く返答される。

襖を開けると市が寝着に身を包み、部屋の真ん中に敷かれた布団の上に座っていた。

既に。

市の瞳には涙が浮かぶ。

 

「長政さま……」

「兄者がここに進軍している事……知ってるな?」

「はい…………にいさまが……」

 

市は俯いて。

肩を震わせている。

 

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」

「お前が謝る事ではない」

「でも……」

「市」

 

私は市の傍に膝をつく。

市は顔を上げた。

 

「信長は私を……浅井を滅ぼしに来る。 数日後にはここに着くだろう。 私は命の限り対抗するつもりだ、たとえお前の兄であろうと」

「長政さま……」

「……私が憎いか?」

 

市の瞳には今にも涙が零れ落ちる寸前。

 

「もし」

 

私は。

ひとつ息を吐き。

 

「もしも、お前が織田の間者なら……今ここで、私の首を刎ねろ」

「え……」

「構わん。 市……」

 

目を閉じた。

 

「市、お前は私の妻だ。 名目上でもそれは変わりない。 お前の手なら……私は」

 

“本望だ”。

そう思った瞬間。

市の。

嗚咽が部屋に響いて。

再び目を開けた。

市は。

幾筋もの涙を流しながら。

唇を震わせながら。

 

「長政さま……何故…………」

「……泣くな」

「何故、そんな事を言うの……?」

「頼むから、泣くな」

 

市が泣くとどうしていいか分からない。

その思いは婚姻して幾年月も経つのに。

この瀬戸際でも一向に変わらなかった。

そんな涙を見せられたら。

私は。

 

「何故なの……? 市は……市は長政さまと一緒にいる…………長政さまのこと、憎くもない……! 市は織田の間者なんかじゃない……!」

「市……私はお前の血の繋がった兄を討とうとしているのだぞ」

「……それでも、市は長政さまについて行く…………」

 

市は私の胸に縋り。

声を上げて泣いた。

綺麗に輝く、艶のあるその黒髪を。

私は目に焼き付かせ。

 

「……分かった」

 

その手を取った。

 

「――支度をしろ」

「え……」

「お前を、織田に返す」

「な……長政、さま……?」

 

私は衣桁にかかっていた市の着物をそれから剥ぎ取り。

市の前に放った。

市は呆然としてその着物を見る。

 

「……お前の私物は後で城の者に届けさせる」

「……どういう、ことなの……?」

「帰れと言っているのだ」

「かえ、る……? 織田に……? 長政さま…………それ……」

 

市の顔は、見れなかった。

私の。

心の弱さが現れる。

 

 

 

「――離縁、だ」

 

 

「り……えん…………?」

 

 

 

市から顔を背け。

どれほどの時が経ったのだろう。

その意味が市の頭に浸透する時間。

その間。

私は。

拳を握り、歯を食い縛り。

 

たった一言でいいのだ。

“帰る”と。

早く言え。

 

ようやく。

市の声が、部屋に響く。

細く。

小さく。

震えて。

僅かに、首を傾げ。

 

「…………な、がまさ……さま…………市……ここに、いるよ……」

 

私がぎゅっと、目を閉じ。

背を向ける。

頼む。

決意を揺るがすな。

 

「もう、決めた事だ」

 

吐き捨てる様に言うそれは。

そう。

ここ数日。

傍らに眠る市を見ながら。

寝ずに考えた事だ。

 

「市…………いるよ、ここに……」

「駄目だ、帰れ。 もう、私とお前は夫婦ではない。 お前はもう自由だ」

「嫌…………嫌だよ……!」

 

市は立ち上がり。

私の背にしがみつく。

 

「市は帰らない……! 長政さまの傍にいる……!!」

「……離せ!」

「あ……っ」

 

市の手を勢いよく払えば。

簡単に市は布団に倒れる。

私ははっとし。

市に慌てて手を伸ばそうとするが。

それは、途中で躊躇する。

 

そんな資格。

とうに無くしてると言うのに。

最初から。

市と夫婦になった時から。

この手を差し出す資格など。

なかったと言うのに。

 

市は布団を握り締め。

肩を震わせ声を上げ、泣いた。

そして。

ゆっくり私を見上げる。

 

「何故……」

「………………」

「何故……市を織田に戻すの……?」

「………………」

「……市が……市がにいさまの妹だから……? だから……長政さま…………市の事、嫌いになっちゃったの……?」

 

痛む、胸。

何故だ。

こんな時まで。

優しくしてやれない自分が。

嫌になる。

 

「……そうだ」

「…………え」

「……お前の事が……嫌いになったのだ」

 

