僅かな雲もその宵月によって鮮明に浮かび上がる。
瞬く星の中。
欠ける事の無い月が城を照らし、町を照らし。
障子を開け、欄干の傍らで盃を持つ私をも照らす。
髪が靡く。
夜風と。
畳の冷たさが心地良い。
普段より上昇してる体温を下げてくれる。
火照る身体は。
まだ少し汗ばむ身体は。
暑い夜の所為だと思いたい。
酒の所為、だと思いたい。
――何故、だろうな。
いつも見ていた月とは違う気がする。
いつもより丸さを増し。
いつもより明るさを増している気がする。
永劫忘れない気がする。
目に入るもの全て。
月も、景色も、宵も。
特別な、気がするからか。
こんな夜更けなのに。
一向に眠る事の出来なかった私は。
手に持つ盃を口に付け、一気に傾ければ。
再び光り輝くそれを視界に入れる。
背後で衣擦れの音がした。
僅かに聞こえる私の名と共に。
振り返れば。
うっすら瞼を持ち上げ、漆黒の瞳の焦点を私に合わせる、妻。
遮るものの無いその月光はこの広い寝室の真ん中まで照らしていて。
規則正しい障子の影の先の褥。
月を見上げ。
酒を呑んでは。
真白い布団に包まれている妻の寝顔を見ていた。
頭の支えを私の腕から枕に変えても目を開ける事は無かったほどの熟睡。
疲れてたのだろう。
寝返りも滅多に無く。
指一本すら動かさないその寝姿に。
息をしているのか不安にもなったが。
目を凝らして布団の上下の動きを確認すれば。
安堵の息をつく。
そして再び夜空。
酒。
その、繰り返し。
「起きたのか。 寝てて良いのだぞ」
「…………長政さま……ずっと、起きていたの……?」
「構うな。 私もすぐに眠る」
掛け布団を胸に抱え、気だるそうに起き上がる。
市は顔を顰め、小さく呻いた。
「馬鹿者、起きるな」
「う、ううん……」
起きて覗かせたのは。
その布団にも劣らないほどの真白い肌。
私に背を向け、近くに放られていた寝着を手にし。
月明りに照らされなお白さを増すその肌に羽織るが。
私は咄嗟に市から視線を逸らし、空の盃に酒を注ぎ。
呑み干した。
市の髪が長く腰まであり、背が全て見えないのは助かるとしても。
その身体の線までは消せない。
市に気付かれない様に舌打ちをした。
せっかく身体の火照りをなくしたと言うのに。
また再発しそうだ。
身体の火照りと。
顔の火照り。
市の口癖ではないが。
こればかりは、貴様の所為だ。
市が寝着に身を包み。
私の傍へと座り。
銚子を持てば、盃に酒を足す。
「長政さま……月が、綺麗だね……」
「……ああ」
微かに笑っている様にも見える、市。
睫毛が影を落としている。
長いな、と密かに心の中で再認識した。
二人が未知の領域に踏み出した今宵。
距離が縮まり、壁が無くなり。
互いに全てを曝け出した。
ただ。
その最中に何度か市が顔を顰めていた。
「……い、痛むか?」
思い出したのか。
一気に顔が赤らむ。
この月明りでも分かるくらい。
「だ、大丈夫……」
「……す、すまなかったな……」
何故かまともに市の顔を見る事は出来ず、会話も円滑に進まない。
よくよく考えれば、何も火照る必要など無いのだ。
謝る必要など無いのだ。
子を成す為の営み。
夫婦としては当然なのだから。
「ち、違うの……」
市が精一杯首を横に振る。
「悪くないの……長政さまは、全然悪くない……謝らないで……?
