「今帰った」
私が城へ戻り、部屋に入ると。
市が小走りにやってきて。
私の上掛けを脱がした。
「おかえりなさい……長政さま」
「うむ」
「城下はどう……?」
「変わりはない。 戦も暫くないからな」
衣桁に着物を掛ける市の様子がおかしい。
何だか。
「どうした?」
「え……」
「……何だか嬉しそうだな」
「ふふ……」
私の腰から刀を鞘ごと抜けば。
市がそれを取り、刀置きに置く。
「今日ね、長政さま……褒められてたの」
「何?」
「市、聞いちゃったの……お城の中でね、女中さんたちが長政さまの話をしてて……“長政様は見目良い”って」
「………………は?」
聞き慣れないそれに。
思わず聞き返してしまった。
「市、すごく嬉しくなっちゃって……だって市の旦那さまだもの…………」
「そ、そんな事で喜ぶな!」
そっぽを向き、つい声を上げてしまう。
そんな事で褒められてもあまり自分の容姿に興味などない私は。
さして嬉しくも何ともないが。
市のそんな言葉を聞くと。
……何故、だろうな。
静かに窓際に寄り。
障子を開ける市は。
「長政さまは…………市の……自慢の旦那さま……自慢の……」
消え入りそうな声。
俯く市の隣に立ち、僅かにその顔を覗く。
笑顔。
けれどそれは。
「……何故、そんな顔をする」
「………………そんな……?」
「……何を思っている」
自分で気付いてはいないのか。
その。
泣きそうな、顔。
「な、何も……」
「嘘をつくな」
夫婦となってどれだけ経ったと思っているのだ。
お前の微妙な表情くらい読み取れる。
市は顔を上げ。
私をじっと見る。
暫しの沈黙。
破ったのは、市。
「やっぱり……市、長政さまを誇りに思う……」
「………………」
「長政さまは……市に、飽きていない……?」
「何?」
「長政さま……どこかへ行ってしまいそうで……」
ひどく驚いた。
聞くとは思わなかった言葉だった。
市は私の目を見ずに、言う。
「どういう意味だ」
「みんなが……市と同じこと思ってるのが嬉しくて……少しだけ、寂しくて……」
「………………?」
「……やっぱり長政さまは浅井家の当主だから……市が独り占めなんかできるわけもないのに……」
耳を澄まさないと聞こえないほどの小さな声。
「誰かに……取られてしまいそうで……」
……誰が。
誰にだ?
「あ……あの、ね……長政さまにはたくさんの女の人が集まりそうだから……市に飽きたら…………もしかしたら……」
「無駄口を叩くな」
わざと大きめな溜息をつき、市の言葉を制す。
ようやく。
市の言わんとしている事が理解できた。
「馬鹿な事を考えるな。 そんな心労はお前には不要だ」
「で、でも……」
「でも、ではない。 私とて誰でも良いという訳ではない」
「ご、ごめんなさい……」
「私を信じていろ。 それだけで良い」
それで私がお前以外の女を?
短絡過ぎる。
考えにも及ばなかった。
短絡過ぎて。
――有り得なさ過ぎて。
私が護るべきものは近江や城。
それは昔から不動のもの。
それに加えられたものが、あった。
市、だった。
私は一緒になった時から護ると決めている。
それは。
それだけ自分の中で特別な存在。
他にはいらぬ。
一人だけで十分だ。
自分で言うのも何だが。
何人も、あれもこれもを護ると言うほど。
……そんなに器用ではない。
故に私は自分の事だ。
確信を持っている。
だが。
お前は。
どうなのだ。
「お前も、城の連中にはそれなりに慕われているだろう」
一瞬顔を上げるが。
すぐに下を向く。
「市は……そんな事ない……」
少し目を見開いて、市を見た。
「……市はこんなだから……うまく笑えないし、たくさんお話できないし……だから……」
俯いて儚く笑う市に。
全く世話が焼ける、と。
市に近づいた。
見目良い、か。
「あ……っ」
私は市の顎を掴み。
その顔をじっと見た。
「な、長政さま……」
恥ずかしくなったのか。
市はその頬を徐々に赤く染めていき。
困った様に顔を背けようとするが。
私が制する様に。
指に力を入れた。
逃れられない様に。
透き通る様な真っ白い肌に。
映える様な真っ黒い髪。
切れ込んだ二重の下の、大きな瞳に長い睫毛。
決して低くない鼻に。
綺麗な形に淡い色の唇。
私が市を娶る前。
よく城の人間が女の話に花を咲かせていたのを思い出した。
どこの国の女は綺麗だとか。
興味の無かった私は大してその内容を聞いてはいなかったが。
義姉も。
軍神のくの一も。
堕落夫婦の妻も。
“女”として見た事はないが。
それらよりも。
私はその顎を離し。
私は自身の口角を上げ。
鼻で笑った。
「フン。 私のが戦国一だ」
「え……?」
市はその首を傾げ私を見る。
「胸を張っていれば良い」
「……長政、さま……?」
私は机の前に座り。
机上の書物を手に取る。
「お前はここに居れば良い、という話だ」
「ここ……?」
市の首は。
今度は反対に傾げられる。
「ここって……近江に?」
「まぁ、そういう事だ」
「……長政さまの、傍に……?」
「お、お前の好きな様に解釈しておけ! いちいち聞くな!」
市と一緒になってから。
それ以降、自分の調子が狂わされっぱなしの日々。
こんな私を、私は知らない。
不思議な女だ。
すぐに泣いたり謝ったりするくせに。
時々不意打ちの様な笑顔も見せる。
悪い意味ではなく。
卑怯という言葉がよく似合う。
見目良いという事なら。
それだけ多少魅力もあるという事。
市に靡く男。
私も知らない訳じゃない。
風の噂で、嫌と言うほど聞いた。
お前こそ。
「……どこへも行くなよ」
「え……」
「……何でもない」
私は市の目を見ず。
小さく誤魔化した。
すると。
意味が分かったのか。
市はその場に座り。
静かに微笑んだ。
「はい……長政さま。 市……ずっと“ここ”にいる」
「……勝手にしろ」
「ずっと……ずっと、長政さまの傍にいるね……」
「む、無駄口を叩くなと言っている!」
気恥ずかしくなり。
わざとらしく咳払いして。
書類に目を通した。
それだ。
その不意打ち。
それが男の心を惑わすのだ。
胸を張れとは言ったが。
それは“私の妻”としての事だ。
だからそんなものは、私だけで良い。
誰にも見せてはならぬ。
当たり前だろう。
そんなものが振り撒かれてみろ。
堪ったものではない。
予想は、つく。
だからだろうな。
目が離せなくなるのは。
しなくても良い心配事。
これも。
市を娶って。
初めて痛感した事――。
市ではないが。
私の心労も。
いつまで続くのだろうな……。
「余計な心労」 |
20080420 |