「いい風が吹いてるね……」
「ああ」
春。
漏れなく小谷山の山肌にも植わってる桜が咲き乱れる。
それは雲の様に。
市を連れ、山を登り。
距離が離れていないか。
疲れて途中で休んでないか。
時折後ろの市を振り返る。
「きついか?」
「ううん……大丈夫」
なるべく。
その距離を離すまいと。
いや。
一本道とは言え逸れて迷子になるのは敵わんから。
市の速度に合わせてはいるが。
ようやく山頂の平地に辿り着けば。
市は小走りで私を追い越し。
城下の町を見下ろす。
「着いたね……」
息をつき。
市は長い髪を靡かせる。
「長政さま、ごめんなさい……本当は忙しかったよね……?」
「今日は特に何もない」
「ごめんなさい……市、どうしても長政さまとお花見したかったの……」
「謝るなと言っているだろう」
昨夜。
市がいつもの様に小さな声で。
私の今日の予定を聞いてきた。
『市……お花見、したい……』
そう言ってきたのには驚いたが。
市はまだ一度も。
花見をした事がなかったと聞く。
市の。
織田での生活が。
ほんの僅かだが。
垣間見れた気がした時だった。
「長政さま……いつもお仕事で忙しそうだったから……和んでもらいたくて……」
「城でも桜は咲いてる。 別にわざわざここまで来なくても良かったのだぞ?」
「でもお城じゃ息抜きできないかと思って……でも、歩かせてしまって…………ご……ごめんなさい……」
市が俯く。
私は溜息を吐き。
市の背に言葉をかける。
「何を落ち込む。 お前が疲れたのではないかと言っているのだ。
それに」
「…………?」
「どこで桜を愛でようとも、お前と一緒なのだろう。
だから場所など私はどこでも良いのだ」
涙を溜めそうな瞳で。
市は私を見るが。
それは徐々に喜びの色を湛える。
「市……疲れてない……長政さまと一緒だもの……」
市の微笑み。
私はそれが直視できず。
咳払いをして城下を見た。
すると。
市が私の手の中の風呂敷を取り。
「長政さま……お昼にしよう?」
近くの桜の木の元に移動し、座って少し大きめなその包みの結び目を解く。
「市ね……今日、頑張ってお弁当作ったの……」
「……お前が作ったのか? あれほど炊事場に立つなと……」
「でもね……女中さんたちと一緒だったから……」
「全く……どうりで今朝から姿が見えんと思ったら……」
開けられる重箱の中は。
色とりどりの野菜や巻寿司や煮物。
……らしいものがぎっしりと詰まっていた。
「……市……これは?」
「ふ……鮒寿司……?」
………………何故私に問うのだ?
箸でそれを掴み、じっと見る。
泣きそうになりながら私を見る市の前で。
流石にそれを叩きつける訳にもいかず。
私の知っている鮒寿司と違う、いやに色濃い、形も微妙なそれに恐る恐る口に入れる。
「む……」
「…………長政さま……?」
「……んん……?」
「お……美味しくない……?」
「いや……大丈夫だ」
見た目はともかく、それなりに味は出ている。
まぁ、城の女中が一緒だったのなら味は保証できるのだろうが。
何故、こんなに色や形がおかしいのか……?
すると。
一枚の桜の花弁が。
重箱に落ちてくる。
小谷で一番桜の植わるここ。
それらを見上げる。
「もう、散り際だな」
「綺麗だね……」
「もう少し早く来るべきだったな」
「ううん……長政さま、忙しかったもの……それに、市……散り際の桜、好き」
雪のように舞い散る桜の花弁。
ひらひら、と。
ちらちら、と。
「あ……長政さま」
「何だ?」
「花びら、ついてる……」
私の顔についたのだろう。
市が手を伸ばし、それを取る。
「お前もだ」
「本当……? どこ……?」
「良い。 お前はつけとけ」
「……?」
「どうせこの風だ。 取ってもまたつくぞ」
市は普段髪に飾りをつけていない。
たまには良いだろう。
そういった華美なものが髪についていても。
結局。
不思議だと。
始終唸りながら、首を捻りながら。
弁当を平らげると。
「あ、長政さま……お団子がある……」
「団子? 弁当だけではないのか?」
「でもこれ……市じゃない。 女中さんたちが作ってくれたものだよ……美味しそう……」
「私は甘いものがそんなに好きではない。 お前が食べろ」
市が小さく返事し。
団子を口に含む。
「あ、美味しい……」
「そうか」
不思議な弁当を思い出しながら。
城下を見る。
祭でもあるのか。
民達が騒いでいる。
至って平和。
まぁ、束の間なのかもしれないが。
いつまでも続けば良い――。
勿論生まれてこの方近江から離れた事のない私は。
この近江を。
守らなければならない。
何が何でも。
そして市も――。
また一つ。
風が頬を掠めた。
頭上の桜を見上げる。
本当に風が心地良い。
満開の桜も捨て難いが。
市の言う通り。
散り際もまた一興なのだろう。
桜にしても紅葉にしても、ただ季節が変わったとだけしか認識もしておらず。
今まで。
こういう風にゆっくりとじっくりと味わった事はなかった。
何故、だろうな。
こんな時間を。
もしかしたら無駄にしてきたかもしれないという思い。
ひとり、ではないからか。
ここにいる人間は。
誰でも、他の城の者でも良いというのに。
隣の市を見れば。