眉間に皺を寄せ。

ぎりっと。

奥歯を鳴らす。

違う。

こんな事を。

言ってやりたいのではない。

 

「盟約は破棄されたのだ。 貴様もここにいる理由などない。 だから……もう浅井にはいらぬ」

 

こんな事を言ってやりたいのでは、ない。

でも、これで良いのだ。

そうすれば、市は。

 

途端。

背後で布擦れの音がする。

見れば、泣きながら市が部屋の隅にあった懐刀を手に取り。

それを鞘から抜き。

輝く刃先を首に宛がう。

私は目を見開いて。

 

「……市!?」

 

市に飛びつき。

その手を叩き、刀を払った。

息をつき。

 

「市……何をしようとしてた……?」

「………………」

「何故馬鹿な真似をする!?」

「……ない……」

「何?」

「いらない……!」

 

涙を今までにないくらい流し。

今までにないくらい。

悲しい瞳で。

 

「いらないの……! 長政さまと…………長政さまと一緒にいられない市なんか……いらないの……!」

「市……!」

「織田に帰りたくない…………でも、長政さまに嫌われたら……ここにもいられない……だったら、市……!」

 

胸の痛みが、増す。

泣きながら暴れる市の手首を掴んだ。

 

「嫌いになったのなら…………長政さま……その手で市を殺して……!」

「出来る訳がないだろう!」

 

市はしゃくりあげながら。

真っ赤な目で私を見た。

 

「…………織田なら、安心できる……お前を生かしておきたいのだ」

 

近江にいれば。

私の傍にいれば。

市の命すら危うくなる。

それだけは避けねばならぬ事。

今までの戦とは、全く次元の違う話。

 

それでも市は。

首を横に振ったまま。

 

「帰らない……帰らない…………」

「では……逃げろ」

「………………?」

「いくら魔王とて妹まで手にはかけんだろう。 どこへでもいい。 市、お前だけでも逃げろ……生きるんだ」

「嫌……!」

「市……私を困らすな……!」

 

市の手が震える。

 

「生きろ。 そして……他の男に嫁げ」

「え……」

「お前は誰より幸せになる権利がある……私がお前に与えられなかった幸せを掴め」

「もっと、嫌……そんなの……っ!」

「何故私の言う事が聞けぬ!!」

 

市は自身の拳に力を入れ。

 

「嫌……市は逃げない……長政さまと一緒に戦う……!」

「市……!」

「長政さま、言ったじゃない……“私はお前から離れない、だからお前も私から離れるな”って……! 市、離れない……長政さまの傍にいる……!!」

 

言うな。

それ以上言ったら。

 

「……市はずっと暗くて寒くて冷たい場所しか知らなかったんだよ……」

「………………」

「長政さまと一緒になって……市、光がある事知ったの…………温かさを知って……人を好きになる事知った……市は長政さまじゃなきゃ駄目なの……!」

「市……」

「市は、長政さまの傍にいられてこの上なく幸せなの…………お願い、市からその幸せを奪わないで……!」

 

私は。

一回りも二回りも小さい妻を。

胸の中に押し込めた。

市の泣き声が大きく部屋に響く。

 

この期に及んで。

市を手離したくなくなるとは。

 

身が裂かれる様な決断だった。

果たして市を失って。

私が自身を保てるかどうかなど。

保障も何もなかった。

 

「……手など痛くしてないか?」

「ううん……大丈夫」

「…………すまなかった」

 

情けない。

私も弱くなったのか。

一人の。

たった一人の存在が。

私を決断を揺るがそうとは。

 

「ここにいたら命の保障はないぞ」

「覚悟、してる……」

「私が逝ったら……」

「長政さまだけが逝くなんて駄目…………市も……後を追うから……」

「お前だけでも生きろ!」

 

市はそれでも。

首を縦に振らなかった。

 

「市は……いつまでも長政さまの傍にいる……お願い、市を……長政さまの元に……」

「……お前は愚かだ……」

 

愚かは、私だ。

決断したのに。

私は市の身体をつき離す事ができなかった。

更に強く抱き締めてやる事しかできなかった。

 

少し身を離し。

両手で市の両頬を包んで。

その顔を覗き込む。

 

「戦になってもお前は私の前に出るな……私の後ろにいろ。 無理をするな。 駄目だと思ったらすぐに退け」

「長政さま……」

「私から離れるな……これだけは私に誓え」

「……はい」

 

市を知らなければ。

一緒にならなければ。

私は。

ただ淡々と生活を送るだけだった。

 

それでも。

私には。

 

もう一度。

胸の中に押し込んだ。

 