あ、あのね……市……」
俯いて。
自分の袂を弄る。
「う……嬉しかったの…………嬉しくて、言葉にならないの……」
「馬……っ! た、大した事では無いだろう!」
「……市にとっては……大したことだよ……」
「………………」
「長政さまに近づきたかったから…………」
――それは。
そうは言ったものの。
私にとっても。
市の全てを知る事は大した事には、なる。
果たされた、以前交わした、契りの約束。
思い出された先刻までの閨事。
初めて肌を合わせれば。
市は相変わらず涙を流し続け。
私の名を呼びながら、私の首に回した腕を離さなかった。
「あの……え、えと……長政さま……背中、痛くない……?」
「背?」
そう言えば。
背が少しだが痛んでいた気がする。
「ご……ごめんなさい……」
市は真っ赤に頬を染めたまま。
「一体何だ?」
「あの……その…………市が爪を立ててしまったから……」
市の赤らみが伝染したかの様に、また顔が火照る。
「……か、構わん。 こんなもの痛みの内に入らない」
「ごめんなさい…………」
「あ、謝るなと言っているだろう!」
かえってこちらが気恥ずかしくなる。
頼むから謝るな。
再び盃の中を喉の奥に押し込んだ。
「ねぇ、長政さま……」
「何だ?」
「市は……これからずっと……ずっと長政さまの傍で眠れるの……?」
「そう言っているだろう。 何度言わせるのだ」
「市ね……寝る前に必ず長政さまに“おやすみなさい”を言って眠りについていたの……」
「……は?」
「でも……でも、今度からは……長政さまに直接言えるんだよね……」
月光に照らされ顔を見られたくないのか、恥ずかしそうに俯いて笑う市。
確かに私も寝る前には、考えていた。
私達の今後など……。
考えすぎて眠れない夜もあった。
一人で床についていた夜。
それが今はこうして。
手を伸ばせば届く位置にいる。
『……不安か?』
褥の上。
いつかの質問。
再度市に問いかけた。
また答えを聞けぬかもしれぬ。
それでも良いと。
答えを待たず、その漆黒の長い髪を耳にかけ。
市の顔に顔を近づけようとした時。
か細く。
『………………怖い……』
ぎゅっと瞳を閉じる市の肩は僅かに震えていた。
『触れられて……長政さまに嫌われるのが怖い……』
ひどく驚いて市の顔を覗き込んだ。
愚かな女だ。
恐れる事などある筈も無いというのに。
身体が重なる。
体温の低い市に自分のを分け与えるように。
自身が昂ぶれば、それが伝染するかのように。
市の肌も徐々に朱に染まる。
固く閉じた瞳からは涙が流れ。
震える手は私の手と絡み合い離れる事は無かった。
その後は事を終え、互いの気持ちと身体を確認し合った乱れた褥の上で。
先程まで長い睫毛が影を落とし。
市は薄く口を開け、静かな寝息を立てていた。
最後の酒を飲み干し。
盃を畳の上に置いた。
「私は寝る。 お前ももう寝ろ」
「はい……」
立ち上がって布団に向かう途中。
「あっ……!」
市の声。
振り返れば。
妻の立ち上がれず蹲る姿。
「だ、大丈夫か!?」
「だ……大丈夫……」
市の肩を掴み、その顔を覗く。
大丈夫な訳が無いだろう。
青い顔をして。
仕方なく。
「な……っ」
市を抱き抱え。
布団まで連れて行った。
「ご、ごめんなさい……」
「謝るな」
市の顔を見ずに言う。
その一因は……私にある。
市を布団に下ろし、私もその隣に寝ようとするが。
布団を捲くろうとする私の手を市が制した。
「あ……!、の……長政さま……」
「何だ?」
「あの……あの……」
「早く言え、何なのだ」
「お、布団……汚しちゃって……」
何だ。
何を言い出すのかと思ったら。
「構わん、そのままで」
「でも……洗わないと」
布団に入らずぐずぐずする市の腕を掴んで。
強引に寝かせた。
「朝で良い。 もう寝ろ!」
「は、はい……」
横になる市の頭の上で腕を伸ばした。
枕は私が使う。
お前は。
「は、早くしろ」
ようやく私の考えが理解できたのか。
市は頭を浮かせ。
私は腕をその下に入れた。
「やっぱり……市の頭、重くない……?」
「重くなど無い」
擦り寄る市は笑みを浮かべ。
私の懐を掴む。
「市……嬉しい」
咳払いをし。
市の肩を掴む。
初めて結ばれた褥は。
いつもと違う温かさで。
「……おやすみなさい」
「……ああ」
市の言葉に。
何故か素直になれる事は出来ず。
自分でも分かるほど。
頬が熱くなり。
素っ気無く答えてしまった。
程無くして市の小さな寝息が聴こえた。
私は目を開け、部屋の薄暗い天井を見た。
最後までするつもりは無かった。
終始目を閉じ歯を食い縛り、痛みを堪える姿。
市の容姿や年齢から見て、情交を知らぬとは思わなかった。
正直、驚いた事は否めなかった。
だが、それと同時に。
心の底から震え、心の底から芽生えた。
独占や征服等の欲が私を占めた事も。
否定は出来なかった。
首を傾け妻の顔を見た。
長い睫毛は下を向いたまま。
私はそれを良い事に。
それの額に唇を寄せた。
破瓜の痕跡を心配する必要など無い。
私にはそれが――。
もう良い、切りが無い。
思考を止め、そのまま私は目を閉じ。
市の肩を。
力強く抱き。
私も吸い込まれる様に、深い眠りに誘われた。
開け放たれた障子の遥か向こうの。
全てを見ていた、眩しい月明にふたり包まれながら――。
「双瞳の焔 番外章 -月明-」 |
20101208 |