小さな口で団子を何口かに分け、食べていた。
その姿が。
「……嬉しそうだな」
「え……?」
「そんなに美味いのか」
包みを見れば、団子はもう無い。
という事は市の口に入っているものが最後の団子、か。
私は身体を動かし。
市との距離を詰めた。
「気が変わった。 私も一口貰う」
「…………!」
そう言うと、私は市の口に自分のを押し当てる。
市はぎゅっと目を瞑り、硬直し。
逃げられない故、きっと今頃は桜の樹を背にしていた事を後悔してるだろう。
市の口の中にあるそれを。
互いの歯を鳴らしながら。
噛み千切って、市から離れた。
「……うむ。 たまには甘いものも良いな」
市は呆けた顔をしながらも。
その頬を徐々に紅く染め。
ゆっくりと口内のものを喉の奥へ流し込んだ。
「ご、ごめんなさい……市……全部食べちゃった……」
「良い。 少しだけで良かったのだ」
市の顔があまりにも。
綻んでいて。
つい、などとは。
口が裂けても言えんが――。
再び桜を見上げれば。
小さく欠伸が出た。
陽気がいいせいか。
警戒心もないせいか。
「……私は少し眠る」
「はい……」
「お前も寝ておくか? ここは小谷だ、敵襲もない」
私は横になる。
桜の花弁を頬に感じながら、目を閉じ夢の世界へ飛び立とうとすると。
頭が抱えられる感触。
驚いてすぐさま目を開けば。
市が私の頭を持ち。
その下に自分の膝を滑り込ませていた。
「い……」
「あ、ご……ごめんなさい……枕があった方が、いいかと思って……」
「よ、余計な事をするな」
私はもしかしたら。
頬が上気していたのかもしれない。
だから慌てて目を閉じた。
「長政さま……」
「……何だ?」
「頭…………撫でて、いい……?」
「私に触れるのにいちいち聞くな」
「ご……ごめんなさい……」
全く。
私達は夫婦だと言うのに。
そんな事で私の許可が必要か?
………………。
………………。
………………。
「……市」
「は、はい……」
「……か、構わぬと言っているのだ」
それでようやく。
市の指が私の髪に絡む。
今日は陽気が良い。
寧ろ暑いくらいだったためか。
たまに私の額に触れる市の低い体温が心地良かった。
実際。
頭を撫でられるなど。
何時ぶりの事か。
「ね……長政さま……」
「何だ?」
「市……こんな時間がいつまでも続けばいいなって、思ってたの……」
「………………」
「隣に長政さまがいて……久しぶりの二人きりで……他に誰もいなくて……」
城を出る前、誰か城の者を連れて行くかと市に提案したら。
断固としてそれを拒否していた理由が分かった。
市は髪を梳きながら。
続ける。
「今、この時を……市の全てを長政さまと共有してる…………時間が止まればいいのに……世界で長政さまと二人きりになれればいいのに」
途端。
私の頬に滴が、落ちた。
目を開ければ。
私を見下ろす市の瞳から。
大粒の涙。
「気持ちも、長政さまと共有できていたら、いいなって……思ってたの……」
私は手を伸ばし。
頬を伝うその涙を拭った。
「泣くな」
「ごめんなさい……市、嬉しいのに……」
「案ずるな。 私とお前は今全てを共有しているだろう、何もかも」
「……え……」
この時間が。
お前と共にしているこの時間が過ぎていく事を。
惜しく思っている。
それはたった今。
不透明だったそれが。
たった今確信できた。
それに。
散り際の桜が美しいと思う事。
誰も連れて来ず、二人で居る事が。
居心地が良いと思う事。
気持ちも。
共有しているのではないか。
だが。
こうして手の届く範囲にお前が居て。
――触れていたいと思い。
その気持ちも。
お前と共有しているだろうか……。
暫く市の膝を枕にし、目を閉じていたが。
何度も何度も首を動かす。
どの位置も、落ち着かず。
結局私は起き上がり。
ふぅと息をつく。
「な、長政さま……? どうしたの……? あ、市の膝枕……だめだった……?」
「……駄目な訳があるか。 あのままではこんな所で何をしでかすか分からん」
「え……?」
「聞き流せ」
後頭部に当たっていた市の腿が。
何とも言えぬ程。
柔軟さと弾力さがあって。
心地良く眠れそうだというか。
……余計気になって眠れぬというか。
太腿、硬いのかな……筋肉がついているのかな……。
などとの市の呟きを余所に。
私が桜の幹に凭れ。
自分の膝に。
強引に市を寝かせた。
「な……」
「眠っておけ。 目が赤いまま帰って私が城の連中に何か言われたら堪らん」
「長政さまが眠れないよ……?」
「構うな。 私も眠る。 横にならずとも良いからな」
微笑んで、“ありがとう”と。
市がゆっくりと瞼を閉じた。
長い睫毛が、よく目立つ。
市の顔にかかる乱れた髪を軽く払い除け。
私も腕組みをし、目を閉じた。
安堵したのは。
ここに誰も居なかった事。
誰も、引き連れて来なくて良かった。
こんな場面。
こんな姿。
誰かに見られて堪るか。
それに。
二人の共有の時間。
……いや。
この薄紅雪だけが。
私達を見ていて。
私達を取り巻いている。
また来年も愛でてやる。
また市を連れてきてやる。
だから。
そのまま黙って。
静かに音を立てずに、花弁を雪の様に。
舞わせていろ――。
「薄紅雪だけが」 |
20080423 |