「……私は冗談が嫌いだ」

「……知ってるよ」

「…………私の気持ちは、お前と一緒になった時から変わりない」

「長政さま……?」

「お前を娶って……良かった」

 

涙の跡を残し。

市は強く。

私の胸元を掴んだ。

 

本当は、私には。

婚姻しなければ良かったなど。

そんな後悔など微塵もなかった。

 

たとえ間者であったとしたなら。

市はいつでも私の首を取れたのだ。

それだけ。

私は市に警戒する事などなく。

無防備に市の傍にいた。

それでも良いと。

市の手にかかっても、構わないと。

 

 

 

私は市を抱き抱えたまま。

床に伏せる。

 

燈篭に照らされ浮かび上がる市の顔。

乱れた髪の中のそれは。

嫁いできた時から何も変わらない。

 

「市」

 

その顔を覗けば。

市は僅かに首を傾げ、私の次の言葉を待つ。

 

「最後に何か言いたい事はあるか? 馬鹿だとか嫌いだとか何でも良い。 怒らぬから言え」

 

目を伏せてぼそぼそと。

 

「……最後じゃないもの」

「何でも良いから言ってみろ」

 

二、三。

瞬きをして。

私を見た。

 

「市……どんなに長政さまに嫌われても……市の事が嫌いでも…………市、長政さまの事だけ想ってる……だって、市」

 

微かに頬を染め小さく口にするそれに。

私は。

ひとつ胸が高鳴り。

それを受け止めたつもりで、再び市に身体を沈め。

 

市の唇に。

自分のを押し当てた。

それは。

今までに一番長くて、濃くて。

 

暫くすると。

市が私の背を小さく叩き。

私は僅かに身を起こす。

大きく息を吸った市は。

 

「……最後みたいな、こんなの嫌……」

「最後ではないとお前が言ったのだろう。 そういう意味ではない……欲求だ」

「欲求……?」

 

市の疑問に答える暇もなく。

再び市のそれに合わせ、触れる。

そして。

その細く白い指に自分のを絡ませ。

しっかりと、握った。

 

「……悪は、私か……」

「……?」

 

 

“離縁”。

 

 

盟約の質だった、市。

それが破棄され。

“質”としての市は意味を無くした。

こうなってしまった以上、当然の言葉だった。

 

それでも。

 

市を傷つけた言葉。

口にしてはならなかった、言葉。

出来もしない事なのに。

最初で最後の、最大の偽の言葉。

市と結ばれて一番の後悔だった。

詫びて、そう告げると。

市は横を向き顔を背け声を殺し、泣いた。

そう。

 

もう“質”の意味など、とうの昔に無くなっていたのだった。

 

市は、嫁いできた時から何も変わらない。

その不変が。

私にとって。

本当は。

 

 

 

嬉しくもあったのだ。

 

 

 

市。

今お前の口にした、お前の心の中は。

いつも素直に私に届く。

そして。

いつも私はお前に自分の心の中を届けてやれない。

だが。

たぶん。

私の心は。

お前以上だと。

 

だからこそ。

お前を死なせたくないのだ。

 

「……灯は消さぬ」

「………………?」

 

“最後、かもしれん”。

その言葉を出さずに。

 

「長政さま……?」

「私に……お前を忘れさせるな」

 

市は、長い睫毛を伏せ。

私の首に腕を回した。

それからの私達は。

何も言葉を交わす事なく。

何も聞こえない、静かな宵闇を。

息遣いと体温だけを感じ。

二人きりで共に過ごした。

 

 

 

 

 

涙を流しながらの妻を見ながら。

現実から目を背けるつもりもなく。

戯言を言うつもりはないが。

市、お前の言葉を借りるなら。

 

これが夢であれば良いと、思う。

 

それなりに修羅場は潜り抜けている。

だが今度ばかりは、分からない。

戦乱の世で安息の日が続くなど多くはないが。

長かった生活。

短かった生活。

やはり、お前と共に。

もう少し。

お前と。

 

 

 

――生のある内だけで良い。

私から。

 

離れるな。

 

 

 

何があろうとも。

この命が散ろうとも。

お前だけは傷つけぬ。

お前だけを守り。

お前だけは、生かす。

 

誓おう。

 

 

 

生のある内は――。

たとえ。

 

生を終えても――。

 

 

 

 

 

「不離の誓約」
20080214



再度勘違いキャラお目見えです(笑)
市ストーリーに繋がる創作(に仕立てたつもり)です。
どうにもツラいッスよねぇ、何度見てもせつなすぎな市ストーリー。
ウチの長政さまは市のコトが好きですよ。でも好きすぎてツンツンぶりがうまく書けてない感が(笑)










close