小さな寝息だけが、宵闇の部屋に静かに響く。
織田の頃感じていた耳が痛いだけの煩わしい静寂は、今は微塵も感じられない。
目は暗闇に慣れてどんな細部も確認できる。
隣の人の睫毛ですら。
どれだけの時が経っているのかなんて分からない。
たった少しだけなのか随分経っているのか。
市は乱れた袷を直し。
両肘をついて隣の人の寝顔を見ていた。
長政さまの、寝顔。
大概二人で同時に寝付けば。
多分市の方が先に夢の世界に飛び立つ。
だから初めてかもしれない。
こうして長政さまの寝顔を見るのは。
ちゃんと見たことないもの。
長政さまの寝顔なんて。
誰も知らないよね。
こんな長政さま。
市だけ、だよね。
怒られるかな。
目が覚めてしまうかな。
隣に寝てる。
市とは数寸先なだけ。
遮るものはなにもない。
手を伸ばせば。
すぐにでも届くのに。
出しては躊躇し。
溜息をつく。
先程から悩む市は。
それでも恐る恐る。
自身の指を伸ばし。
ようやく長政さまの顔に、触れることができた。
起きない。
そっと。
長政さまのその頬を撫でた。
男の人らしい少しだけ弾力のある頬。
頬骨に触れ、顎に触れ。
眠りを妨げないように。
少し硬い、くせのある黒髪。
その前髪が少し額を露にして。
いつもある眉間の皺はなかった。
いつもより角度のない眉。
目を閉じてわかる長い睫毛。
綺麗な線を描く、高い鼻。
形のいい柔らかい唇は。
市を叱責する言葉を発することもなくしっかりと閉じられている。
頬から喉元に手を這わせ。
突き出た喉仏の傍では。
長政さまの鼓動が伝わる。
『万が一、浅井に不穏な動きが見られるようなら貴様の手であやつを討ち取れ』
今、入り込んで欲しくなかったにいさまの言葉。
嫁ぐ前に最後ににいさまに言い渡された、言葉。
市の指に僅かに力が入る。
織田との同盟。
市は質。
間者。
今なら。
浅井長政を討ち取れる。
長政さまを討ち取る。
討ち取ったら――。
討ち取ったら……?
討ち取ったら、この先はどうなるの?
市は、どうなるの?
織田に帰るの?
織田に帰ったら。
市は元の生活に戻るの?
感情のないまま戦場にかり出され。
意味もなく無数の命を奪うの?
嫁ぐ前の生活に戻るの――?
ふいに、涙が零れた。
首元の手は頬を通り、髪へと。
涙が零れる。
市はこの人を失くしたら。
この人の温もりを、鼓動を失くしたら。
きっと、生きてはいけない。
誰でもそう思うわけじゃない。
夫と呼べる人だからじゃない。
長政さまだから。
いつも怒っていて。
融通が利かなくて。
不器用で。
でも。
その瞳が真っ直ぐで。
真っ直ぐに。
市を見ていてくれ、て――。
「え……」
市の手は長政さまの髪の中で止まる。
市は目を瞬かせた。
目を擦って涙を拭った。
長政さまの瞳が真っ直ぐ。
市に向いていたから。
「あ、あの……」
「何故、泣く?」
その掠れた声に怒気はなく。
「ご、ごめんなさい……」
「私は今お前に聞いているのだ」
長政さまの意識ははっきりしているらしく。
市から目を逸らさない。
慌てて長政さまの髪に触れていた手を引こうとすると。
長政さまの手が。
市の手を掴む。
「な、長政さま……」
「泣くな」
息をついて、もう片方の手で強引に市の涙を拭った。
「――好機だぞ」
「え……?」
「私を討つなら、今だ」
頬に包む長政さまの手を両の手で覆った。
懸命に首を振る。
「いや……いや……長政さま、いや……」
「………………」
「もう、二度と……言わないで……」
思わず。
長政さまの首に顔を埋めた。
涙が溢れる。
「長政さまを失くしたら……市は……市は…………」
もう、いや。
考えたくない。
想像もしたくない。
市のある場所は。
市のいる場所は。
長政さまは腕を上げ。
市の腰に絡みついた。
「市」
「……っ……っく…………」
「泣くな。 それでも良いと言ってる」
心地のいい低い声。
市の耳元で囁くように言った。
「いや……いや…………長政さま……絶対……絶対、市……離れないから」
「………………」
「市を……傍に…………いつまでも、傍に……長政さまの……」
「……無駄な心配事ばかりだな、貴様は……」
涙が止まらない市を。
長政さまは黙って抱いてくれていた。
長政さまの香りが。
長政さまの温かさが。
市は、好き。
知らない。
織田でも知らない。
きっと他へ嫁いでも知ることはない。
誰も教えてはくれなかった。
意思と、感情。
もう失いたくない。
市はゆっくり身を起こす。
長政さまは市の顔にかかる髪を退けてくれた。
「どこから……起きていたの……?」
「お前が私に触れた時から気付いていたが」
「や、やだ……」
「やだとは何だ」
恥ずかしくなって下を向いた。
寝ているのをいいことに、長政さまに触れていたこと。
ああ。
市だけの秘め事が持てない。
市は長政さまの隣に再び横になる。
すると。
長政さまは市に向き。
片腕を市の頭の下に。
片腕を市の腰に乗せた。
「重いか?」
「う、ううん……」
見ればすでに目を閉じた長政さまの顔が正面に見える。
いつも仰向けで眠る長政さまなのに。
珍しいその光景に。
市はひどく驚いた。
「お……おやすみなさい」
「早く寝ろ」
は、恥ずかしい……。
こうして向き合って。
鼻と鼻が触れそうなほど近づいて眠るなんて。
息遣いも鼓動もいつもより強く感じてる。
そうね。
これは市だけ。
市と長政さまだけの秘め事ね。
誰にも知ってほしくないもの。
胸がどきどきしてるけど。
市はほんの少し長政さまに寄り。
その唇に。
一瞬自分の唇を触れさせた。
長政さまが瞬間瞳を開ける直前。
市は長政さまの胸に顔を埋め、もう一度“おやすみなさい”と小さく口にした。
今、長政さまはどんな顔をしているのか分からないけど。
ここには誰もいない。
市も見てない。
それは長政さまだけの秘め事。
また、こうして向き合いながら寝てくれないかな、と。
微笑みながら眠りにつくのは。
市だけの秘め事。
「互いの秘め事」 |
20110802 |